橘は休みだった。ただし、自習にはならなかった。
 代理の教師が来て、物理実験はとどこおりなく進められた。俺は幸い――幸い? とにかく囲夫とは別の班になり、会話の機会は無かった。
 話しかけられたのは、授業が終わった後だった。
「花ちゃん、ちょっと頼まれてくれる?」
 つつがなく五十分間の授業が終わり、ひきあげようとしたところで囲夫に声をかけられた。
「ん? どうした?」
 身構えながら――ん? 身構え? 俺は身構えてなどいない!
「さっき先生に、片づけ頼まれてさ。理科準備室の鍵、しめてきてくれる?」
「ああ、了解」
 ナーンダ。そんなことか。俺はてっきり。
「窓の鍵とかも見てきてよ」
 わかってるって。俺は軽く手をふって、ノートの類を片手に廊下へでた。準備室は、理科室の隣にある。
 特別教室棟は、建物が古い。別に木造校舎ってほどではないが、廊下の暗さや壁のひび割れが気味悪い。
 扉は木製の引き戸だ。上半分にガラスが嵌められているが、磨りガラスなので室内はぼんやりとしかわからない。開けるとガラガラと音を立てる。
 普段なら橘がここにいるはずだが、今日は休みだ。事務机に、知らない映画女優の写真立てがあった。奥へ進む。窓の手前に背の高い戸棚があるので、奥へ進まないと窓を確認できない。フラスコやビーカー、木槌なんかが転がっている。理科準備室らしい光景だ。
(フム――)
 窓はすべて閉まっていた。校庭の東端にあるグラウンドが望めるが、いまは誰もいない。スコアボードは、ここからだと数字が豆粒のようだ。そういえば、囲夫は視力が二・五だとか言っていたから、わかるのかもしれん。
(――問題なし、だな)
 理科室への扉の鍵が開いていた。ドアノブのつまみを水平にして施錠する。廊下側の扉の脇、フックに南京錠がぶらさがっている。俺はそれを手にとり、廊下へでた。
(しっかし、本当にこんなんでいいのか?)
 手にしたそれを、ためつすがめつする。金色の、どこでも市販されてそうなありきたりの南京錠だ。
 どういう事情かは知らないが、特別教室棟はすべてこれだった。準備室と理科室との間のように、一部は普通の鍵もある。だが、廊下に面した扉はすべて南京錠で施錠している。
 扉を閉め、金具をかける。輪っかのとこに南京錠のU字部分を通し、ガチャン。以上、終了。
(――しっかり鍵をかけましょう)
 不意に、妙な文句を思いだした。
 なんだっけ? ああ、そうだ、挑戦状だ。なんだろな、あれは。
「やあやあやあ、もう済んだ?」
 片手を挙げた囲夫が、どっかの大統領みたいに悠然とした足どりでやってきた。その隣、湯船が不思議そうな顔で俺をみつめている。
「花房君、どうして飛び跳ねたの?」
「な、なんでもない! 俺は驚いてなどいないのだ!」
「ゴキブリでもいた?」
 それよか花ちゃん。囲夫は、たったいま三時のおやつを食べてきましたとでもいうように、満足げな笑みで俺に訊いた。
「ちゃんと鍵かけた?」
「おうよ」
「窓は閉まってた? 隣の部屋への扉も?」
「ちゃんと見たさ」
「秘密の抜け穴は?」
「あるのか?」
「無いよ。シガニー・ウィーバーは元気だった?」
 一瞬、なにを言っているのかと思ったが、すぐにわかった。事務机の、あの写真立てか。
「シガニー・ウィーバーは、ソバージュじゃなかったか?」
 エイリアンを観たの? と湯船が訊いた。
 ソバージュってなに? と囲夫が訊いた。