背後に気配を感じた。
 振り返ると、店員が立っていた。盆にコーヒーを二つ乗せ、当惑した表情で俺を見ている*1
 いつの間にか、古泉の腕をつかんでいた。慌てて俺は手を引いた。
 店員からコーヒーを受けとり、最初の一口を啜るまで、古泉は沈黙を続けた。
「冬合宿で」
 カップを手にした姿が、そのままコーヒーのCMになりそうなほど様になっている。
「一郎さんからこの話を聞いたとき、僕もあなたと同じ疑問を感じました。あのときは深刻な状況でしたから、そのことを訊ねる余裕が無かったんですけどね。どうも一郎さんは、未だに気づいていない様子です。涼宮さんが消失せず、世界の改変が無かったなら、三年前の七夕へ時間移動する緊急脱出プログラムも実行されなかったはずです……記憶が連続していることから考えても、十二月二十一日に病院で意識を取り戻したのは、間違いなく一郎さん(大)でしょう。冬合宿から帰った後で、一郎さん(特大)として一郎さん(大)を助けに行くことになる一郎さんです。では、一郎さん(小)はどうなったんでしょうね……十二月十八日、いつも通り登校し、授業を受け……SOS団の会議に参加し……階段から転げ落ち……病院へ運ばれ………………」
 コーヒーを、ひとくち飲んだ。
 これほど味も香りも感じられないコーヒーは、初めてだった。
「しかし二十一日……ベッドにいたのは……」
 病室――薄闇。
 ぼんやり、かすんで見える天井。
「一郎さん(小)ではなく……」
 ベッド脇、小さな人影。
 誰かが、立っている。
「一郎さん(大)だった………………」
 感情の無い瞳。
 俺は、身動きもできず――。
「そういえば、僕の超能力について説明していませんでしたね」
 受け皿にカップを戻す、かちゃりという音がした。
 古泉の朗らかな声に、呪縛が解けた感じがした。
「涼宮さんは超常的な出来事を体験したい、面白い出来事に遭遇したいと常々希望してまして。その望みが叶わずストレスが溜まると特殊な異世界――閉鎖空間と我々は呼んでますが、そういうものが発生します。そこでは神人という巨大な怪物が大暴れしていまして、誰かが退治しなければ閉鎖空間はどんどん広がり、やがてこの現実世界と入れ替わってしまいます。その退治役が、僕というわけです」
「どうやって退治……いや、いい。超能力に決まってるな」
「察しの通りですよ。重要なのは、涼宮さんの精神状態に応じて閉鎖空間が発生することです。かけがえのない団員が一人、意識不明の重体。どうなったと思います?」
「さぞや、特大の閉鎖空間ができたんだろうな」
 沈黙。
 ポーカーフェイスのまま、古泉は固まっている。
「できなかったのか?」
「実を言うと、最近の涼宮さんは精神状態がとても安定した傾向にありました。閉鎖空間を生みだす頻度が減ってきているんです。涼宮さんは少しずつ、改変能力のない普通の少女になりつつある。そんなふうに思えるんです*2
「いま、うまく答えをはぐらかされたような気がしたのは、俺の錯覚か?*3
「同時に、一郎さんの階段落ちが涼宮さんにショックを与えたことも、間違いないでしょう。閉鎖空間どころか、大規模な改変が起きてもおかしくありません。僕はいままで、一郎さんの視点から話をしてきました。涼宮さんが消失した三日間の出来事がまずあり、それからエラー長門さんと対決し、世界を元に戻し、一郎さんが意識を失っていた三日間の話に到達しました――逆に考えてみてください。すべての始まりは、むしろ一郎さんの階段落ちのほうだったのではないでしょうか?*4
 ないでしょうか、と言われてもな。
 ハルヒの能力は〈なんでもあり〉なんだろう? 推理なんぞできるものか。
 いや、逆か。なんとでも推理できちまうから、意味がない。
「おっしゃるとおりです。いくらでも都合良く解釈できてしまうのが困ったところです。でも、ちょっとだけやってみましょうか……十二月十八日、SOS団の会議が終わった後で、一郎さんは階段から転落した。これは、純然たる事故だったと仮定します」
 突き落とした犯人はいないし、長門もエラーを起こしてないってことだな。
「ショックを受けた涼宮さんは、現実を否定します。こんなことがあってはならない。なかったことにしたい。いっそSOS団なんて無かったことに、いやいやこの学校に入学したことすら無かったことにしたい――識域下の願望が、世界を改変します」
 改変が実際に起きたのは、俺が階段落ちして病院に運ばれたときか。
 一郎の視点では、世界がおかしくなったのは十八日の早朝からだった。だが実際は、階段落ちの後だったんだな。
 てことは、朝の谷口とのかみあわない会話*5や、朝倉涼子が登校してきて驚いたことなんかは、実際には十八日の昼過ぎに捏造された記憶だったことになるな。
「……そうなりますね」
 俺の言葉に、古泉は少しレスポンスが遅れた。それから、考え込むように浅くうなずいた。
「さて、その一方で涼宮さんに、元の世界への未練がまったく無かったわけではないでしょう。涼宮さんの心は、せっかく楽しさを感じ始めた日常があっけなく壊れてしまったことへの恐怖と、それでもその愉快な日々を取り戻したいというアンビバレントな感情に引き裂かれてしまった」
 それで、一郎だけ記憶を残されたわけか。
 長門だけつながりがあったのも、保険ってところか?
「もしくは涼宮さんが、友人を作れそうにない性格である長門さんのことを心配した。あるいは、一郎さんと長門さんとの関係に配慮したのかもしれません。状況を察した長門さんが抵抗し、世界を元に戻すきっかけ作りのためにそうしたとも考えられます」
 なんとでも考えられるってのは、わからんのと大して変わらんな。
「あの曖昧なメッセージも解釈が変わってきます。長門さんは実際にはエラーを起こしていなかった。時間と空間を超越している長門さんは、涼宮さんが大規模な改変を起こしたことに気づいた。必要なのは、元の世界へ戻りたいという想いを、涼宮さんに強く訴えることです」
 鍵をそろえよの曖昧なメッセージは、元の世界へ戻りたいという意志を一郎に自覚させるためだったってのがさっきの推理だったな。推理は合っていたが、そういう意志を必要としていたのはエラー長門じゃなくて、エラーハルヒだったってことか。
 しかしそれなら、三年前への時間移動だのエラー長門だのは要らなかったんじゃないか。部室でエンターキーを押した瞬間に病院で意識をとりもどして、これまでの出来事は夢でしたで終わらせてもいいだろうに。
「確かに、そんなオチもありえたでしょうね。ここからがややこしくなるので、落ち着いて聞いてください。十二月十八日、涼宮さんは世界を改変しました。あらゆる人に過去一年分の偽記憶を植えつけ、それにあわせて物理的なレベルでの改変、例えば光陽園学院を共学にしたり一年九組の教室を消したりしました。さて、改変後の涼宮さんに、能力は残っているでしょうか」
 残っていたなら、ハルヒは十二月十八日までSOS団とは無縁で、なにも面白いことがなかったことになる。
 さぞかし閉鎖空間ができまくりで、世界は滅亡していただろうな。
「いいえ。それは十二月十八日、一郎さんが階段から転げ落ちて涼宮さんが世界を改変した瞬間に捏造された記憶、嘘の過去です。ですから、その間に涼宮さんがどれだけストレスを受けても閉鎖空間はできません。涼宮さんは、普通の女子高生という設定になってるんですから。もちろん、十二月十八日以降は発生していた可能性がありますが」
 ………………。
 因果関係がぐちゃぐちゃだ。
「違います。因果関係の法則そのものは保たれてますよ。違うのは、因果関係が時間の流れに沿っていない点です。通常の物理空間では時間の流れに沿って原因、結果という順番が保たれます。それがこの世界では、涼宮ハルヒさんの意識の流れに沿って因果が巡るんです」
 コーヒーを受け皿に戻す。古泉がなにを言いたいのか、つかめてきた気がした。
 十二月二十日、一郎は光陽園学院の校門前で、ハルヒと古泉を待ち伏せした。そして改変前はどんな世界だったのか、洗いざらい説明しちまった。長門の曖昧なメッセージのおかげもあって、さぞや面白おかしく非日常の魅力を語ったことだろう。
「しかも悪いことに、僕はそのとき――じゃないですね、その世界における僕は、一郎さんの体験がどんな原因で生じたか、仮説を披露したらしいんですよ。パラレルワールドに飛びこんだのか、それとも誰かが世界を改変したのか。早期解決の道はそれをおこなった犯人をつきとめることだとまで言ったそうですよ*6
「で、エラー長門の誕生か」
「犯人は誰なのか、と涼宮さんが意識したことが原因となり、エラー長門さんという結果が――すべての原因が捏造されたわけです。改変後の世界における涼宮さんは長門さんとつきあいどころか面識すらありません。ですから長門さんがおかしくなってしまったなどという、僕らなら笑い飛ばすような推理を思いつくのも無理はありません」
 マンションをでたときのことを思いだした。犯人は誰でしょうという古泉の問いに、俺は長門だと答えた。与えられた前提条件だけからミステリとして答えをだそうとすると、当然そうなるからだ。
 三日間、SOS団の活動から離れ、ハルヒはイライラをつのらせていただろう。そこへ奇妙なトンデモ話を持ち込む男が現れた。古泉の仮説検討に刺激を受け、犯人が誰なのか推理を始めた――。
「傍証もありますよ。涼宮さんは北高に侵入するため、校門前で一郎さんのジャージに履き替えました。エラー長門さんが世界の改変を実行したのは、着替えをした場所の近くだったそうです*7。これは単なる偶然と片づけることもできますが、深読みすることもできるでしょう。改変後の世界における涼宮さんが北高のことをよく知らなかったため、他の場所をイメージできなかったというわけです。ちなみに、短針銃をくれた三年前の長門さんによれば、涼宮さんは改変能力を犯人に奪われたことになっています*8。しかし、これもエラー長門さんが創造された後ですから無効でしょう」
 朝倉はどうだ。
 ハルヒは、朝倉涼子が長門と同じ宇宙人だと知っていたのか?
「いいえ。朝倉さんはカナダへ転校したことになっています*9。一郎さんが殺されそうになった過去を、涼宮さんは知りません。ですが、改変後の世界で朝倉さんは長門さんの親しい友人になっていましたよね? 殺人鬼という性格が判明したのはエラー長門さんと対決したときです。殺人鬼としての性格はエラー長門さんとセットで創造されたのでしょう」
 最後まで脚本に妥協無しか。さすが超監督だ。
 思わず苦笑いしたが、古泉は真顔のままだった。
「……とまあ、一応筋道は通ります。しかもこれならば、さきほどの矛盾が解消します」
「矛盾? そんなもんあったか?」
「選択肢の矛盾ですよ。元の世界に戻るか、改変後の世界に残るか。エラー長門さんは一郎さんに選択肢を与えたはずでした。ところが、元の世界に戻るためエラー長門さんと対決すると、朝倉さんが飛びでてきてナイフで刺されてしまう。文学少女の長門さんがおびえることで、結果的に一郎さん(小)は元の世界に戻る手だてを得られなくなる。初めから改変後の世界に閉じこめることが目的だったのなら、そもそも選択肢を与える意味など無いはず、という矛盾です」
「そうか……緊急脱出プログラムを準備した長門は、エラー長門じゃなかったんだな。だが、その後でハルヒは一郎の話を聞き、エラー長門と殺人鬼の朝倉を創造した。選択肢を準備したのは長門、選択肢をつぶしたのはハルヒ。矛盾じゃなく、それぞれの思惑で行動しただけだったのか」
 できのよい生徒を眺める教師のように、古泉は悠然と微笑んでみせた。
「さて、ここまできて、やっと犯人が誰なのか考えることができます」
 犯人? なんのことだ?
「決まっているじゃないですか。一郎さんを階段から突き落とした犯人です」
 唇から覗く白い歯が、キラリと光った。