冗談じゃねえ。車の中で俺は毒づいていた。冗談じゃねえ。フロントガラスの向こうは叩き付けるような雨と風だ。夜プラス山道プラス暴風雨。夏休みに免許をとったばかりの俺にはとんでもなく危険なはずだったが、心のなかの混乱に比べればマシだった。
栖川さんが物置を確認してもガソリンはなく、俺は手をあげてガソリンをわけに行く役に立候補した。笹木先輩が目をランランと輝かせて鼻から湯気を噴き出しそうな顔をしていた。一緒にいると、間違いなく俺は水樹との仲を誤解される。いや、既に誤解されているが今以上に誤解される。すこし冷却期間が必要な気がして、俺はガソリン補給の役に飛びついた。
虹村水樹。見た目は中学生みたいだが、れっきとした三回生、俺よりふたつ年上だ。ただし初めて顔を会わせたのは大学でじゃない、もっとずっと昔、恐らく赤ん坊の頃だ。水樹は隣の家に住む幼なじみだった。いや、いたずらっ子、いじめっ子、お転婆、暴力女、専制君主、俺に対して非道の限りを尽くした鬼畜でサディストの暴虐変態少女だった。
うああ、嫌なことばかり思い出す。襟首からゴキブリを入れられ、お菓子だと騙されて蛙の卵を食わされ、こっそり自転車のブレーキを壊されて川に突っ込んだ。みため脆弱そうで病弱そうで弱々しい感じだから、みんな騙される。ひ弱どころか、俺をいたぶるときのアイツは信じられないくらいの馬鹿力をだした。邪悪なたくらみをする頭脳は天才的だった。誰もアイツのそんな一面に気付いてなかった。特にあの兄貴、宇多田尚吾が人畜無害っつうか人当たりのいい常識人で妹のことをお茶目なやつくらいにしか思ってないもんだから、俺がいくらアイツの極悪非道ぶりを訴えても脚色されて改変されて歪曲されて大人達の耳には届かなかった。届いてもアイツの毒が薄められてなにも伝わってなかった。小学二年生のとき学校の裏山で裸に剥かれて木の幹に縛り付けられたまま一晩放置されたとき、あのバカ兄貴、やったのはボクですなんて頭下げて、妹の身代わりになりやがった。あのクソヤロウ! エセヒューマニストめ! あの晩が夏で良かった。冬なら俺はきっと凍え死んでた。風邪を引いて三日三晩寝込んだ。高熱で頭がグルグルして意識がもうろうとしてた。あいつらそろって見舞いに来て、しおらしく水樹がごめんねと頭をさげたときも、俺は口がきけなかった。縛られている間、三頭もの野犬が素っ裸の俺をとりかこんでいたときのことが頭の中で渦巻いて、恐怖で口がきけなかった。
クソ! クソ! クソ! 騙されるもんか! 頬にチューされたくらいで騙されるもんか! おやすみのチューされたくらいで油断なんかするもんか! アイツは絶対なにかたくらんでる! なにか大きなイタズラのために俺を騙そうとしてる! とんでもない極悪非道な罠のために俺を油断させようとしている! いや、ま、そりゃ、ちょっとは可愛いと思わなくもないんだが……いやいやいや! 俺の好みはあんなんじゃねえ! やはりこう、母性愛というか、包容力というか、弾力と柔らかさと揉み心地というか……って、そんなことはどうでもええわー!
いや、わかってる。ここまでのことは笹木先輩にだって話した。笹木先輩もわかっていて、でもそれくらいは子供時代のことだからくらいに解釈してるらしい。ま、確かに俺も、水樹と数年ぶりに再会したときはオヤッと思った。なんか可愛い子が立ってるぞと思った。今年の四月、大学に入学したばかりだってのに俺はケガで入院してた。夜、新歓コンパの帰り道、不審者にドロップキックかまされて溝に落ち、運悪く足を骨折したのだ。そこへ、アイツが見舞いに訪れた。両親の仕事の都合で俺は小学四年生にあがると同時に県外へ引っ越した。あの悪魔から離れることができて、心の底から安心した。平穏で普通で健やかな日々を楽しんだ。高校卒業まで無遅刻無欠席無病息災、風邪知らずで虫歯一本なく、成績ほどほどスポーツ大好き、朗らかに笑いかけジョークを楽しむフツーの人生を送った。大学入学をきっかけに俺は一人暮らしを始めることになり、昔住んでいた町の近くに引っ越してきた。だから、アイツと顔を会わせることがあったとしても不思議じゃなかったし、同じ大学に通っている可能性だって予想できたはずだった。しかし俺は幼い頃の不幸な記憶をできる限り思い出さないようにしていたし、まあ子供だったから行き過ぎちゃったこともあったんだろうなくらいに思い直していた。実際、アイツが花束を持って葬式帰りみたいな黒ずくめの格好で病院に現れたとき、そいつがあの虹村水樹だと気付かなかったくらいだ。アイツはまるで時間がとまったみたいに、別れたときと同じ幼い顔立ちのままだった。ごめんね、とアイツはいった。しんみり、深く反省した様子でアイツは言った。ごめんね、由汰くん蹴ったの、あたしなの。
なんのことだと俺は訊いた。笑顔を作ろうとする俺の唇が震え、背中が震え始めた。あの夜の野犬の顔が頭の中に蘇った。確かに、暗かったし酔ってたし俺は不審者の顔を見てなかった。俺を蹴り飛ばして骨折させた相手の顔を見てなかった。アイツはなにも答えず、黙ったまま立ち去った。ベッドの上に残された花束から、何匹もの黒い毛虫がウゾウゾと這い出てきた。
このことは、誰にも言ってない。笹木先輩にも誰にも打ち明けたことがない。打ち明けたところで証拠がないし、打ち明けるとなんかよけいにひどいことになりそうな気がする。アイツは、ヤバイ。マジでヤバイ。マジでヤバくてヤバくてヤバすぎる。退院した俺が推理研の部室に顔をだすと、笹木先輩と仲良く話し込んでる水樹がいた。俺は速攻で逃げ帰った。後で聞いてわかったが、笹木先輩は俺が入院してる間に水樹と知り合ったらしい。笹木先輩はすっかり洗脳されていた。俺とアイツの仲を勘違いしている。俺がどんなに水樹のことを嫌がっても、過去の残虐非道ぶりを訴えても、それらはすべて恥ずかしがってる俺のポーズに過ぎないと解釈され、逆にますます俺と水樹の仲をとりもつようなことをしむけてきた。あの四月の入院以来、別に目立って水樹から嫌がらせを受けたことはない。無言電話が週に五回くらいかかってくるが、アイツがやってるって証拠はない。江戸釜先輩にこの山荘の集まりに誘われたときは、笹木先輩にこの誤解を正すチャンスだと思った。大学のなかだとアイツが聞き耳立ててる気がしてしかたない。なんとかアイツに邪魔されずに話し合えると思った。で、あわよくばまあその誤解を正す以上のことになっちゃったりなんかしないかなあと思っていた。それが全部、吹っ飛んだ。アイツは、絶対に絶対に絶対になんかたくらんでる。
「冗談じゃねえええええ、ぞ!」
車を駐め、俺はビニール袋をぶら下げると、荒れ狂う雨と風の中を玄関へと走った。
リビングに戻ると宇多田がいなくなっていた。実は仕事の関係で徹夜続きだったらしく、酔いが早く回って気分が悪くなったのだという。結果的に、兄と妹がそろって体調不良で部屋にひきこもったわけだ。
「はううー、麻闇くん麻闇くん、ありがとごめんねおつかれさまー」
笹木先輩が声をかけてきてくれた。俺はソファに腰掛けると、コンビニで買ってきたものをローテーブルに並べていった。
「ついでにちょっと、買い出ししてきました。エート、探してみたけど薬屋が無くてさ。まー、さすがに薬屋は無いだろうとは思ったけど、でもコンビニはあったんで、これ、レトルトのおかゆ。まあ、体温計くらいは探せばどっかありますよね? あ、そうそう、チョココロネ、これ、あいつ好きだったんすよ。小遣いで全部チョココロネ買って食ってたことあったなあ……」
「アノー、麻闇くん?」
「え? なんすか?」
笹木先輩のトローンととろけたような表情を見て、俺は自分の失敗に気付いた。
「ち、違うっす! こ、これは、あ、あ、あ、あいつのことを心配してるとかそんなんじゃなくて! こう条件反射っつうか脊髄反射っつうか株式会社っつうか! ウワー! 先輩、目を閉じてウンウンおねーさんは全部わかってるよってな顔しないでくれー!」
浦駕さんは風呂から上がっていた。迷い込んできたときは寒さで凍えていて、なんだか見た目といい話し方といい、暗くて陰気そうなヤツに見えたが、風呂で暖まって元気になったのか割と勢いよくしゃべっていた。どうやら、推理小説の話で熱く盛り上がっているらしく、誰もガソリンの問題が片付いたことを話しかけようとしない。どうやら浦駕さんは最近の新人作家については名前も作品もまったくわからないらしく、そこから島田荘司すげーよ、読むの追いつかねーよとか口々に言い合い、栖川さんが、先月の講談社ノベルスで新人が一人デビューして、今日読み終えたんですけど、それが凄く面白かったというふうに話がどんどん広がっていった。
やがて浦駕さんが、俺の存在に気付いた。慌てて立ち上がりそれではこれでおいとまさせて頂きますとぺこぺこ頭を下げたが、江戸釜先輩が「もう少しゆっくりしてばいいにゃー」と引き留めた。せっかく転がり込んできたミステリー仲間を逃してたまるものか、という雰囲気ができていた。浦駕さんも会話を楽しんでいたのか了承し、ただし妻に遅くなることを伝えたいので、玄関の電話を貸して頂けますかと言った。
「うっうっう、つ、妻は怒るとこわいんです。すっごくこわいんです。こ、この間なんか、妻が飼ってる金魚の餌をやり忘れたら、夕食のとき、僕のおかずに金魚の餌がだされて……うっうっう」
なんだか泣き出しそうな雰囲気だったので、慌てて栖川さんがどうぞどうぞと声をかけ、浦駕さんはリビングをでていった。
こうして残されたのは、江戸釜先輩、栖川さん、笹木先輩、俺の四人。誰もお風呂に入ってないのはまずいですね、ということになり、一番風呂のはずだった江戸釜先輩は酒が入って動かなくなってしまったので笹木先輩がお風呂に入ることになった。
フト、栖川さんの顔を見ると、なにか気になることでもあるのか、ちょっと考え込むような表情をしている。どうかしたんすか、と俺は声をかけた。
「いえ、たいしたことではないんですけど。あの人、浦駕さん、確か山を下りようとしてガソリンが無くなった、と言ってたんです」
「ああ、そういやそうでしたね」
「たぶん、なにか買いに行こうとしたんだと思うんです。こんな別荘地で、人に会うために山を下りるというのも変ですし。そうなると、例えば暖房の燃料とか、なにかすぐに必要で重要なものが足りなくなったんじゃないかと思うんです。たいしたものでなければ、わざわざ夜、しかもこんな雨の中、麓まで下りるなんてことないですよね。なにか大事な物を買いに行こうとして、途中でガス欠になった。なにか大事なものが必要で、別荘には奥さんが待っている。それなのに電話一本で済ませるのが、なんだか少し変に思えたんです」
フフ、と栖川さんは笑い、ミステリーの読み過ぎですねと言った。俺は適当に、きっと奥さんとの仲が悪いんすよと答えた。
とんでもない事件が起きたのは、それから十分くらい後だった。江戸釜先輩が「おしっこ」と言い残して席を立ち、リビングから廊下へでようとした。
「江戸釜先輩、そっちは玄関のほうっすよ!」
と、俺が慌てて声をかけた瞬間、明かりが消えた。真っ暗になった。鼻をつままれてナイフで削り取られてもわからないくらい、真っくらくらの暗闇になった。
あら、と栖川さんが小さく声をあげた。その声に俺は、ドキッと心臓が跳ね上がるのを感じた。手を伸ばせば、触れるところに栖川さんがー! 真っ暗闇に美女とふたりー! 慌てて立ち上がって転んだフリをすれば抱きつけるかもー!
馬鹿者! 神様の声がした。壮大なギリシャの大神殿を背景に白髭を生やした神が背中から後光をきらめかせながら立っている。お前には水樹という女の子がいるではないかー! ちがうわー! 俺は神にドロップキックした。俺が好きなのは笹木先輩だっつーの! 神のくせに間違えんじゃねー! ドバドバとドーパミンが脳みそを駆けめぐる。全身が震え汗が噴き出す。決断せよ、俺! 人生でこんな美味しいチャンスは二度と巡ってこないかもしれないぞ! いやいや、俺は女たらしなんかじゃねー、笹木先輩一筋っす! 静まれ、俺の野生! 戦え、俺の理性! 目覚めよ、俺の紳士魂ッ!
「停電ですね」栖川さんの一声で、俺の脳内喜劇は終わった。
「さっき、ホットミルクを飲もうと思って電子レンジをセットしてきたんですよ。きっと他に誰かが電化製品を使ってるんですね」
「ひょっとして、浦駕さんがエアコンかなにかつけたのかもしれないっすね」
「いえ、玄関の辺りには暖房器具はないので、それはないですね」
「あ、なるほど。エート、ブレーカーはどこっすか?」
「キッチンです。うーん、手探りでいかないと」
暗闇の中、二人して立ち上がり、そろそろと慎重に歩きながらリビングをでた。外が雨なものだから月明かりも星明かりもない、真の闇だ。何度か転びそうになりながらキッチンにたどりつき、ブレーカーのスイッチを入れた。蛍光灯がまたたきながら明るくなり、俺はホッと息をついた。
リビングに戻ると浦駕さんが玄関から戻ってきていた。玄関側へのドアの前に江戸釜先輩が座り込んで頭をぐらぐらさせていたので、猫みたいに首根っこをひっつかんでソファに連れて行った。それから少しして、湯上がりの笹木先輩がリビングに戻ってきた。
「こ、こ、こ、怖かったよー! お風呂で中島みゆき歌ってたら急に真っ暗になるんだもん! なになになに、なにがあったのー!」
「イヤー、よくわからないんっすよ。宇多田さんか水樹が起きてエアコンをつけたのかもしれないっすね」
「あ! ドライヤーかも! 水樹ちゃんがなんか凄いパワーのドライヤー持ってきたって! 百万馬力だって! 部屋まで送ったとき、ちょっとだけそういう話した!」
「エート、百万馬力って、電力だと何ワットすか?」
まあ、とにかく電気が回復すれば問題なしということで、俺達はそれ以上原因を追及するのはやめることにした。栖川さんが笹木先輩と入れ替わりに風呂に入ることになり、残った者達でまたミステリー談義に花を咲かせることにした。