ごにょごにょごにょーん。江戸釜先輩が烏龍茶のグラスを掲げた。
「それではー、知恵と論理と不可思議な謎の物語が今後いっそうますますの発展を遂げることを願いましてー」
カンパーイ。俺達六人はいっせいに声を合わせ、グラスをあわせた。予定の午後七時まではまだ十分ほどあったが、全員集まってきたので始めてしまうことになった。リビングもそうだったが元ペンションだけあって食堂は結構広く、なんか資産家の娘の誕生パーティーに招待されたような雰囲気だ。ピカピカのテーブルクロスに豪華なパーティー料理。キャンドルの明かりが揺れるなかで俺達は改めて一人一人の自己紹介を済ませた。いちばん最後に立ったのは、痩せた長身の男だった。
「宇多田尚吾。ここにいる水樹の兄です。年が離れてるんで、よく父親だとか叔父だとか間違われるんだけど、まだギリギリ二十代なので、よろしく。今日はいきなり連れて行けと言われて参りましたよ、ハハハ」
強い風の中を歩いてきたのかと思うほどグチャグチャに髪が乱れていて、なんかライオンのたてがみみたいだが、それはそういうヘアースタイルなんだろう。十月だというのに肌が浅黒く灼けていて、スポーツマンタイプの身体をしている。去年の冬に某資産家のご令嬢のとこに婿入りしやがって、それはそれは両家の親達親戚達の間で喧々囂々の非難と争いとメロドラマがあったらしい。まあ、確かに好感の持てるヤツには違いない。ほどほどに丁寧で、ほどほどにくだけていて、爽やかな笑顔を振りまくフツーの常識人。クソ、死ねばいい! このクソ兄貴!
「仕事はフリーのカメラマン。江戸釜さんとは仕事の付き合いで、声をかけていただきました。今日はよろしく」
俺が心の中で毒づいていることも知らず、ニッと笑顔を振りまいてフツーの常識人は腰を下ろした。その隣りに座る妹は、さっきから俺の顔をじっと睨み付けているらしい。まあ、俺はできるだけ顔をうつむけたり右を向いたり左を向いたり視線をまともに合わせないようにしてるのでよくわからないが。降り始めたのか窓の外から雨音がかすかに聞こえてきた。
「ねえねえ、なんか、こんな雰囲気のある山荘だと、殺人事件でも起きそうですよね……なんて。キャー! このセリフ、一度言ってみたかったのー! 普通の人達との旅行でこんなこと言ったら変な人と思われるし、うちのサークルだと合宿なんてないし、やっと言えたよー! ハー、人生の宿題、ひとつ片付いたー」
笹木先輩、そういう宿題はいくつあるんだ。会話は自然な流れで古き良きクローズドサークルもののへと流れ、シャム双生児だのインディアン人形だのという単語が飛び交った。チキンにかぶりついた江戸釜先輩が口をもごもごさせている。
「そーいえばー、あれも長く続いてるにゃー。ほら、あれ、あれ、メッセンジャー! 連続殺人鬼メッセンジャー! 現場に残された謎の署名と数字! 犯人のメッセージはなんなのくわー! 待て、次号!」
次号、でてきませんねと宇多田が笑った。
「そうだにゃー、前の事件から一ヶ月以上は経っているぞろにょろりな。まー、別に殺されてほしいってわけじゃないけど、そんな不謹慎なことは言っちゃだめだきぇど、でもでも続きが気になるのー」
気になりますーと笹木先輩が声をあわせる。
「だって今日は推理小説大好きな人達の集まりですもん! 不謹慎全面解禁でいきましょ! せっかくだから、次の殺人がいつになるか推理してみません? いちばん最初の事件っていつでしたっけ? もう一年くらい経ってましたっけ?」
いや、と俺は首を振った。
「ほら、なんだっけ、あの日は祝日で……ああそっか、天皇誕生日だったな。俺、そんとき怪我で入院してたんですよ。テレビばっか観ていて、皇室関係の番組が多かったんで覚えてます。だから実際の殺人があったのは、天皇誕生日の一日前か? だから、一年は経ってない」
メッセンジャー。関東一円に出没する連続殺人鬼は、マスコミにそう呼ばれていた。名前の由来は、いつも殺人現場にふたつのメッセージを残していくから。ひとつは、数字。もうひとつは、意味不明の平仮名。もう既に三人もの人間を殺している。
最初の事件がテレビで流れたときは、詳しいことはナーンニモ報道されてなかった。ただ殺害現場の公園が駅二つ分くらいのけっこう近いとこだったから驚いた。第二の殺人のときは、ぜんぜん知らなかった。報道はされてたんだろうが県外のことだったし耳に入っても聞き流してたのかもしれない。一ヶ月半くらい前に第三の犠牲者がでて、その一週間後くらいに某女性週刊誌で「無差別連続殺人」「シリアルキラーが関東に潜伏」「殺人鬼『メッセンジャー』はなにを伝えようとしているのか?」なんて見出しがデカデカと並んで、推理小説研究会で話題になった。江戸釜先輩は、推理研のOBで警察関係者だとかいう人にまで電話して詳細を聞き出した。
第一の犠牲者は、高田武史。三十二才、会社員。某市民公園で植え込みに倒れているのを散歩途中の老人が発見した。死因は背中と胸を刺されたことによる出血多量。被害者は通勤のため公園を通り抜けようとしていて、会社からの帰り道を背後から襲われたものと警察は推測している。
普通の通り魔による犯行と異なっていたのは、現場にいくつもの紙が落ちていたことだった。被害者が所有していたメモ帳から破り取ったらしく、すべての紙にアラビア数字で「1」と読める文字が書かれていた。更に、背広の胸ポケットからは丸めた紙がみつかった。これも同じくメモ帳から破り取ったもので、平仮名の「た」という一文字だけが書かれていた。数字や平仮名を書くのに使用したボールペンも被害者が所有していたものを使ったらしい。
第二の犠牲者は鮎樫鉄也、四十七才。高校の数学教師で、母親と二人で住んでいた家の玄関で刺し殺されていた。被害者は日曜大工を趣味としており、その日はたまたま土間でペンキ塗りをしていた。犯人はこれを利用して、赤いペンキで玄関扉にアラビア数字の「2」と読める文字を描き残していた。更に、玄関近くにあった電話のメモから一枚が破り取られ、今度は二文字「たし」と書かれて被害者の尻ポケットに入れられていた。母親はかなりの高齢で耳が遠く、玄関に応対にでかけた息子が来客に殺害されていることにまったく気付かなかったらしい。
第三の犠牲者は高校二年生の横見路青史。河原にかかる橋の下で倒れているのを新聞配達員がみつけた。部活のためにいつもより早い時間帯に家をでて、登校途中に殺害されたらしい。現場には割れた瓶の破片でアラビア数字の「3」が作られていた。そしてこれまでの被害者と同様に、学生鞄の中にあったノートが破られ、筆箱にあったシャーペンを使って「たしろ」という平仮名三文字が残されていた。
メモの類はすべて被害者自身の所有物やその場にあったものを使っていて遺留品はゼロ。じゃあ、どうして同一犯だとわかるかというと、どうもナイフによる傷の跡が一致しているらしい。また、それぞれの事件で同じような姿格好の不審者が目撃されているらしく、それでも被害者同士のつながりとなると警察にはまったくわかってなかった。なにより、今はあの女性週刊誌の記事がきっかけとなって、この手のことに興味があるヤツなら誰でも数字やメモのことを知っているが、それ以前は誰もそのことを知らなかった。メモの平仮名は一文字ずつ増えているのだから、第一、第二の犯行のときのメモを知らなければ、第二、第三の犯行のときに正しいメモを残すことができない。
第一の犠牲者、高田武史、数字の「1」に平仮名の「た」。
第二の犠牲者、鮎樫鉄也、数字の「2」に平仮名の「たし」。
第三の犠牲者、横見路青史、数字の「3」に平仮名の「たしろ」。
殺人鬼はどんなメッセージを伝えようとしているのか?
「なによりも」宇多田がグラスを一口傾けながら言った。
「平仮名のメモ、あれがちょっと、心惹かれるなあ。あれって、被害者の名字の、最後の一文字をつなげてるんですよね?」
「そうだにゃー。たか『た』で『た』、あゆか『し』で『し』、よこみ『ろ』で『ろ』。ただ、それになんの意味があるのかってことになるとサッパリにょろりぞろん。吾輩はあれ、ただのひっかけで、メモには他に意味があると睨んでるぞよー」
そんなふうに江戸釜先輩も応じたものの、さて、次の犯行がいつどこでとなると、素人探偵たちはさっぱりアイデアがでない。笹木先輩の顔を見て俺は声をかけた。
「先輩、気を付けたほうがいいっすよ。鮎樫鉄也だとか横見路青史だとか、本格推理作家と一文字違いの名前ばっか襲われてるじゃないっすか。佐々木丸美だって、館物とか本格推理小説を書いてますし、今夜は俺が付きっきりでガードしますよ!」
「ですって、江戸釜先輩。麻闇くん、江戸釜先輩を一晩中ガードしてくれるそうですよー」
「ウハハーイ! 麻闇くんよろぴくー」
すいません間違いです勘違いですジョークです無意味です。へこむ俺に笹木先輩が「むふふ」と笑った。
ウーム、なんか、けっこう楽しいな。食事を終えたとき、俺はそんなことを思い始めていた。初対面の奴と趣味の話をして面白くなるわけねーと江戸釜先輩には言ったが、みんな読書歴が長くて視野が広いし理解力が半端じゃない。打てば響くような応えが返ってくるし、再読しないと気付けないようなことも教えてもらった。
リビングでノンビリしましょうということになり、飲み物や余った料理の一部を運んだ。リン、ゴーンと高級そうな玄関ベルの音が鳴り、栖川さんが首を傾げながらでていった。まだ誰か来るんですか、そう江戸釜先輩に訊いてみたが、やはり先輩も同じように首を傾げている。
「ねえ、ねえねえねえ、麻闇くん麻闇くん。水樹ちゃんがちょっと気分が悪いんだって」
鬼の霍乱。笹木先輩に声をかけられたとき、思い浮かんだのはそのことわざだった。いや、笹木先輩の後ろに立つ虹村水樹は生白い顔をうつむけて、確かにホントに具合が悪そうだが。水樹が、腕を伸ばしてきた。細い腕だ。白い手首が俺の腕をつかんだ。ヒッと悲鳴をあげて逃げ出しそうになるのを俺はこらえた。
「どうしよ。どうしよどうしよ。部屋、行こうか? 横になったほうがよさそうだね。きっと疲れがでたんだね。麻闇くん、一緒に行こ?」
ソファに座った宇多田がリモコンで大型テレビの電源を入れた。ニュースらしく、見覚えのある顔のキャスターがブラウン管に映った。これまでに関東方面で三件の連続殺人を重ねてきた、通称「メッセンジャー」による第四の被害者がでました。CMの後、詳しくお伝えします。
「ほー、第四の犠牲者だにゃー」
同じくソファに座っていた江戸釜先輩が声をあげ、眼鏡の位置を直した。
玄関側の扉が開き、北欧美人の栖川さんが現れた。玄関から戻ってきたらしい。更に、栖川さんの後ろから別の人物が現れた。小柄な男性で、唇を真っ青にし、寒そうに震えている。
あの、こちら、お隣の浦駕さん。ちょっと困ったような顔で栖川さんはそう紹介した。
「山を下りようとして、ガソリンが切れてしまったそうです。お隣と言っても、車で十五分くらいかかりますけど」
ははあ、車の中だから大丈夫だと思って薄着でいたわけか。それがガス欠で、しかも冷たい雨の中を歩くハメになったものだから凍えてるらしい。浦駕さんは青ざめた顔で、小さく唇を開いた。
「どうも……うっ、うっ、うっ……お邪魔してしまってスミマセン……浦駕、浦駕和白といいます……うっ、うっ、いきなり押しかけてスミマセン……わ、わたしは、もう……」
あー、早くこっちに来るんだにゃー。江戸釜先輩が声をあげた。
「ほらほら、ここ、ここ、空けますにゃー。ファンヒータの前にどうぞどうぞどうぞ。アー、江戸釜乱歩と申します。以後、お見知りおきを」
うう、すみません、すみませんと頭を下げながら浦駕さんはソファのほうに進んだ。慌てたように宇多田が立ち上がる。
「あ、自分は宇多田尚吾と言います。今日はなんていうか、推理小説ファンの集まりみたいなものでして。えっと、ほら、あそこに立ってる、黒い服なのが妹の水樹、左右にいるのがエート、笹木真澄さんと、麻闇由汰くん」
はじめまして、と俺は軽く頭を下げた。笹木先輩も同時に軽くお辞儀してから、思い切った口調で言った。
「あ、あの、すみません、ちょっと、水樹ちゃん、体調悪いみたいなんで……部屋に戻ったほうがいいみたいなんです」
まあ、それは大変ねと栖川さんが声をあげ、笹木先輩がスミマセンと再び声をあげると、水樹の手を引いて奥のほうの扉から出て行った。
ガソリン、どっかにあるんすか? 俺が訊ねると、栖川さんは首を傾け、物置を確認してみますが、もし無いようなら他の車からわけてあげないと、と答えた。
「ごにょごにょごにょーん。浦駕さーん、メッセンジャーのことは知ってるでありますかの? いまさっき、第四の犠牲者がでたでありまするよー」
うっ、そうなんですか。抑揚のないボンヤリした虚ろな声で浦駕さんが言った。栖川さんが浦駕さんの顔を覗き込んでいたが、急に口を開いた。
「あの、浦駕さん、お風呂に入ったほうがいいですよ」
「え……いや……あの……私は、ガソリンをわけていただければ……もうそれだけで……」
「ダメです。医者としての忠告です。いますぐ!」
浦駕さんの肩をつかみ、なんだか無理矢理といった感じで立たせると二人は風のように去っていた。残された江戸釜先輩と宇多田が「俺達もなにかしたほうがいいんですかねえ」という感じで顔を見合わせていたが、コマーシャルが終わってニュースが始まると、そろってブラウン管に釘付けになった。
ボンヤリと立ち尽くしていた俺は、我に返ってソファに座ろうと足を一歩踏み出した。だが、見えないなにかが、俺の行く手を阻んだ気がした。くるりと回れ右し、奥のほうの扉から廊下にでると、小走りで急いだ。
「アレー? 麻闇くん、どうしたのー?」
笹木先輩が廊下に立っていた。部屋の中、入口の向こうに水樹が立っている。え、いや、ま、大丈夫かなって思ったんすよ。そう応えながらも、俺は心の中で首を傾げていた。ハテ、自分はここへなにしに来たんだ? 連続殺人鬼の最新ニュースのほうが大事なはずだが。水樹は相変わらず表情のない顔で、大きな黒い瞳を見開いていたかと思うと、こいこい、という感じに指で手招きした。なんじゃらほいと俺が歩み寄ると、水樹はなにか内緒の打ち明け話でもするみたいに、片方の手を小さなメガホンの形にして口元にあてた。腕を引かれ、俺は腰を落とし、耳を水樹の口元に近付けた。
次の瞬間、湿り気のあるなにかが、俺の頬に押し当てられた。
バタンとドアが閉まり、ガチャリと鍵が締まる金属音が響いた。シリンダー錠の連続する冷たい金属音は、なにかを拒むような印象がした。中腰の間抜けな姿勢のまま、俺は凍り付いていた。笹木先輩が、両手を口元にあてて頬を真っ赤にしている。なんだ? なんだなんだなんだ? いま、なにがあった?
次の瞬間、首になにかが絡み付いた。笹木先輩の腕だった。先輩は俺をヘッドロックし、物凄い奇声をあげた。柔らかい膨らみが首筋を素敵に圧迫しまくる。おお、これが、安楽死というものであろうか。ダダダダダ! ヘッドロックされたまま俺は笹木先輩にひきずられていき、壁に打ち付けられた。ゴツーン! 派手な音と痛みに視界の中を火花が飛び交い、呻き声をあげながら俺は冷たい廊下に倒れ込んだ。「チュ、チュ、チュ、チューしたー! チュー! チューチューチュー! おやすみのチュー!」笹木先輩が歌いながら踊り狂いリビングのほうへ駆けていく。俺は勢いよく立ち上がると、全速力で後を追いかけた。