かすかだったが、歓声が聞こえた気がした。振り返る。
 体育館越しに、グラウンドがあった。野球部が試合をしているらしい。
 この時期からすると、新入部員を交えた紅白戦ってとこか。
「あんなところにいたのね」
 水影も、窓のほうを向いていた。なんのことかと思ったが、すぐにわかった。
 グラウンド脇、場違いな学生服姿が二人いた。遠くてみわけがたいが、囲夫と湯船だろう。
 試合のほうは、誰かがヒットを打ったようだ。点数はどうだろう。
 スコアボードを確認しようとしたが、見えなかった。並木の茂みに隠れている。枝が高い位置にあるので一階の理科準備室からは見えたが、ここからは無理だ。
 校庭の手前には体育館がある。ここより西の教室からも、スコアは体育館に隠れて見えないだろう。というか、特別教室棟そのものが東端にあるから、校舎内でスコアが見えるのは理科準備室だけだったんだな。
「これで、私の話はおわり」
 でましょうか。水影が俺のほうに目で合図した。図書室のほうへ行こうとして、足をとめた。
「これ、どうします?」
 暗黒史を掲げる。
「おっとっと」くるりと水影が振り返る。
「忘れちゃダメね。戻しといてくれる? ついでに鍵もしめちゃって。あ、そうそう」
 水影が財布をとりだした。黒猫のキーホルダーがついた鍵を、俺に渡した。
「私、明日はちょっと用事があるから、すぐには図書室に来れないの。ロッカーの鍵、預かってくれる?」
「はあ、わかりました」
 まだ入部、いや、入班すると決めたわけじゃないんだがな。腰を落とす。ロッカーに暗黒史を戻し、扉を閉めかける。
 ふっと、白いものが目についた。
 上の段の奥、なにかある。小さく畳んだ、ハンカチのようなもの。
(白い……スカーフ)
 美少女探偵。
(――ひょっとして)
 学年のわからないスカーフをして、幾多の難事件を解決してきた名探偵。あの白いのは、スカーフか? だとすると?
 待て、落ち着け。状況を把握しろ。
(このなかに、伝説の真偽を確かめる材料が眠ってるってのか? 俺はいま、この玖乃杜高校に秘された秘密組織の謎を解き明かせる立場にあるってのか――?)
 ……激しくどうでもいい。
 バタン。扉を閉めると、思いっきり強く南京錠で施錠した。

 図書準備室をでると、水影が誰かと話していた。
「あ……」
 セーラー服が、こっちを向く。小さく口を開いた。
「こちら、寒桜未緒さん。知ってる?」
 水影が俺に紹介する。まあ、知ってはいた。
「未緒さん、先生の用事は済んだの?」
「はい、すみました……」
 眼鏡をかけたその女子は、小さくうなずいた。ミーちゃん、囲夫の双子の姉だ。
 仏頂面、ではなかった。不安そうな瞳で、おどおどしている。いまどき男子と会話することにとまどう女子などいるはずもないが、目の前にいるのは少数の例外なんだろうか。
 考えてみると、声を聞くのは初めてだ。男と女なんだから当たり前だが、さすがに声はぜんぜん違う。
 などと思っていると、急に未緒は逃げるように身を翻した。書架の森へと、後ろ姿が消えていく。
「ロッカー、ちゃんと施錠した?」
 呼びかけられ、俺は水影のほうを向いた。
「しましたよ」
 なんか、同じようなやりとりを少し前にもしたような……。
「この後、なにか用事は?」
 さて、どうするか。もっかい寝ますとはいいにくい。
「特になにも」
「なら、囲夫君と湯船君が戻ったら、新入生同士で自己紹介。ついでに、最近読んで面白かった本についてトークでもしてもらおうかな」
 今更、囲夫と湯船に自己紹介してもな。
 ん? 違うか、もう一人いたな。いま、本棚の迷路にいる女子。
「了解」
「では」
 これで話は終わったらしい。水影は、廊下側のほうの机に着いた。机の上に鞄があり、教科書やノートをとりだした。勉強をするつもりらしい。
 俺も、宿題を片づけるか。窓際の机の椅子に座りながら、携帯電話の時刻表示を確かめる。ちょうど午後四時半だった。

 宿題を始めてから数分後。俺は、自分が馬鹿なのに気づいた。スコアを確認したければ、簡単な方法があるじゃないか。
 内ポケットから携帯電話をとりだす。通話履歴から、目的の番号を選んだ。
「はい?」
「あ、囲夫か? 俺だ、花房」
「え? あ、花ちゃん?」
 トランペットだろうか。受話器越しに、校歌のメロディが聞こえた。紅白戦で応援演奏って、どっちの応援をするんだ?
「やられたよ。いま、第二図書室だ。わかるか?」
 椅子から立ちあがり、窓のほうを向く。大きく手を振ってみせる。
 小さくてみつけづらかったのだろう。かなり遅れて、グラウンド脇にいる学生服姿が手を振り返した。湯船らしき姿もあわせて手を振る。
「あ、そうか。部長さんと会ったんだね?」
「正しくは、班長さんだな。図書班の紹介を受けたとこだ」
 手を振り続けるのも疲れるので、窓から離れ机に戻った。
「どう? 面白そうと思わない?」
 いまにもクスクスと笑いだしそうなくらい、囲夫の声が明るい。
「んー、まあ、どうすっかな。そっちでやってるのはなんだ。紅白戦か」
「うん、そう! 新入チーム対、上級生チーム」
「なら、上級生チームのほうが勝ちそうなもんだな。得点はどうだ?」
「え? あ、うん、エート、ちょっと待って……」
 少し間があった。スコアを見れば、すぐわかるだろうに。
「スコアはね……三対二、上級生チームが勝ってるね。でも、新入部員チームのほうに主力メンバー入れて、調整してるから」
「そうか……話は変わるが、水影先輩、おまえら戻ってきたら、新入生同士で自己紹介でもしようってさ。俺は宿題でもしてるから構わんが、下校時間前には戻ってきてくれ」
「了解」
「じゃな」
「うん。また後で」
 なぜか突然、暗黒史のことを思いだした。
 文学部で内紛を起こし、SF研を設立したとかいう二十年前の先輩達。よくまあ、そんな面倒なことをしたもんだ。仲間とも教師とも喧嘩して、不自由な場所で理不尽な縛りを受けて。
 好きな小説を書きたければ、勝手に一人で書けばいいだろうに。三年経てば、どうせ卒業だろうが。どうしてそう、よけいな情熱がありあまってるやつばかりなのかね。
「アー、囲夫」
 切れかけた通話に待ったをかけるように、あわてて声をかける。
「なに?」
「昨日は、すまなかったな」
「なんのこと?」
「いや、いいんだ」
 誘ってくれて、ありがとうな。
「じゃあな」
「うん」
 通話を切る。水影も、誰かと話をしていたらしい。携帯電話を机の上に置くところだった。
 目を閉じる。少しだけ、頬が熱い。
 瞼を開く。よし、さっさと宿題を片づけるか。