警察が来た。浦駕さんが自首した。事情聴取された。夜が明けた。寝た。起きた。メシ食った。笹木先輩と車で山を下りた。カーラジオから、ニュースが流れた。チャンネルを変えた。
 マスコミが押し寄せた。テレビで、連続殺人鬼の被害者の家族が、友達が、知人が、インタビューに答えていた。奥歯を噛みしめながら俺はそれを聞いた。裁判にでた。大学に通った。推理研の部室に顔をだした。江戸釜先輩が、元気をなくしていた。浦駕さんは正当防衛が認められるらしい。宇多田が離婚したらしい。虹村家は県外に引っ越したらしい。きれぎれにいろいろな報せを聞いた。
 月日が流れた。笹木先輩とは、あのときより親しくなることも、離れることもなかった。初めの頃は気まずかったが、じきになんとも思わなくなった。
 変わったのは、俺の小説の趣味だけだった。あれほど好きだった本格推理小説が読めなくなった。あの事件の後で始まった「新本格ブーム」とやらにも、手を伸ばすことはなかった。笹木先輩は楽しんでいるようだったが、俺はダメだった。大学生達がクローズドサークルで殺人事件に巻き込まれる話なんか、へどがでる。俺は海外のサスペンスやハードボイルドを読み始めた。絵空事を読みたかった。あの日のことを思い出させない遠い物語が読みたかった。
 大学を卒業した。俺は県外の企業に就職が決まっていた。大学院に進んでいた笹木先輩が、卒業おめでとうと泣きながら言った。俺は、ホッとしていた。笹木先輩と別れることに、ホッとしていた。そのとき初めて、俺は先輩と別れたかったのだと気付いた。先輩の顔を見ることがつらかった。どんなにミステリーの話で盛り上がっても、心のどこかに冷たい目があった。こんなのは、ぜんぶ嘘だぞ。作り物なんだぞ。そうささやく声があった。だが、離れられなかった。笹木先輩から離れられなかった。笹木先輩といることはつらかったが、あからさまに避けることで相手を傷付けるのは、もっとつらかった。
 見送るほうが泣いてどうするんっすか。俺は笑って、それから深く頭を下げた。ありあとっした。ほんっとに、ありあとっした。

 三年勤めて、転職した。新しい会社で、職場結婚した。娘が二人生まれた。本を、あまり読まなくなった。毎日が忙しかった。仕事に育児に忙しかった。
 ある年の春、興味を惹かれてグリム童話の本を読んだ。グリム童話の原型では、子供向けに直されたやつと違って、残酷で生々しくて陰惨な要素がたくさんあるのだという。白雪姫。鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだあれ? 女王様がその美しさをねたみ、森の中の七人のこびと達が守ったのに、毒リンゴで殺されてしまう白雪姫。そして、王子様のキスで目覚める白雪姫。もとの話では、白雪姫と王子様の結婚披露宴に招待された女王様は、真っ赤に灼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊り狂う。
 誰が、女王に鉄の靴を履かせたんだろう? 白雪姫が命じたんだろうか。殺されそうになったことを恨んで、白雪姫が自分で命令したんだろうか。菊池寛の翻訳を読んでも、そのことはハッキリとは書かれていなかった。奥深い森の中、赤い三角屋根の鳳明荘が現れたとき、笹木先輩がドイツの童話みたいだとハシャいでたことを思い出した。黒い森、銀の雨、赤いレインコート、白い顔。
 時が流れた。二十一世紀を迎えて、インターネットと携帯電話が普及し、推理小説はミステリと呼ばれるようになり、穏やかで変わり映えのない月日が流れた。娘二人は手がかからなくなり、そのぶん、本を読めるようになった。休みの日には古本屋に通い、少しずつ、国内の本格ミステリも読むようになった。
 ある日、古本屋で、見覚えのある本をみつけた。いや、見覚えどころじゃない、さんざん聞かされ目にしたタイトル、いまも文庫本で新刊書店に並ぶ名作。でも、俺にとっては手をだすことのできなかった本。あの日、北欧美人の栖川さんが、先月の講談社ノベルスで読んで面白かったと言った、二十年前の新人作家。
 綾辻行人、『十角館の殺人』。
 指を伸ばした。ためらいは無かった。もうすぐ四十になる俺だ。二十年前の大学生は、二人の子持ちのオッサンだ。古書店をでると、俺はカフェに向かった。スツールに座り、ショーウィンドウ越しに表通りの喧噪を少し眺め、それから、紙袋を開けた。薄汚れた本のページをめくると、古い紙の匂いがした。コーヒーを一口啜り、活字の列に目を落とす。第一章は、大学生達を乗せて孤島へと向かう漁船のシーンから始まっていた。登場人物の一人、エラリイが口を開く。

「僕にとって推理小説ミステリは、あくまでも知的な遊びの一つなんだ。小説という形式を使った、読者対名探偵、読者対作者の刺激的な論理の遊びゲーム。それ以上でも以下でもない。
 だから、一時期日本でもてはやされた“社会派”式のリアリズム云々は、もうまっぴらなわけさ。1DKのマンションでOLが殺されて、靴底を擦り減らした刑事が苦心の末、愛人だった上司を捕まえる。――やめてほしいね。汚職だの政界の内幕だの、現代社会のひずみが生んだ悲劇だの、その辺も願い下げだ。ミステリにふさわしいのは、時代遅れと云われようが何だろうが、やっぱりね、名探偵、大邸宅、怪しげな住人たち、血みどろの惨劇、不可能犯罪、破天荒な大トリック……。絵空事で大いに結構。要はその世界の中で楽しめればいいのさ。但し、あくまで知的に、ね」

 苦笑いが、浮かんだ。俺は頬を歪めて、小さく口を開けた。
「面白い?」女性の声がした。
 隣りに、誰かが座っていた。ずれた眼鏡、猫みたいに細めた目、腰まである長い黒髪。
「え? あ……笹木、先輩?」
「びっくりした? びっくりした? びっくりしたー!」
 手の平でバンバン背中を叩かれた。足も蹴られた。
「うふふふふふ、懐かしーね凄いね驚いたねー、ウワー、なんか、渋いオジサンになっちゃってモー! 麻闇くんズルイ! 男の人ってズルイよね!」
「えっと、いや、あの、その。おひさしぶり……っす。エ? ど、どうしたんですか、いつからそこに?」
「さっき。ついさっき。古本屋さん巡りしてたら、偶然みかけて、アレ? と思って。ウワー、スッゴイ奇遇だねー」
「うわ、ホントに、なんてゆうか、笹木先輩、昔と全然変わってないですね」
「やだやだやだやだ、私もう、名字、昔と違うんだよ?」
「あ、そうなんだ」鈍い痛みを感じた。
「いまは、江戸釜真澄なのにゃー!」
 絶句。
 うぎゃー! いらねー! そんな腐れた微妙なオチ、ぜってーいらねー!
「あはは、じょ、冗談だって。そんなドン引きしなくたっていいじゃないのー!」
「いまマジでへこみましたよ……江戸釜先輩、元気っすか?」
「バリバリ元気! 元気全開! スッゴイ仕事に燃えてる! ラノベに負けるかーって、毎日吠えてる! あ、それ、もしかして十角館?」
「え、ああ、古本屋で、たまたまみつけて……うわ、なんか、作者のご都合主義みたいな凄い偶然だな」
「うん、ホントだね」
 しばらく、笹木先輩は活字を目で追っているようだった。
「ホントに、おかしな偶然ばっかり……わけわかんないよね。懐かしーなー。あの頃、新本格、ホンットに私、夢中になって読んで……ねえ、知ってる? 江戸釜先輩、あのときどうして、あんな集まり開いたのか?」
「どうしてって、どうせテキトーな思いつきでしょう? ミステリマニアで集まってマニアックな会話したいっていう、ぶっちゃけオタクっすよね」
「うん、それもあったんだろーけど……あの年ね、ニフティサーブってのが始まったんだって。パソコン通信の、ニフティサーブ。そのニュース聞いて、顔も知らないような人が同じ場所に集まって話したら面白いんじゃないかって思ったんだって」
「え? それってつまり、オフ会みたいなことを考えてたってことですか? それは、それなら確かに、ちょっと凄いか」
「あ、もちろんその頃は、オフ会なんて言葉、無かったけどね。麻闇くんは、ネットやってないの?」
「ネット? そりゃあ、仕事でメール使ったり、ぐぐって調べ物したりはしてますよ?」
「そうじゃなくって、ミステリのほうで」
「ミステリで?」
「ブログ作って読んだ本の感想書いたりとか」
「ああ、いや全然。そっか、俺、大学卒業した後は忙しくて、本、全然読めなかったからな……ここ数年になって、やっと新本格に手を伸ばしてるんです」
「面白い?」
 グッと、喉につまるものがあった。頭の中が、言葉でいっぱいになった。表通りのほうに目をやり、数秒考え、それから唇を開いた。
「古くさいな」
「うん、そうだね」
「嘘くさい」
「うん、うん」
「人間描けてないじゃん」
「小理屈ばっかりだもんね」
「議論ばっか、会話ばっかで、眠くなるよな」
「うふふ、ホント」
「なにが名探偵だよ、こんなやつ、現実にいるかよ」
「いるわけないよねー」
「クソつまんね」
「あはは」
「ホンットに……最高だよな」
「うん」
「もっと、早く読めばよかった」
 コーヒーに手を伸ばした。苦みを啜った。もっと、早く読んでいれば。そうしていれば、俺はきっとあの頃、笹木先輩ともっと話ができたはずだった。もっと楽しい時間を増やせたはずだった。
 ずいぶん久し振りに、水樹の顔を思い出した。黒い瞳、おかっぱ髪、小さな笑顔。
「ハイ、これ」
 小さな、白い紙切れを手渡された。見知らぬ名前と、メールアドレス、どこかのサイトのアドレスが並んでいる。
「なんすか?」
「名刺。プライベートの。それ、私のハンドルネーム」
 脇に置いていたハンドバックを肩にかけ、笹木先輩はスツールから立ち上がった。
「え? もう、行くんですか? あ、あの、メシくらい、おごりますよ」
「だいじょーぶ! ネットでまた会えるよ! もしそれで物足りなかったら、またどこかで会おうね! あ、春にね、でっかいオフ会あるから、それでもいいや!」
「オフ会? ミステリのオフ会っすか?」
「うん。あのね、あのときの集まりね、ずっと続いてるの。江戸釜先輩、ずっと続けてるの」
「続けてる? 続けてるって、ミステリ読むのが趣味の人の?」
「うん。興味があったら来てね。あ、でも、覚悟しといてね。ブランクあるとキツイかもよー。でも、だいじょーぶ! いつからだって、やりなおせるから! きっと麻闇くんもすぐに積読だらけになって泣くことになるよ!」
「エート、なにがなんだか、よくわからないんすが」
「じゃ!」
 笑顔いっぱいで、栖川さんは踊るような足取りで去っていった。

 さあ、これで、俺の長くて古くさい話は終わり。古くて嘘くさい昔語りは終わり。ご都合主義でデウスエクスマキーナで陳腐でありきたりで妙ちくりんな話は終わり。サンクス・フォー・ユア・チャレンジ。ディスイズ・フィクション、バット・マイ・リアルストーリー。お前はお前の物語をつむぐがいいさ。俺は俺の物語を生きていく。さよならっ!