川沿いの遊歩道を歩く。桜並木が続いているが、この季節だ。花びらどころか葉すらない。
 古泉は携帯電話で会話していた。誰からなのかはわからんが、それほどの用事ではなかったらしい。一分と絶たずに通話を終えた。
「お待たせしました。話を続けましょうか」
 それはいいが、まだ歩くつもりか。いいかげん、身体が冷えてきたんだがな。
「もうしばらくつきあってください。さて、どこまで話しましたっけね」
 再修正プログラムを撃ちこんで、めでたしめでたしじゃなかったのか。
「残念ながら、そううまくはいきませんでした。正に短針銃を撃とうとしたとき、朝倉涼子さんが飛びだしてきたんです。アーミーナイフを構えてね。長門さんを傷付けることは許さないと、まるで殺人鬼のような手際のよさで一郎さんを刺してしまいました*1
 劇的展開だな。
「まったくです」
 朝倉涼子も、改変の一部だったのか?
「もちろんです」
 エラーを起こした長門は、襲撃を予測してトラップを仕掛けていたわけか。世界を改変した自分を、誰かが阻止しに来るかもしれない。そう考えて防御策を準備していた。それが朝倉だったのか。
「そうなりますね。改変後の世界で、長門さんは一人の文学少女に過ぎません。代わりに、殺人鬼の朝倉さんに邪魔者を排除させる。そんな策だったのだと考えられます」
 俺は足下をみつめた。長門は、一郎に選択肢を与えたという。元の超常的な世界に戻りたいか、それともこの普通の日常に留まりたいか。
 しかし、元の世界に戻ることを選択した一郎は、朝倉に刺されてしまった。
「……そういうことか」
「どうしました?」
「高校生の朝比奈さんだけじゃなく、成長した朝比奈さん(大)も登場したな。それはつまり、例えば俺が三日前に時間移動したなら、そこには三日前の俺がいるわけだ。いわば俺(大)と、俺(小)の二人が存在するってことだ」
「そうでしょうね」
「十二月十八日、一郎とエラー長門が対決していたとき、当然その世界にはもう一人の一郎がいたはずだ。いわば一郎(小)だな。そいつは家でなにも知らずに寝ていて、朝になれば普通に登校し、そしてハルヒの消失に驚くことになるはずだ」
 古泉は少し先を歩いている。俺の声が聞こえているはずだが、振り向こうともしない。
「じゃあ一郎(小)も同じように、長門のメッセージをみつけて、団員達を集め緊急脱出プログラムを起動するのか……そうはいかないよな。文学少女の長門は、一郎が朝倉に刺されたのを見ちまってる。正確には、刺されたのは一郎(大)であって一郎(小)とは違うんだがな。かつて自分に親切にしてくれた男と夜中に突然でくわして、おまけに親友がそいつを刺し殺すんだ。さすがに混乱するだろう。なんとか登校してきたとしても、そこへ部室に一郎(小)がやってきたら幽霊話だ。間違いなく逃げだすさ。一郎(小)もあきらめはしないと思うが、悪いほうに倒れたゲームバランスはどうしようもない。鍵を集めよのメッセージすらみつからずに――」
 視線が、それた。
 対岸の遊歩道、男女が歩いていく。
 俺と古泉とは逆方向、上流に向かっている。
 若い。高校生くらいか。
 フェミニンな格好をした女子。気合い入れてきました、という声が聞こえてきそうな愛らしさ。気持ちが舞い上がっているのか、しきりに周囲を気にしてキョロキョロしている。
 なんだ、うらやましい。
 あんな可愛い子とデートしている幸せな男子は、どんな顔をしてやがる――。
「そのまま歩いてください」
 俺は、立ち止まっていたらしい。
「向こうに気づかれると、面倒なことになりますから」
 古泉の声が、遠くから聞こえた。
「大丈夫ですか?」
 高校生カップルは、対岸の俺に気づく様子もない。ゆっくりと遠ざかっていく。もう、後ろ姿しかわからない。
 この距離だ、見間違いかもしれない。自信は無い。
 そうだろう? 誰だって経験したことはないはずだ。こんな馬鹿げた――ありえないことは。
「古泉」
「はい」
「今のは、なんだ」
「なんのことでしょう」
「さっきの電話もそうだったんだな。俺とアイツがタイミングよくすれちがうよう、誰かと協力して連絡をとりあったんだな」
「アイツ、とは?」
「しらばくれるんじゃない」
 毎日、鏡で見る顔。自分と、まったく同じ顔。
「俺のことだ。いま、あそこを通ったのは……俺だったじゃねえか!」
 爽やかなスマイル。古泉の表情は、一ミリたりとも揺るがなかった*2

 しばらく沈黙が続いた。やがて、古泉は肩をすくめると、小さく溜息を吐いた。
「りこんびょうですか……*3
「りこ……なんだって?」
「いえ、なんでもありません。どうやら、テストは失敗してしまったようですね」
 テストだと?
 訝しむ俺を無視するかのように、古泉は背を向け、さっさと歩きだした。
「テストだと? なんのことだ?」
「精神的なショックであなたの記憶が回復しないか、試してみたということです。不愉快にさせてしまったなら、お詫びしますよ。それより、さきほどのあなたの考えは興味深いですね。よろしければ続きを話してもらえますか?」
 古泉の横に並ぶ。胸の内には不満が渦巻いていたが、だんだん冷めてきた。
 ここで文句を言っても、こいつはしらばくれ続けるだけだろう。
「一郎(小)は一郎(大)と違って、文学少女の長門から敬遠されるはずだ。だから、一郎(小)はエンターキーを押す機会すら手に入れられない。世界を元に戻すことはできないだろうな」
「なるほど、つまりこういうことですね。長門さんは二つの選択肢を用意していた。世界を元に戻すか、それともそのままとするか。しかし世界を元に戻すには十二月十八日早朝の、世界を改変した直後の長門さんと対決しなければならない。そこには朝倉さんが待ち伏せていて、刺し殺されてしまう。その光景を文学少女の長門さんが目撃することで、必然的に一郎さん(小)は元の世界に戻れなくなる。とどのつまり、長門さんは選択肢を用意して一郎さんの自由意志を尊重したようで、実はそうではなかったんですね。初めから、改変後の世界に一郎さんを閉じ込めることが目的だった」
 そうなるな……どことなく、ちぐはぐだが。
 さっき、長門のメッセージがなぜ曖昧なのか考えたとき、それは一郎の意志をひきだすためだと結論した。
 だが今度は、朝倉トラップのことから、長門は初めから一郎を改変後の世界に閉じ込めるつもりだったと結論した。矛盾してるな。
「おかしいですね。とりあえず、その疑問は後回しにして、一郎さんがどうやって窮地を脱したかお話ししましょうか」
 お前がかっこよく飛びでてきて、朝倉と対決したとか言うんじゃないだろうな。
「そうだと嬉しかったんですが……実際はもっと思いがけない結末を迎えましたよ。助けに来たのは、未来から来た一郎さん自身だったんです」
 どの未来だ。
「年明けです。冬合宿が終わったすぐ後だったそうですよ。ちなみに、今あなたにお話ししていることは、すべて冬合宿のとき聞きました*4
 なんでもありだな。
「ミステリとしてはアンフェアかもしれませんね。読者には推理しようのない展開です。しかしこれほどの飛び道具でなければ、長門さんの超常的な操りから逃れる手段がないのも確かですから……ああ、そこの喫茶店に入りましょう。安心してください。もうテストはありません」
 笑顔と同時に放たれた言葉を、俺は一語たりとも信用しなかった。

 カウンター席しか空いていなかったため、俺達は並んで座った。注文を受けた店員が、充分遠くまで立ち去るのを確認してから古泉は話を続けた。
「未来から来た長門さん、朝比奈さん、そして……一郎さん(特大)とでも呼べばいいんでしょうかね。この三人に助けられはしましたが、一郎さん(大)は刺された傷が深く、そのまま意識を失います。目を覚ますと、そこは病院でした。日時は十二月二十一日の午後五時過ぎ。エラー長門さんとの対決から三日も過ぎていました*5
 病院……。
「ここでやっと、僕にも覚えのある話になります。僕の視点からすると、十二月十八日からの出来事は一郎さんの主観的体験とまったく違っていたんです。十八日、涼宮さんは消失などしていませんでした。いつも通りの授業があり、放課後にはSOS団の会議がありました。いつもと違う出来事が起きたのは、その後です。会議のあと、一郎さんが階段から落ち、意識を失ってしまったんです」
「夢オチ、てことか?」
「どうか警戒せずに、もう少し続きを聞いてください。一郎さんは僕らの後ろを歩いていました。部室棟には他に誰も残っていませんでした。必然的に、一郎さんが転んだのは純然たる事故のはずなんですが……」
「違うのか?」
「涼宮さんによれば、階段の上に誰かがいたようだと。制服のスカートがひるがえるのをみかけたらしいんです」
「一郎は、覚えてないんだな」
「ええ。一郎さんの最後の記憶は、朝倉さんに刺されたところを未来から来た長門さん達に助けられるシーンですよ」
「………………」
「まあ、とにかく世界は元に戻りました。SOS団メンバーは全員無事、風邪が流行っていたことも、朝倉さんの復活も無かったことになりました」
「………………」
「一郎さんにしてみれば、人生最大のスリルだったでしょうね。いえ、危うく殺されかけたわけですから、スリルなどというのも不謹慎かもしれませんが。いろいろありましたが、すべて無事に解決。めでたしめでたしですよ」
 いや、待て。
 ***は、どうした。
「僕の話は、これで終わりです。どうやら、あなたの記憶を回復する役には立たなかったようですね」
 古泉、なにを言ってる。
 それで終わりのわけがないだろう。
 ***はどうした。
「なんのことです?」
 一郎だ。
 一郎(小)は、どうなったんだよ。