それを目にしたとき、僕は中学生だった。レオナルド・ダ・ヴィンチが、水の流れを描いた素描。複雑な流れが線だけで表現されていた。
 しばらくして、遠足で隣町の公園に行った。芝生と雑木林の狭間を、細い流れが通っていた。コンクリートで固められた水路に、僕は美しいものをみつけた。あの素描と出会っていなければ、見落としていたもの。これまでの毎日で何度も目にしながら、ちっとも気づかなかったもの。
 幼い頃から、絵を描くのが好きだった。真っ白な画用紙に覆いかぶさって、夢中になって手を動かしていた。頭の中にあるものを、なんとかそこに写そうと四苦八苦していた。
 けれど違った。本当にすばらしいものは、すぐそこにあるんだ。水の流れ、蝶の羽ばたき、風に揺れる木々のざわめき、暮れてゆく空。うまく言えないけど、いろんなものが大きくて精密な法則に支配されていて、それはどんな細部にだって現れる。
 僕は、それをみつけるだけでいいんだ。

 ごちん。
 肘がぶつかって、壁に立てかけてあったなにかが倒れてきた。おでこのど真ん中にヒット。大人でも乗れそうな、プラスチックの赤いソリ。ここ、美術準備室のはずなんだけどな。
「いてててて……」
「大丈夫?」
 隣から声がした。心配そうな表情の楠木先輩が立っている。
「ええ、大丈夫ですよ。しっかし、なさそうですね」
「ごめんなさい。あると思ったんだけど……」
 いえいえ、いいんです。僕は明るく答えながら、埃っぽくなった学生服を手でたたく。ここは、倉庫だ。といっても美術準備室の隅にある小スペースに過ぎない。天井まで届く棚があり、卒業していった先輩たちの作品や、わけのわからないガラクタが押し込まれている。
「やほほーい! 亜里砂ちゃん! 姫ちゃん! みてみてー!」
 声がした。楠木先輩と、顔を見合わせる。なんだ、そっちにあったのか。
 倉庫をでる。解放感に、ホッとした。窓があるだけで全然違う。といっても、ごちゃごちゃなのは変わりない。棚に並ぶ石膏像、壁に立てかけられたイーゼル、いつも宮地先生が木槌で肩を叩きながら紅茶を飲んでいる事務机。
「見て! こんなんみつけた! きっと外でやると気持ちいいよー!」
 左右で髪をゴムバンドで留めた甘宮先輩が、バドミントンのラケットを抱えていた。ムッフーと自慢げに鼻を鳴らしている。ダメだ、この人、目的を完全に忘れてる。
「あのね、杏……」
 楠木先輩が、口元に手をあててクスリと笑った。ポニーテールが小さく揺れる。私たち、お墓参りに行くのよ?

 おソメさんが亡くなったのは二日前、雨の日だった。
 といっても、僕のおばあちゃんとかじゃない。亡くなったのは子犬、学校の近くにある河原に居着いていた野良犬だった。
 僕ら美術部員は、ときどき餌をやりに来ていた。甘宮先輩によると、それは二日前の放課後。駅に向かう途上で亡骸をみつけたらしい。車にひかれたらしく、一緒だった楠木先輩と二人で河原に埋めてきたそうだ。
 美術部員は、三人しかいない。ポニーテールの楠木先輩、元気ハツラツ甘宮先輩、そして新入部員の僕。顧問で美術教師の宮地先生は、珍しくメイクして「用事があるので帰りますバハハ~イ」といなくなってしまった。デートでもするんだろうか。
 先生がいないので、今日はおおっぴらに課外活動ができる。いや、宮地先生は放任主義だから、あんまり変わらないかもしれない。入部してから一ヶ月近く経つけど、甘宮先輩がなにか描いている姿ってみかけたことがない。
(暑いなあ……)
 まだ五月にならないけど、まるで初夏を思わせる日差しだ。
 遊歩道から河原へ、コンクリートの階段を降りた。夕方なら、散歩中のお年寄りとか、サッカーをする子供たちとか見かけるけれど、いまは閑散としている。
 お墓は、橋の下だった。陽当たりが悪いからか、雑草が少なくて、粘土質な土が剥きだしになってる。
 美術準備室で探していたのは、かまぼこ板だった。いま、墓標代わりになってるのはアイスキャンディーの棒だ。なるほど、確かに楠木先輩がもう少しましなものにしたかった気持ちもわかる。
 なむなむなむ。いまいち本気なのかわからない調子で、しゃがみこんだ甘宮先輩が合掌している。僕も手を合わせ、無言で目を閉じた。短い時間、おソメさんを抱いたときの感触がよみがえった。
 白くて、小さな身体。右耳だけ、黒いブチがある。筋肉や血管の感触、ぬくもり、肋骨の手応え。ひとつのいのちが、複雑に組み合わさった数々の部品からできている。ひとつひとつはモノに過ぎないのに、なにかの秘密がこれをそんなふうにしている。
 目を開く。そこにはただ、剥きだしの黒い土があった。
 隣に目を向けると、楠木先輩が立っていた。少し涙目になって、吐きそうに口元を手で覆っている。気のせいか、顔が青白い。
「よーし、そいじゃ姫ちゃん」
 すっくと甘宮先輩が立ち上がった。
「おソメさんの死を悲しんでる感受性豊かで繊細な先輩たちに、紅茶でも買ってきてもらおうかな!」
「わかりました。つまり、一本でいいってことですね?」
「二本! 二本だよー!」
 ハイハイ、わかりました。僕は軽く返事をして駆けだす。確か、遊歩道沿いに自動販売機があったはずだ。
 コンクリートの階段を駆けあがりながら、僕は振り返った。遠く橋の下、影の中で、二つのセーラー服が寄り添っている。甘宮先輩が、楠木先輩の背中を撫でているらしい。
 僕は、走る速度を少し緩めた。