この高級マンションはセキュリティが堅固だ。住人でさえ、キーロックに暗証番号を打ち込まなければ、中に入ることはできない。
ナンバーを押しながら、俺は古泉との会話を思い返していた。
(冬合宿から戻ってきた長門さんの様子はどうでした?)
どうって、いつもと変わらんぞ。少し疲れてたくらいか。合宿の間になにがあったか、俺は聞いてない。
(それで充分です。普通の方なら、長門さんが疲れているなんてことはわかりません)
……なにかあったのか。
(正体不明の敵から、攻撃を受けました。僕たち全員、ちょっとしゃれにならない状況に追い込まれましてね。しかも、敵が攻撃対象として選んだのは、どうも長門さんだったようです*1)
長門は……無事だったのか。
(ええ、なんとか。ところで、ちょっと考えてみてください。ある秘密組織があったとします。その構成員は五人。神のごとき改変能力を持つ美少女、殺人的に愛らしい未来人、無口で本好きの宇宙人、スマイルのさわやかな美少年、そして普通の人です。あなたなら、まず誰を標的にします?)
変態超能力者を蹴り倒す。
……まあ、普通のやつからだろな。
(そういうことです)
一郎の階段落ちが、そうだってのか?
SOS団を面白く思わない奴がいて、手始めに一郎を殺そうとしたのか? それがうまくいかなかったから、次に冬合宿で長門を襲った?
(あるいはこうも考えられるかもしれません。一郎さんの階段落ちは、本当にただの事故だった。幸せな日常が、突然消えてしまうことがある。誰が悪いのでもなく、ただの偶然によって失われてしまうことがある。涼宮さんは……それを受け入れることができなかった)
だが、それが現実だ。
そうだろ?
(そういう達観は、僕にも無理ですよ。あなたはできるんですか?)
どうだろうな。
一郎を階段から突き落とした奴も、冬合宿で長門を襲った敵も、けっきょくはハルヒが創造した妄想の産物ってことか? 涼宮ハルヒシリーズ、新章突入みたいなもんだな。
というか、一郎を突き落とした犯人は現実の存在で、捏造や幻はありえんとか言ってなかったか?
(現実の存在ですよ。たとえ敵の存在が涼宮さんの改変能力によるものだったとしても、いまとなってはそれこそが現実です。僕らは攻撃を受け、危険な目にさらされた。これからも、それは続くでしょう……そこで、お願いです)
古泉が、軽く頭を下げた。
(どうか、長門さんの助けになってくれませんか)
なにを言ってるんだ、おまえは。
俺は自分の記憶すら無い。猫の手どころか蚤の手にすらならんぞ。
(では、言い直します。せめて、できるだけ長門さんの負担にならないでいてください)
何様なんだ、おまえは。
そう言い返そうとした。
だが顔を上げた古泉は、真剣な表情をしていた。
ぐっと喉が詰まった。それから――静かに、怒りがこみ上げてきた。
(悪いがな、おまえの話は、初めから一言たりとも信じていない)
俺は、古泉に背中を向けた。
(だから、おまえ達がどうなろうと、知ったこっちゃない)
後ろから、かすかに声が聞こえた気がした。しかし、俺は振り向かなかった。
(おまえ達……か)
誰のことだろうな。おまえ達ってのは。
ロビーを通り過ぎる。エレベーターのボタンを押す。階数表示をみつめながら、ぼんやりと考える。
俺は、誰なのか。
古泉の説によれば、すべて丸く収まったはずだ。そもそも運命説に従えば、一郎(小)が過去に戻らないことはありえない。必ず一郎(大)と連続した存在になるはずだ。
しかし、俺はここにいる。いったい、どこで紛れこんだ?
ありそうなタイミングはひとつしかない。十二月二十日、一郎(小)がエンターキーを押して過去へ時間移動した後の、最後の改変だ。
この改変を実行したのは、エラー長門かもしれないし、ハルヒかもしれない。エラー長門なら問題はない、うまくやっただろう。だが、ハルヒはどうだ?
ハルヒは、世界を改変したのは自分ではなく、エラー長門だと信じている。だから、ハルヒの推理では、階段落ちした一郎を目撃しても世界の改変は起きない。一郎(小)は病院へ運ばれ、意識不明のまま三日間が過ぎる。過去に戻ることはできない。
要するに、喫茶店で俺がした勘違いを、ハルヒも繰り返すってことだ。
運命説? そんなもんは、関係ない。これはハルヒの頭の中の話だ。俺なら、ただの勘違いですむ。だが、ハルヒならそうはいかない。ハルヒの認識こそがこの世界の現実だ。
(………………)
エレベーターが降りてきた。
(……やれやれ)
扉が左右に開く。
だが、俺は扉に背を向けると、マンションを飛びだした。
全力で走る。
まだ一分も経ってないんだ、遠くに行ってるわけがない。
(クソ!)
だが、奴の姿は見えてこない。
てことは、だ。
(逆方向か!)
昨日の夜、コンビニへ買い物にでかけた。
星が光っていた。冬らしい、澄んだ夜空だった。
歩きながら、ここ数週間のことを思い返していた。
病院で意識を取り戻したとき、俺はもうろうとしていた。見知らぬ女子にうながされるまま、俺は病院を抜けだし、マンションへと案内された。
初め、長門のことを家族と思いこんでいた。兄弟姉妹の関係なのだろうと。名前のほうで呼ばなかったのは、照れくさかったからだ。惜しいことをした。
日が経つにつれ、不信感が芽生えてきた。どうして記憶を失ったのか、記憶を失う前の生活がどうだったのか、普通なら説明してくれるものだろう。だが、長門は常に寡黙で、俺が問いを投げても答えは返ってこなかった。
俺の私物らしきものはなにも無かった。ただ一日、漫然と本を読んだり散歩したりして過ごした。
冬休みが終わっても、俺は登校しなかった。長門はなにも言わず、俺の記憶が蘇ることもなかった。
(このまま……逃げちまうか)
冬の夜空を見上げながら。
俺は、自分でもわけのわからないことを考えていた。
「古泉!」
薄闇に包まれた歩道。きょとんとした顔が、振り返る。
「どうしました?」
「ちょ……ちょっと、待て……」
寒い。吐く息は白く、吸う息は喉を切りつける。
「おまえに、頼みがある」
肩で息をしながら、やっと俺はそう言った。
リビングに入ると、長門はこたつテーブルで文庫本を読んでいた。
ただいま、と声をかける。長門は活字から視線を離し、俺の顔を見た。わずかにうなずくと同時に、視線が小さく躍った。
初めての奴にはわからないほど微妙な違いだが、その顔には疑問が浮かんでいた。
「おでんだ」
俺は、両手にビニール袋をぶらさげた。
「おでんです」
隣に立つ男も、同じようにした。
「コンビニのですけどね」
そう。短く長門は答え、立ち上がろうとした。俺は慌てて声をかけた。
「待ってくれ、長門。三人で食べよう。外、けっこう寒くてな。あんまりうまそうなんで、つい買いすぎちまった。こんなに大量のおでん、二人だけじゃ食いきれん。助けてくれ」
古泉のひじを突っつく。
「ええとですね、実は今日、外で朝比奈さんをみかけまして。どうやら興味深いことが起きたようです。そのことについてどう対応すべきか、至急検討をお願いしたんですが……とまあ、言い訳はこんな感じでしょうか。あ、一郎さん、汁がこぼれますよ」
俺はおでんをテーブルに置いてから。
古泉の後頭部をチョップした。
十分後。
さすがに買いすぎだと思ったのだが、長門は冬ごもりに備える小動物のように黙々とおでんを食べていた。
いつもはもっと貧相な食事だったので気づかなかったが、意外に長門は量を食べれるらしい。
「ところで一郎さん、さきほど僕は運命説と分岐説について説明したうえで、自己救済のパラドックスから分岐説はありえないと結論しました。しかしですね、時間移動をきっかけに世界が分岐するのではなく、初めから無数の世界、この世界によく似た並行世界が存在すると仮定した場合は事情が異なってきまして――*2」
湯呑みから熱い茶を啜りながら、俺は小泉の無駄話を適当に聞き流す。聞き流しながら、自問する。
なぜ、俺は記憶喪失なのか。
想像はいくらでもできる。ハルヒが途中で創造をやめたのかもしれないし、長門が俺のことに気づき消去しようとしたのかもしれない。
どちらにせよ、俺は不完全な存在になった。普通の意味の記憶喪失じゃない。記憶喪失なら、古泉に教えてもらった第五の部員の名前を忘れるなんてことはありえない。
ただの偶然。ただの勘違い。ただの間違い。
それが俺だ。誰のたくらみでもなく、誰の悪意でもなく、自分はここにいて、なんのシナリオも待ちかまえていない。
(――それがどうした?)
別の可能性だってある。
最後の改変をしたのは、本当はエラー長門のほうかもしれない。だとすれば、俺を創ったのもエラー長門だ。
三日間、文学少女として演技した長門。エンターキーが押され、一郎(小)に選択されなかった長門。俺を創ったのは、運命だったからじゃない。それが正しいことなのか、間違ったことなのか、未来を知らないまま自分の意志で行動した長門。
その結果として、ここに俺がいる。
(どうでもいいさ――)
どうでもいい。
今日一日かけてわかったことは、ひとつだけだ。
俺は、いまの自分の状況を面白がってるってこと。ただそれだけだ。
本当は、なにも変わっちゃいない。古泉のヨタ話なんぞ、信じられるわけがない。現実の俺は自分の名前さえわからない。なにもできないし、将来も不安だらけだ。どうせ明日からも同じことの繰り返しだってことくらい、わかってるさ。
だがな、ちょっと想像力を働かせるくらいはいいだろう?
世界がなんども改変されて、たやすく過去へ行ったり未来へ飛んだりして、迷ったり悩んだり殺されかかったり、知ってる奴が思いもかけない性格に変わったりして。
そんな陰謀や秘密や興奮や大事件に、俺はつながってるかもしれない。
こんなにも世界はユカイなんだとしたら。
それに参加しないなんて、ただのバカだろ?
長門が顔を上げた。
「……たまご」
ああ、こっちにまだあったと思うぞ。俺は手前にあったカップを寄せた。
つるつるのたまごを、長門は精密な箸さばきでつかみあげる。口が小さいので、かじりついても五分の一ほどしか入らない。
鍋とか、どこかにあるんだろうか。今度はコンビニのじゃなくて、本格的に料理してみよう。うまくできるかはわからんが、とにかくやってみるさ。
本当だろうが演技だろうが、どっちでもいい。俺だって見てみたいんだ。
おまえの、はっきりした笑顔ってのをな。
〈了〉