楠木先輩は、いい先輩だ。初めて会ってから一ヶ月も経ってないけれど、それは間違いない。絵の技法はもちろん、授業や学校生活でわからないことも親身になって教えてくれた。なにより誰かさんと違って、まじめに創作活動している。
強いて言うと、少しまじめすぎるのかもしれない。考え方が窮屈という意味ではなくて、考えすぎてしまうという意味で。普通ならボンヤリ見過ごしてしまうものでも、細部を観察し、多くのものを読みとる。意識してそうするんじゃなくて、本能的にそうしてしまう。普通の人より受けとる情報が多いから、それを自分の一部にするのに時間がかかる。世界に美しさを見いだせる人は同時に、世界に圧倒されてしまう。
けれど僕は、そんな瞳にあこがれる。この人のように、世界を視てみたい。
体調不良らしく、宮地先生は休みだった。放課後、僕は職員室で鍵を借り、美術室と美術準備室を開けた。
職員室に鍵を返して美術室に戻ると、入れ違いで甘宮先輩と楠木先輩が来ていた。僕はイーゼルをとりに美術準備室に入った。昨日はできなかったけど、今日はちゃんと活動しよう。
棚のものが目に入った。ここも、ごちゃごちゃだ。ティーカップにポット、いろんな種類の紅茶。インスタントコーヒーが切れかかってる。先輩たちも宮地先生も飲んでるとこ見たことないのに、誰が飲んでるんだろ。いくらなんでも、学校にトランプやチェス盤が堂々とあるのはまずくないかな。
そんなごちゃごちゃのなかに、葉巻のケースみたいな、プラスチックの平べったい直方体があった。
(これ、いいよなあ)
手にとる。上面のでっぱりを引き上げると、レンズが顔を見せる。ポラロイドカメラだ。なんていうか、ギミック感がここちいい。
(……やば)
後ろのほうに、フィルムの残枚数を示す窓がある。いま、そこはゼロになっていた。
気配がした。振り向くと、楠木先輩が美術室側の扉から入ってきたところだった。僕が手にしているものを目にする。
「甘宮先輩、またフィルム使っちゃったみたいですね」
苦笑しながらカメラを元の状態に戻し、棚に置く。楠木先輩が、小さくウンと答えた。
「大丈夫かなあ。宮地先生に、謝っておいたほうがよくないですか?」
「そうね……」
ちょっと困ったような顔で、楠木先輩はうつむいている。いやいや、先輩は悩まなくていいですよ。悪いのはもう一人の先輩のほうなんですから。
イーゼルを手にする。楠木先輩は、本棚のほうへ向かった。画集や美術誌のバックナンバーがたくさんある。
「あの、姫百合君」
美術室への扉に手をかけたところで、声をかけられた。
「話しておきたいことがあるの」
「なんですか?」
しばらく、ためらうようにして楠木先輩は唇を強く閉じていた。それから、思い切ったように顔をあげて言った。
おソメさんが死んだのは、私のせいだと。
雨の日。楠木先輩は甘宮先輩と一緒に駅へ向かった。橋の手前、道路の反対側におソメさんの姿をみつけた。
いつもなら、おソメさんは河原にいて、遊歩道やそれより遠くへはやってこない。それがどういうわけか、その日は橋の上にまで来ていた。
自分の世界を広げようとして。
道路の向かい側に、いつか餌をくれた人をみつけて。
「私、なにも考えずに……おいで、て」
トラックが、通り過ぎた。小さなモノが、残された。
いのちを失った白い身体が、雨に打たれて横たわっていた。
「ごめんね。私、やっぱり、姫百合君には話さないといけないって。そう思ってたのに、昨日も言えなくて……」
とっさに返事ができなかった。昨日、沈うつな表情をしていた楠木先輩を思いだした。そうか、あれはそういう意味だったのか。
「いや、そんなの気にしなくていいですよ。僕はどうでも。ていうか、おソメさんが死んでしまったのも、事故でしょう? 先輩はなにも悪くないですよ」
同じようなことは、きっと甘宮先輩も言っているだろう。僕より百倍元気な調子で。
それでも、たとえ百分の一でもいいから、この人を元気づけたい。僕にはわかる。この人はきっと、考えすぎてしまう人だ。
「うん……そうだといいけど」
「もちろん、そうですよ。おソメさんが死んじゃったのは悲しいですけど、どうにもめぐりあわせの悪いことってあるじゃないですか」
この世界が美しい法則に満たされているなら。
ただの、運の悪い巡り合わせなんて、あるんだろうか。
「ごめんね、暗い話しちゃって。その……」
なにかまだ言いたげに、楠木先輩は視線をさまよわせた。やがて軽くうつむくと、動かなくなった。
「ほら、暗い顔してると、僕が怒られますから。甘宮先輩がここにいたら、僕は今ごろ裸踊りでもしろって命じられてますよ」
楠木先輩が、きょとんとした表情になった。そして、少しだけ微笑んだ。
うん、確かに、冗談じゃなく甘宮先輩はそう言うだろうなあ。