図書準備室は、狭い部屋だった。いや、床は広いのかもしれないが、物が多すぎる。
 壁を埋める書架、机といわず床といわず積まれた本、部屋の真ん中に鎮座する作業机。
 セロハンテープ、押し切り、でかいホチキス、万力、木槌。あれはなんていうのか、パンチ穴を開ける器具。散らばってる文具や工具類の名前をあげていくだけで日が暮れそうだ。
「隣の部屋は、なんですか? 図書室なら、北棟にもあるってのに」
 玖乃杜高校はここ数年、棟を増築している。特別教室棟という名前にはなっているが、一部の特別教室は北棟へ移動している。この棟は、数年後にはお役ご免で取り壊しになる計画らしい。
「一言でいうと、書庫ね」
「書庫?」
 ぽん、とデスクトップパソコンのモニタを水影は軽く叩いた。周囲のものはほとんど埃をかぶっているが、その液晶ディスプレイだけは真新しい。
「広さが足りなくて、図書室には置けなくなったものを置いているの。貸出頻度の低い本、貴重な本、購入したばかりでラベルやブッカーの貼ってない本、購入はしたけれど内容が高校生に不適切だと判明した本。いろいろよ」
「閉架ってことか」
「そういうこと。図書室の端末でも、このパソコンからでも、蔵書検索ができます。校内のLANにつながってるの。置き場所が〈第二〉になっている本は、隣の部屋にあるわ」
 チャイムが鳴った。
 普通は六時限目で授業終了だが、補修を受ける者のために七時限目と八時限目もある。そのため、放課後でもときどきチャイムが鳴る。
 水影は窓際へ足を進めた。普通のカーテンだけではなく、暗幕もある。カーテンと暗幕をたぐりあげると、膝下までくらいの高さのロッカーがあった。
 南京錠があった。といっても、いまは解錠された状態だ。
「期待しないでね。大したものが入ってるわけじゃないから」
「鍵をかけているのに?」
「昨日まではかけてなかったわ。今日、囲夫君が持ってきてくれたの。物置に似たようなのが二、三個余っていたらしくて」
「学校のと、ほとんど変わらんな」
「見分けがつかないわね。いちばん安いタイプなのかも」
 扉を開く。上下に棚が分かれていた。
 上の段はほとんど空だ。下の段に、本があった。卒業文集のような、装丁が簡素で薄い本だ。
「フフ……隣が閉架書庫なら、これは玖乃杜の禁書図書館かな……私の話を聞きながら、適当にめくってみてくれる?」
 渡された本は、ところどころ変色していた。ずいぶん古そうだ。
 表紙には〈玖乃杜暗黒史〉とあった。

 編集後記や奥付によると、この本は二十年以上前、今はなき新聞部が秘密裏に作ったものらしい。校内七不思議だの、生徒会副会長のカンニング事件だの、真偽不明かつ憶測たっぷりな記事が入り乱れていた。
 そのなかのひとつとして〈文学部内紛事件〉と題された記事があった。
 文学部は、いまもある。それどころか、玖乃杜高校の文学部は、全国的に名の知られた存在だ。年に二回でる会誌を読めば、すぐにわかる。平安時代の古文で書いた小説だの、東南アジアでの無一文旅行記だの、高校生レベルを超えた小説が並んでいる。
 その文学部で、二十年以上前に内紛があったという。
「私の話だけだと、信じられなかったでしょう?」
 水影が、微笑んでいる。
「……まあねえ」
 俺は〈暗黒史〉をパラパラめくっていた。
 当時の新聞部は、これを冗談で作ったのかもしれない。ゴシップ記事満載の女性週刊誌やスポーツ新聞のノリで作ったのだろう。
 だが、まったく根も葉もない創作とは思えない。少なくとも、水影が俺をだますためにこんなものを作った可能性はゼロだ。あまりに手が込みすぎている。
 記事の内容はこうだった。二十年前、文学部の会誌にSF作品が登場した。それが原因で内部分裂が起きた。純文学でもSF的な趣向をとりいれた作品があるとは聞く。だから、別に初めからSFが問題視されていたわけではないらしい。
 文芸部では、合評会で作品を部員間で批評する。あるとき、SF設定の作品を巡って意見が真っ二つに別れた。どう考えても、科学的におかしい描写がある。その批判に対し書き手は、SF設定はあくまで文学的表現の一手段に過ぎないと反論した。
 これをきっかけに、文学部内で派閥ができていった。文学を優先する一派と、厳密な科学的考察をすべきと考える一派だ。紆余曲折の末、少数派だった後者は文芸部を集団で退部した。SF研究会を組織し、独自の会誌を作るようになった。
 だが、SF研究会には問題があった。同好会を新しく作るには、顧問の教師が必要だ。しかし、文芸部の内部分裂という経緯を知っていた他の職員は、誰も顧問になろうとしなかった。しかたなく、SF研究会は非公認の集まりになった。予算も部室も無く、それでも数年は継続したらしい。
 だが、文学部との因縁が災いした。保守的な文学部と対立するかのように、SF研は前衛的であろうとした。都内での、同人誌の頒布イベントに参加したらしい。それが健全な高校生らしくないという理由で、SF研はついに強制解散となった。
 助け船をだしたのが、当時の物理教師だった。その男性教師はSF研のメンバーに入れ知恵し、図書環境整備班を組織させた。
「本来、班とは」水影は説明した。
「委員の下位組織です。委員の人手が足りないとき、教師が他の生徒を臨時に集め、手伝いをさせることができる、というものだったの。けれど文学部の内紛より更に前、その制度に生徒から批判が集まりました。教師が私たちを手足のように働かせるとは何事か。生徒は勉学が本分であり、自主的な活動ならともかく、命令をきく義務はない――そんな感じだったみたいね」
「学生運動みたいなものか」
「恐らくね。とにかく、生徒手帳の記述は変わりました。班は自律的、自主的な活動の場であり、教師はそれに意見を提案するだけ。物理教師はこの制度を利用して、SF研を救済したの」
「てことはなんだ。けっきょく図書班ってのはなにするんです? この図書室で埃にまみれて蔵書整理か? それともSF小説を書かにゃならんのか?」
「名前って、こわいわね」
 斜めに射しこむ陽射しは、水影の膝までしか届かない。
「自分達なりの志を抱いてSF研の人達は頑張ったでしょう。でも、学校という場所は、次々と人が入れ替わっていきます。図書班という集団が組織された経緯を知っている人は、教職員でもほとんどいない……」
 なぜか、殿村の顔を思いだした。
 あいつは、この学校で教師を何年やっている?
「設立当初の図書班は、教職員からも一部の生徒からも冷遇を受けたみたいね。勧誘行為をしてはいけないという決まりも、そのひとつ。でも、正直なところ詳しいことはなにもわからないの」
「なぜですか?」
「記録が無いから。この〈暗黒史〉も、無理を言って先輩に譲ってもらったものなの。そのひとはいま、海外にいるわ」
 静かに、水影は微笑んでいる。さっき感じた不穏さが、なぜかこの埃臭い部屋では、きれいに消えていた。
「自主的な活動、それがすべてです。部屋、書架、パソコン、ロッカー。表向きに明かせる資源はすべて見せました。後は、あなたの判断です」
 表向きには明かせない資源があるような口振りだな。
「好きなことをしろ、と?」
「それは語弊があるかな。図書環境整備班という名称がある以上、あまりそこから離れたことはできません。公序良俗、学生の本分もお忘れなく。一部の先生達からは、理不尽な制約を受けることもあります。有限の設備、有限の時間、ある程度の不自由。その上で、あなたがしたいことを、できるかぎりしてください」
「………………」
「さっきも言ったけど、私はあなたを勧誘できない。私にできるのは〈紹介〉まで。ここからは、花房君の判断次第」
「班であって、部じゃないから、だな」
 そゆこと。水影が軽く答えた。