上着の胸元に手を入れ、浦駕さんは内ポケットからなにかを取り出した。ごとん。ローテーブルの上に置かれたのは、透明なビニール袋に包まれたナイフだった。切れ味の鋭そうな、細身のナイフだった。
「これが凶器です。も、もう、逃げも隠れもいたしません。私が虹村水樹さんを殺しました。本当に、うううっ、本当にとりかえしのつかないことをしてしまって、本当に本当に申し訳ありませんでしたっ!」
 ソファから下りて、浦駕さんは泣きながら土下座した。宇多田も、笹木先輩も、なにも言わなかった。さっきまで名探偵のように話していた浦駕さんが、自分こそ犯人ですと頭を下げている。確かに、『だ』という文字を残した理由としては、水樹の名字を宇多田だと勘違いしていたとしか考えにくいし、そうなると、そんな勘違いをしそうなのは招かれざる客だった浦駕さん以外に誰もいない。だがそれでも俺には、ローテーブルの上のナイフが、水樹の命を、五人もの命を奪った凶器だという実感が湧かなかった。
「アー、そーにゃのか」ポツリと江戸釜先輩が言った。
「メッセンジャーの第五の標的は、吾輩だったにょろりんね」
 へ? と俺は声をあげた。
「第五の被害者に、水樹嬢は吾輩を選ぶつもりだったなりよー。水樹嬢の部屋からなら、離れの風呂が見えるなりね?」
 俺は、うなずいた。水樹の様子を確認しに行って姿が消えているのに気付いたとき、窓から離れの明かりが見えた。
「ホラ、初めは吾輩が一番風呂の予定だったからのー。水樹嬢は、離れの風呂の明かりが点いているのを見たのか、窓に人影が映ってるのでも見たのか、とにかく吾輩が風呂に入ったと勘違いしたんじゃなかろかねー。お風呂に入るの、吾輩はいちばん最初の予定だったからにゃー。実際は、身体が冷え切ってるの栖川さんに心配されて、浦駕さんが入ったわけだけども」
「ああ、そっか、そっすね。そういうことか。んんん? これで全部、帳尻が合ってるのか? スゲー複雑過ぎてわけわかんねー」
「初めから順を追って振り返ってみるなりね。水樹嬢は、連続殺人鬼メッセンジャーだった。被害者の名前と数字、そして平仮名のメモから『麻闇由汰が殺した』というメッセージを作ろーとしてた。そのためには、第五の被害者として名前に『ま』が入ってる人物が必要だった。第五の標的として吾輩を選び、離れの風呂に入っているときに襲うつもりだった。ところが、浦駕さんが訪れたために風呂の順番が狂ってしまった」
「うっうっう、スミマセンスミマセン」
「えーい、いいかげん顔を起こすにゃー! さっさと座りゃー、もう! 続けるなりよ? 浦駕さんはとっさに抵抗し、逆に水樹嬢を殺してしまった。水樹嬢はきっと、返り血を浴びても大丈夫なよーに、あの赤いレインコートを着たまま襲いかかってきたなりね? だからナイフはレインコートの上から刺さった。浦駕さんはメモに気付いて、水樹嬢があのメッセンジャーだと気付いた。そっきゃ! 水樹嬢は『たしろこが』というメモを持ってたから、たまたま『うらが』の『が』で、名字の最後の一文字と合ってしまったなりね!」
「うっうっう、スミマセンスミマセン」
「それで浦駕さんはすっかり、自分が殺人鬼の次の被害者として選ばれてしまったのだと思い込んでしまった。人を殺してしまったことが怖くなり、いっそ水樹嬢がメッセンジャーに殺されたことにしようと思い付いた。離れの物置にあったメモ帳で新しいメモを作って、んで……確か離れに置き傘があったにょろね? それを使って雨を避けつつ、死体を森の中に運んだ。ナイフで木の幹に数字を刻んで、リビングに戻ってきた」
 江戸釜先輩は視線を落とし、ローテーブルの上に置いてあった山荘の見取図を手にとった。
「そっきゃ、この部屋割りを見て、水樹嬢の部屋がどこにあるかわかったなりね? ふみゅふみゅふみゅふみゅ、水樹嬢が窓からでてきたことが知れると、水樹嬢こそメッセンジャーだったことが勘付かれてしまうなり。それが怖くて、電話を借りるフリをして玄関から外にでた。玄関には浦駕さんが着てきた雨合羽があったきゃら、それを着て水樹嬢の部屋に窓から忍び込んで、鍵をかけた。雨が少し吹き込んだので、ちょうど置いてあった水樹嬢のドライヤーを借りて乾かしていたら、停電を起こしてしまった。大慌てでドアの鍵を開け、廊下からリビングに戻った。雨合羽は畳んでポケットにでも入れておけばいいなりね。あとでどさくさに紛れて玄関に戻しておいたと。うみゅ……こんなとこなりか?」
「うっうっう、スミマセンスミマセンスミマセン!」
 ぺこぺこと頭を下げる浦駕を、宇多田が苦しげな表情でみつめていた。笹木先輩が、心配そうにチラチラと宇多田に視線を送っている。無理もない、妹が連続殺人鬼に殺されたと思っていたら、その妹こそが殺人鬼で、殺した犯人は正当防衛だったんだから。これで悩まない兄貴はいない。
「ふみゅ。やーれやれ、一件落着なりね……浦駕さん、警察来たら、自分から刑事さんに申し出ないとダメなりよー? 自分がやりましたー、自首しますーってね」
 そう言いながら、江戸釜先輩はチラッと宇多田のほうを見た。宇多田がそっとうつむき、フッと小さく息を吐いて、小さくうなずいた。
「は、は、はい! す、すみません、私、もう、ホントになんて言ったらいいか!」
 そのときだった。スッと小さく栖川さんが手をあげた。
「浦駕さん……ひとつだけ、お訊きしたいことがあります」
「は、はい! な、なんでもお答えします!」
 わずかな、沈黙があった。考えをまとめ、言葉を選ぶ沈黙があった。それから、栖川さんは、きっぱりとした口調で言った。きっぱりと、断罪するように告げた。
「水樹さんを殺したことを隠した、理由をおっしゃってください」
「そ、そ、そそそそそ」
 浦駕さんの黒目が、左右同時にぐるりと回転した。
「それは、もう、無我夢中で、こわくてこわくて仕方なくて!」
「奥さんに、金魚の餌を夕食にだされたとおっしゃってましたね」
 俺は、ゾッとした。北欧美人のはずの栖川さんは、表情に暖かみがまるで無くなっていた。声に、なんの感情もこもってなかった。末期癌を宣告する医者のような無慈悲さがあった。
「答えて下さい。浦駕さんはなにをされようとしていたんですか? さっき、自分の山荘に戻ろうとされてましたよね。一人でいる奥さんが心配だ。メッセンジャーに襲われていないか心配だから、一度戻りたい。電話だけでは心配だ、ちゃんと顔を見せてやりたい。浦駕さん……メッセンジャーがこの世にいないことは、あの時点であなただけが知っていた。奥さんがメッセンジャーに襲われる心配など無いことは、あなたがいちばんよく知っていた。ナイフを内ポケットに隠して、奥さんが一人でいる森川荘に戻って、浦駕さんはなにをされようとしていたんですか?」
 冷水を浴びたように、浦駕さんは肩をブルブル震わせて、顔を青くしている。小さく背を丸め、ソファにめりこんでいきそうに身体を縮めている。
「私が、水樹さんのフルネームを言ったから、浦駕さんは気付いたんですね。考えましょう。虹村水樹さんのために、考えましょう。私がそう言ったのを耳にして、水樹さんの名字が宇多田ではなく虹村だと、お兄さんとは名字が違うと、浦駕さんはそのとき初めて気付いた。そして、推理を通じて論理的に誰が犯人なのか名指しできることを理解した。浦駕さんはおっしゃいましたね。『犯人がわかった』ではなく、『誰が犯人なのか、証明できることに気付いた』と。こわかった? 無我夢中だった? 相手は既に四人もの命を奪った連続殺人鬼です。正当防衛と認められる可能性が高いこと、情状酌量される可能性が高いことくらい、あなたはすぐに気付いたはずです。答えて下さい、浦駕さん、あなたは連続殺人鬼のナイフを持って、森川荘へなにをしにいくつもりでした? あなたは、本当の便乗殺人をするつもりだったのではないですか? あなたは、奥さんを、第六の犠牲者として――」
 そのときだった。宇多田が立ち上がり、浦駕さんに歩み寄ると、拳を振るった。殴られた浦駕さんの小柄な身体が床に崩れ落ちた。江戸釜先輩が宇多田の背中にとびつき、羽交い締めにしようとしたが、振り払われた。その間に、ヒイヒイと声をあげながら、四つん這いで浦駕さんが逃げ出した。それを追いかけ、宇多田が浦駕さんに馬乗りになり、二度三度と拳を打ち下ろした。
「わ、私だって、私だって、好きで殺そうとしたんじゃないんです!」
 腕で顔をかばいながら、浦駕さんが叫んだ。
「も、もういやだ。うっうっうっ。今日だって浴室の電球が切れたから、麓まで買ってこいと命令されたんです! 今晩中でなくたっていいはずなのに、妻は電球一個のために私を山荘から追い出したんです! うっうっう、ガソリンは無くなるし、雨は冷たいし、ここに来たら来たで、いきなり見知らぬ女の子に殺されそうになるし! いやだ、もういやだ、たくさんだ! どうしてこんな理不尽な目にばかりあわなきゃいけないんだ!」
 うるさい、だまれ。宇多田はそう言って、浦駕さんの腹に拳を打ち下ろした。俺は、立ち上がった。ローテーブルの上のビニール袋をつまみあげ、ゆっくり、二人に近付いた。
 宇多田が、俺に気付いた。拳を振り下ろすのをやめ、俺を見上げた。
「ほら」俺は、ビニール袋を差し出した。ナイフが入ったビニール袋を。
「どうぞ」
 わけがわからないという顔で、宇多田は、ナイフと俺の顔の間に視線を行ったり来たりさせた。
「憎いんだろ。こらしめたいんだろ。水樹を殺した奴を、妹を殺した奴を罰したいんだろ。だったら、使えよ。おまえ、どこ殴ってんだよ。胸だの腹だの殴ってどうすんだよ。顔殴れよ。頭蹴ってやれよ。なにやってんだ、ガキのケンカじゃねーんだぞ。ナイフ使えよ。サクッとやれ、サクッと」
「いや、麻闇くん、そんな、僕はね」
「るせえ、黙れ。これ以上、俺をいらいらさせんな、このボケ! ほんっとに、お前は昔っからそうだな。ああ、そうだよ、あんたはいい奴だ。ホントに真面目な奴だ。偽善者なんかじゃねえ、心の底から優しい奴だ。ホントに水樹のことが好きで、浦駕さんの気持ちもわかっていて、そして人殺しなんてする奴は人間のクズだと思ってる。オメーは、ホントに、最低の奴だ」
 ビニール袋を、宇多田の顔に投げつける。慌てて宇多田はそれを受け取った。
「ち、ちがう、麻闇くん、僕はそんな、過ちを犯した人のことを差別したりなんかしない。すまない、悪かった。いま、僕は思わずカッとなってしまって」
「いいから黙れっつの!」
 言葉よりも足が先にでた。爪先が顎にめりこんで、宇多田は床の上に仰向けになった。浦駕さんがヒッと声をあげて後ろに飛び退いた。
「麻闇くん」笹木先輩の声がした。
 衝動的な笑いが込み上げてきた。俺は顔を歪ませ、片方の手の平を頬に押しつけた。顔が熱かった。ドロドロと熱いものが胸に渦巻いていた。
「麻闇くん!」
「ハハ、ハ、ほらね、笹木先輩、俺の言ったとおりじゃないっすか。水樹は、俺のことなんか好きじゃなかったんだ。迷惑をかけてやる、ひどい目に遭わせやる、そんなことしか考えてなかったんだ。ハ! まさか、連続殺人鬼の濡れ衣とはね! こいつはスゲーや、史上最高のブラックジョークだ。笑えねー、ぜんっぜん、笑えねー」
 そう言いながら俺は、沸騰する湯のように笑いが喉から込み上げてくるのを抑えることができなかった。
「うわ、サイテー、サイテーだよな。俺のせいで殺されたようなもんだよな。俺のせいで五人も人が殺されたようなもんだよな。クソ、最悪だよな、人生最悪の夜になっちまったよな。悪いっすね、江戸釜先輩、全部ぶち壊しちまって。ホント、申し訳ないっす。あーああー、もう、俺、気付いてたんっすよ。水樹がアブナイ奴だって、気付いてたんっすよ。ほら、何度も言ったっすよね? 俺は、アイツのことなんか全然好きじゃなかったし、アイツだってそうだった。アイツはただのサイコ野郎だった」
「ち、ちがうよ、麻闇くん、水樹ちゃんは、ホントに、麻闇くんが好きで」
「あーあー、もう、まだわからないんっすか! クソ! アイツはもう死んだんだ! 俺はもう、アイツとなにも関係ないっ! いい加減、目を覚ましてくださいよ。クソ! クソクソクソ! 先輩、申し訳ないっす。これは言わなかったけど、秘密にしてたけど、四月に入院したの、水樹のせいだったんっすよ。水樹が、俺に直接、言いました。俺にドロップキックかまして怪我させたの、自分だって。クハー、最高! 見舞いの花束に毛虫が入ってましたよ。アイツは、異常だった。アイツは、まともじゃなかった。クソ! なんで俺がこんな目に遭わなきゃなんねんだよっ! なんで死んだ後まで俺がアイツに振り回されなきゃなんねんだよっ!」
 ソファを、蹴った。力いっぱい蹴った。だが、痛くもなんともなかった。
「違う!」笹木先輩が、叫んだ。
「そんなの、違う! 違うよ麻闇くん。私だって、私だって……麻闇くんが、水樹ちゃんを苦手にしてたことくらい、とっくの昔に気付いてたよ!」
 俺は、笹木先輩の顔を見た。瞳を涙でいっぱいにしている先輩の顔を見た。
「な、なに言ってるんすか? 先輩、いつだって俺達のこと」
「わかってるよ、私、自分がバカだってわかってる。頭悪いって知ってる。だけど私、みんなに思われてるほどバカじゃないよ? 私は水樹ちゃんの恋が叶ってほしかった。水樹ちゃんに幸せになってほしかった。だから、麻闇くんが嫌がってるの知ってても、知らんぷりしてた」
「いや、だから、それが誤解なんすよ。水樹は俺のことなんか好きじゃなかった。ホンットに、ただ、嫌がらせがしたいだけだったんすよ。クソ、何回言えばわかってくれるんだ?」
「じゃあ、麻闇くんはどうやってそのことを確かめたの? 水樹ちゃんが麻闇くんのこと嫌いだって、どうやって確かめたの?」
「そんなこと、もうわかりきってるじゃねえっすか! どこの世界に、好きな奴にドロップキックかましたり連続殺人鬼の濡れ衣着せたりするバカがいるっていうんすか!」
「いたかもしれないじゃない。水樹ちゃんが、そんな子だったかもしれないじゃない」
 涙が一筋、笹木先輩の頬を流れ落ちた。
「私にだって、わからないよ? 水樹ちゃんが、どうしてこんな恐ろしいことしたのか、わかんない。人を殺すのは絶対ダメなことだし、そのことで水樹ちゃんを許すことだってできない。私は、水樹ちゃんの心、全然わかんない。だけど、全部知らないわけじゃない。水樹ちゃん、お兄さんが結婚して、寂しがってた。ずっとずっと一緒だったのに、急にいなくなっちゃって、寂しがってた。そんなとき、麻闇くんがきてくれた。麻闇くんが戻ってきてくれた。水樹ちゃんが不思議な子なのは、麻闇くんがいちばんわかってるよね?」
「だ、だから、クソ、もう、なんだよ……なんでわかってくれねぇんだよ……水樹のことなんて、知るか。あんなやつのことなんて、知るもんか。ハッキリ言って、迷惑だったんだ。なにもかも迷惑だったんだ。俺に責任は無え、悪いのは全部アイツだったんだ。俺は、俺は、だから、俺があんな変人のお守りさせられる筋合いねえっつの!」
 先輩が、涙目でキッと俺を睨んだ。
「他人が自分の百パーセント思い通りになんか、なるわけないよっ!」
 叫びが、刺さった。叫びが、俺の胸に突き刺さった。生まれてから一度も経験したことのない痛みが、深く、深く、身体の内側に染み渡った。
「そんなの、正しいとか悪いとか、責任があるとかないとか、良いとか悪いとかそんなんじゃない! そんなんじゃないよっ! そうだよ、麻闇くんは運が悪かった。水樹ちゃんなんていう変な子にひっかかっちゃった。他の誰にも起こらない、本当に運の悪い目に遭っちゃった。だけど、それがどうしたの? もう、麻闇くんは水樹ちゃんと会っちゃったんだよ? 誰がそれをとめられるの? 誰がそれを無かったことにできるの? もう、始まっちゃったんだよ。ずっとずっと前に始まっちゃったんだよ。浦駕さんだって水樹ちゃんを殺したくて殺したんじゃない。麻闇くんは、水樹ちゃんがなんでも自分のことを自分で思い通りにできるって思ってたの? 麻闇くんは、自分で自分をなんでも好きなようにできるの? ねえ、お願い、わかって。私達ができる精一杯のことって、ホントにちっぽけなことなんだよ? 私がどんなにオロオロしたって、ほんの少しのことしかできないんだ。だけど私は、私は、ただ、二人が幸せになるのが見たくて……」
 ポロポロと涙をこぼしながら、笹木先輩は崩れるようにしてソファに座り込んだ。背中を丸め、声をあげて泣いた。俺は、全身から力が抜けた。全身が重くなり、フカフカの絨毯に座り込み、そのままバタンと倒れて仰向けになった。
「だあ、もう……わけわかんね」
 キラキラ輝くシャンデリアを見上げながら、頭の中を、いくつもの記憶が駆け巡った。蛙の卵、水樹の笑い声、野犬の顔、白い病室、黒い服の後ろ姿、眉の上で切り揃えた髪、キョロンとした黒い瞳、赤いレインコートと銀の雨、頬に押しつけられた唇。
 視界が歪んだ。瞼が熱かった。顔を両手で覆った。このまま眠りたかった。瞼を薄く閉じて、俺はただ、時が過ぎるのを待った。