南棟の階段を下りかけたときだった。水影が急に、足をとめた。
踊り場の窓から、特別教室棟が見える。俺も、水影と同じ方向に目をやった。
「囲夫君と湯船君ね」
そのようだ。あそこは、三階の廊下だ。
あの背中は、殿村か? 距離がある上に、窓越しなのでわかりにくい。もう一人、誰か女子がいるようだが……。
水影はあまり気にならないのか、さっさと階段を下りていく。俺は、後を追った。いったん一階へ降り、渡り廊下のほうへ。やがて特別教室棟に入った。
高校生活には慣れたか、授業にはついていけそうか。そんな、いかにも上級生と下級生らしい、当たり障りのない会話を続けた。
「そういえば、こんな言葉は知ってる? 〈玖乃杜モノクローム〉という言葉」
一瞬だけ、水影が振り返る。唇から白い歯がわずかに覗いた。
「いや、初耳です。語呂のいい単語ですね」
そうね。長い髪を払いながら、水影は小さくうなずいた。
「意味はあまりよくないけれど」
「どういう意味なんです?」
「モノクロって、色が無いでしょう? 灰色。灰色の学校生活」
ああ、なるほどね。
玖乃杜は、県下有数の進学校だ。野暮ったい学ランと古くさいセーラー服は、上の世代の大人達ほど信頼の目でみつめてくる。同時にそれは、他の学校の生徒にとっては揶揄の対象でもある。
あんなとこに入っても、面白いことなんてなにもない。そういう意味なんだろう。
「最近は、もう言わないのかもね」
「そうですね」
――寝てるだけのあなたに、ぴったりの言葉ね。
黒髪の後頭部から、そんな声が聞こえた気がした。
階段を上がる前に、なんとなく理科準備室のほうへ視線を走らせた。扉には、南京錠がかかっている。六限目の後、囲夫に頼まれ施錠したときのままだ。
二階へ。第二図書室というプレートがあった。ほう、こんな部屋があったのか。
「まだ……戻ってきてないのね」
先に入った水影が、室内を見渡していた。多分、さっき三階にみかけた囲夫と湯船のことだろう。
図書室といえば、確かに図書室だった。カウンターがあり、詰めれば六人は座れそうな机があり、天井までとどきそうな書架がある。
しかし机は二つしかなく、誰もいなかった。普通なら進学校らしく、勉強に励む学生がいるもんだが。
代わりに、ほとんどが書架だった。奥行きからすると、床面積の三分の二はあるだろう。
「やっほー!」
ガラッと扉の開く音がした。振り向くと、入り口に見知らぬ女子が立っていた。
祖父母に全力でサヨナラをする孫のように、思いっきり片手をあげて左右に振っている。
「やっほー、甘宮さん」
静かな口調で水影が応じた。
「あのね、星子ちゃん、二つ伝言」
見知らぬ女子はこちらへVサインをビシッとつきつけ、それから手でメガホンを作った。
「殿村先生がね、廊下でバドミントンするなって」
「それはもっともね。でも、私はした覚えないけど?」
「ちっち、話を急いじゃいけないぜお嬢さん」
甘宮は片方の瞳を閉じ、唇の端をぐぐいとあげた。一本指を立て、ワイパーのように振る。
「おたくんとこの新入部員二人も、現行犯お説教だったんだぜい!」
たぶん、囲夫と湯船のことだろう。そうか、南棟から見えたのは、そういう光景だったのか。なにやってんだ、あいつら。
「まあ、誘ったのは私だったんだけどね! ねえ、そっちでわかりやすく呆れ顔してるの新入部員?」
「どうかなあ? 花房君、どう?」
バドミントン部に入るつもりなら、ありません。わかりやすい呆れ顔で俺は言った。
「甘宮さん、ちょっと話を整理させて。ここにいた囲夫君と湯船君をあなたが誘って、上でバドミントンをしていたのね?」
「うん。殿村にみつかんないように三階でやってたけど、羽根が階段のほうへ落っこちてさ。それ取りにいったタイミングどんぴゃしゃりで殿村来たの。予知能力者みたいで笑っちゃうね」
あはははは。本当に笑いだした。気持ちのいい朗らかな声をしている。ウーム、ちょっとバカっぽい人だが、憎めない人だ。
「エスパー殿村ね。二人はどこへ?」
「さあ? トイレかな? 私は美術部でお昼寝活動してくるよ! 陽射しポカポカだしね! どうせだから新しい部にしちゃおっか! 私、昼寝部の創設者として後世に名を残すよ! あれ? そこの新入生、どうして頭を抱えてうずくまってるの?」
ちょっと気分が悪くなりましてね。ええ、ハイ、気にしないでください。
「そんじゃね、バイビー!」
「甘宮さん、もうひとつの伝言は?」
扉を閉めかけた甘宮が、ポカリと自分の頭を拳固で叩き、小さく舌をだした。確信はないが、三次元でこんなしぐさをナチュラルにする人を、俺は生まれて初めて見たように思う。
「んーとね、とどがつまるとね。なに! トドが詰まる! これは珍事件だ!」
「とどのつまり」
「騒ぎを起こすなってさ!」
「あら」
水影は、長い黒髪を後ろに払った。薄く笑みを浮かべている。
「それは難しいわね」
「むずかしいわね! にひひひひ!」
「にひひひひ」
ほんじゃバイビー! にぎやかな上級生は、今度こそ扉を閉めて姿を消した。
今の人も、図書班の? 俺が訊ねると、水影は小さく首を左右に振った。
「美術部員。この上がね、美術室なの。クラスが同じだから、ちょっと知り合いなだけ。ぜひとも欲しい逸材だけど……」
こういう偏見はよくないが。
読書をする人には見えなかったぞ。
「さて、と」
しきりなおすように、水影は小さく手を打った。
「それでは、本題に入りましょうか」
カウンターの奥、窓際にある扉へ、水影は歩いていく。図書準備室への扉だ。