霧崎重一が私達の前に姿を現したのは、最初の飲み物に一口つけた頃だった。扉の鈴が鳴り、痩身長躯の男性が姿を見せた。ダークグレーの上着を腕にかけ、もう片方の手に持った煙草の箱を包むセロファンを剥がそうと、銀色の線の端を口にくわえ、ぐるりと箱の方を一回転させる。
 店内は八割程度の混み具合。土曜の夜だけに、休みを控えたサラリーマン達が集まってくる。カウンター席に座っていた私達は店の出入り口が見える位置にいた。坂口が軽く腕をあげ「ここだ」と呼んだので、私はすぐにその男性が霧崎なのだとわかった。
 霧崎はマスターに水割りを注文し、それから肩にかけた鞄を腕に持ち替えながら歩み寄る。五十代前後だろうか、ほっそりしてスマートな体形だ。意識してるのか、動作に無駄がなく気品がある。しかしさすがに長旅の疲れがあるのか、表情に影がさしている。
「お待たせしまして」
 軽く一礼して、カウンターに腰を落ち着ける。
 それから坂上により、霧崎と私が相互に紹介された。私は列車遅延のことをねぎらい、書店の人間として世話になっていることを告げた。坂上がグラス片手に、ニヤニヤ笑いながら私の顔をみつめている。
 それから本題に入った。若竹七海氏が同じ体験をしたことを、私はこのとき初めて知った。なんでも五十円玉二十枚両替の謎を、短編推理小説形式で一般公募しているのだという。
「それでしたら、今度両替男が来たときに訳を訊いておきましょうか」
 思いつきで口にすると、霧崎はいやと首を振った。
「本当の理由を伺っても、小説にはなりませんから」
「ならない癖に、話を訊きに来たのか?」坂上が茶々を入れる。
 霧崎が困ったように笑みを漏らす。ふと、霧崎の顔の向こうに視線を惹かれた。店の扉が開き、あの老人が入って来た。片手をズボンのポケットに突っ込んでいる。
「爺さん、賭はどうだった?」
 私が声をかけると、老人は背をまっすぐ伸ばしてこちらを見た。唇の端を軽く持ち上げ、ソフト帽を脱ぐ。霧崎が不審気な顔をし、坂上は無表情にチェリーをくわえている。無言で老人はこちらに歩いてくると、帽子の先で霧崎を指し「こちらは?」と訊いた。
「霧崎さん、推理小説作家だ」
 ほう、と老人は声をあげ、そのまま霧崎の隣に腰を落ち着ける。そっとカウンターの内側に立つマスターの顔を伺ってみると、白髪頭に苦り切った顔を浮かべ、耳の後ろを掻いている。年期を積んだだけあって無難に老人を客扱いしているが、難しい客には違いない。
 私は改めて五十円玉二十枚男の体験を話すことにした。霧崎は二、三度質問し、それに私は答えたが、両替男と直接顔を合わせていないだけにあまり役立つ情報を与えられなかったようだ。両替男の風貌を答えている内に、ふと、その特徴がすべて老人にあてはまるのに気付いた。
「まさか、爺さんが両替男じゃないでしょうね」
 薄く笑みを浮かべて老人は答えない。
「今、思いついたんだが」
 唐突に坂上が口を開く。
「五十円玉のレアコインを探してるんじゃないか、その男は」
「そういうのは苦手ですね」霧崎が口を挟む。
「知識がないと解けないでしょう……ロジックで、なぜ五十円でなければならないのか限定できるといいんですが」
「説明できるかもしれませんよ」
 私はグラスを口に運ぶ。視線が集まるのを感じた。
「硬貨ではなく、札の方を集めていたのかもしれない」
「千円札を? 違うだろ、問題なのは、なぜ五十円玉なのかだ」
「ああ、簡単さ、男は両替に五十円玉しか使えなかったからだ」
 坂上が視線を上に向け、考え込むポーズ。霧崎も老人も、面食らったような顔をしている。
「男は未来から来たのさ、タイムマシンでね。五十円玉以外の硬貨は新硬貨が発行された時代から来たものだから、古い千円札を手に入れようとすれば五十円玉でしか両替できなかったのさ」
 こういう奴なんだよ、と坂上が親指で私を指す。
「こんなのはどうかね」
 次に切り出したのは、意外にも老人だった。
「まず、五十円玉が一枚ある」
 わけもなく、三人同時に相槌を打つ。
「賭好きな男がいてな、ちょいとばかりイタズラなゲームを思い付く」
 どうやら、賭事に話を持っていきたいらしい。
「で、まず月曜日、五十円玉を一枚賭ける。男は必勝法を知っているから、わけなく勝つ。儲けは五十円玉二枚」
「いい儲けですね」霧崎がつぶやく。まったくだ。
「そうでもない」
 老人は唇を湿し、ここが勘所だというふうに、こめかみを中指でつつく。
「火曜日には、百五十円しか儲けがない。五十円玉三枚だ」
「それで?」坂上がせかす。
「水曜には四枚、木曜日は五枚、金曜日は六枚儲ける」
「なるほど」私はうなずいた。
「一から六まで足せば、合計二十一。二十枚は土曜日に両替に行き、余った一枚は翌週に持ち越すんですね」
 老人がウィンクでイエスと答える。素晴らしい、と霧崎が嬉しそうに笑う。
「後はアンタが」老人が霧崎の肩を叩く。
「賭の内容を考えて小説に仕立ててくれや。なに、ワシはその賭の方法と必勝法さえ教えてくれれば礼なんていいから」
 さすがだ。私は心内で喝采を送る。
「楽しそうなお話ですね」
 手が空いたのか、マスターがこちらに近付いてきた。
「マスターにもいい考えがあるかい?」
 坂上が空のグラスを示す。追加注文する気のようだ。
「いえ、恥ずかしながら、推理小説に触れたことがありませんので」
 空のグラスを受け取りながら、マスターは顔の前で小さく手の平を振る。まあまあ、なんでもいいからと坂上もしつこい。
「そうですね……他の硬貨になくて、五十円玉にある特徴といえば、やはり穴でしょうな」
「五円玉にもあるぜ」
「ビルの基礎に使うというのはどうでしょう」
 ポカンと坂上が口を開ける。
「鉄心を通すんですよ、五十円玉の穴に」
「脱税ですね」霧崎は微笑みを浮かべている。
 老人はウンウンとうなずき、こつこつ指先でカウンターを叩く。
「そうです、さすが専門家ですね。どこかの会社社長が脱税対策のため、大金をすべて五十円玉に両替し、それを自分の会社で建てたビルの壁に埋め込んだんです」
「ちょっと待て、誰がそれを両替するんだ」
「浮浪者ですよ。ビルが老朽化で傷み始め、コンクリにヒビが入った。路地裏に住み着いていた浮浪者が偶然ヒビの隙間に腕を突っ込んだら、五十円玉がたんまりでてきたわけです」
 別の客から声をかけられ、マスターは離れていく。坂上は新しいグラスを口元に運び、そろそろ給仕に訊いてみたい心境だなとぼやいた。
「どうです、霧崎さんは今のところ、どういうお考えですか」
 私は訊ねた。霧崎は指の間に煙草を挟んで腕組みし、ぼんやり宙を眺めている。もう片方の指先には、扇形に広がるカードが五枚握られている。いつの間に。
「そうですね」ワンテンポ遅れて、霧崎が答える。
 隣で老人が、ツーペアと言いながら五枚のカードを裏返す。
「フルハウスです」
 持っていたカードを表に向けてカウンターに置き、まだ夢心地のような顔で霧崎は続ける。
「特にまとまった考えはなにも。私はパズラータイプでして……ああ、つまり細かいことから蓋然性に基づく推論を行い、可能性を限定していった先に答えを見出すんです」
 よくわからなくて、私は頭を振った。
「例えばですね」一口煙草を喫って、霧崎は続ける。
「両替男は五十円玉二十枚を、手に握りしめて店に来ています。しかし考えてみて下さい、なぜ男は五十円玉を握っていたのでしょう? なぜ財布や、ビニールの袋にでも入れて来なかったのか?」
 誰も答えられない。老人だけが、もう自分には関係ないというふうにカードを配っている。
「考えられるのは、男は書店の近くから来ている、ということですね。電車やバスに乗るなら、邪魔ですから財布なり袋なりに移すでしょう……二枚交換です」
 霧崎はカードを交換し、少し微笑む。老人は三枚交換している。
「歩くにしても、そう遠くはないはずです。せいぜい二、三ブロックでしょうか。それと、五十円玉はなにかの集金だったという説もこれで成立しなくなります。二十枚ですからね、袋を用意するでしょう」
「しかし、そんな考え方では仮説が思い付きにくくなるのでは?」
「ええ、そういう場合もあります。失せ物を探すのと同じですね。捜索範囲を適切に限定してやれば発見は早くなりますが、その絞り込みのどこかで間違いがあると、見当違いの場所をいつまでも探すことになる」
 フーッと長い溜息をついて、霧崎は煙草の灰を落とし、手にしたカードの表を確認する。
「どうやら、私は今回絞り込み方を間違えたようです。どこにもみつからない……フラッシュです」
 老人は小さく舌打ちし、投げ出すようにカードを裏返す。どうやら、今夜は調子が悪いようだ。カウンターの端で、マスターが薄笑いを浮かべて老人をみつめている。
「逆のアプローチもしてみたんですがね」と霧崎。
「逆?」
 坂上が俺にもと老人に腕を伸ばす。
「そもそも、男はどこから五十円玉を集めてくるのか、を考えることです」
「大蔵省からじゃないですか」
 自分も酔い始めたな、と私は気付いた。
「五十円玉をどうやって手に入れるか……考え方としては三通りだと思います。ひとつは、消費者側として。二つ目は、販売側として。三つ目は、その他です」
「四つ目に、共産圏側の人間てのはどうだ」
 坂上がカードを扇形に広げながら混ぜ返す。
「消費者側の場合」霧崎は動じない。
「五十円玉を手に入れるには二通りしかありません。お釣りか、両替です。しかしお釣りでは一度に最大二枚しか入手できない。両替も、小銭から札は一般的ですが、札から小銭というのはあまりありませんね。例えばバス等で小銭払いを求めるための機械だと、一度に手に入れられるのは一枚だけです。そうそう、自動販売機も少し古いタイプだと、五百円玉なり百円玉なりを入れてお釣りレバーを下げれば細かいので返ってきます。販売側だとどうか? 五十円の商品を売っていても、集まった五十円はお釣りとして捌けるから手元に残らない、という説があります。それでは、百円単位での売り物しかない店ならどうでしょう。五十円玉二枚で払う客がいるので集まりますね。釣りとしては、店の良心で百円玉を優先して渡すでしょう。となると、五十円玉はどんどん溜まっていきます」
「それいいじゃないですか」
 相槌を打ちながら、私は舌を巻いていた。よくそんな細かいことを考えるものだ。
「充分自然ですよ。五十円玉が集まる理由としては、盲点になってると思います」
「ええ、そうなんですけどね」霧崎は配られたカードに目を通す。
「ですが、そうなると今度は千円札に両替する理由がわからなくなりましてね……店の売り上げなら、まとめて銀行で両替しそうなものです。どうして千円だけ、決まって土曜の夕方に両替するのでしょう?」
 また長い溜息をつき、霧崎はカードを伏せる。
「交換なしでお願いします」
「俺、降りる」と坂上。
「ワシも」メモ帳に戦績をつけながら老人が言う。
 グラスを重ねるうちに、五十円玉二十枚の謎はどこかに吹き飛んでいってしまった。ポーカーを終えたところで賭金をいったん清算したが、老人のツキは相当悪かったようだ。
 諦めきれないのか、老人は別のゲームを提案した。五かける五に並べた点を交互に結んで四角を作っていくゲームだの、異種ルールのしりとりだのをした。どうやら、私の眼があったのでイカサマは控えたらしい。私と坂上はほぼとんとんで、霧崎が一人勝ちしていった。構想の進まない小説に苛立っていたのだろう、霧崎の顔は酔いも手伝って見違えるほど晴れ晴れとしてきた。老人はといえば、ツキの流れの悪さにかえって熱くなってきたのか、賭ける金額が大胆になってきた。
「申し訳ございません、ラストオーダーになりますが」
 マスターの声に我に返り、腕時計を確かめ驚いた。いつの間に時が進んだのやら。辺りを見渡すと、店内に残るのはいつの間にか私達だけだった。
「そうかい」
 血走った目を細め、老人は少し考えあぐねるようにカウンターを指先でコツコツつついていたが、やがて決心を固めたのか、指を広げ手の平で強くカウンターを叩いた。
「よし、最後の賭だ。マスター、賭の方法はあんたが提案してくれ」
 困ったように、マスターはチラリと私を見やる。
「なんでもいいですよ、生命線がいちばん長いヤツが勝ちとか」
 ハア、と自信なさげにマスターはつぶやく。
「では……そうですね、持っている十円玉がいちばん多い人を勝ちとしましょう」
「賭金を宣言しよう」
 老人はそう告げ、賭金を言った。老人を除く全員が、同時に目を見開いた。老人は今夜のすべての負け分以上をとりかえそうとしていた。
「俺は降りる」坂上が手をあげた。
「同じく」私も続いた。
 四人の視線が霧崎に集中する。霧崎は呆けたように口を小さく開けていた。
「そうか……」開きっぱなしの口から、やがて小さくつぶやきが漏れる。
「そういうことだったのか」
 老人が立ち上がり、尻ポケットから二つ折りの革財布を叩き付けるようにカウンターに置く。霧崎は無表情なまま、ズボンのポケットから小銭入れをとりだす。
「霧崎さん!」思わず私は叫んだ。
「賭けます」
 チャックを開け、霧崎は小銭入れの中身をカウンターに並べた。私と坂上はアッと息を飲んだ。一目で十枚以上の十円玉があるのがわかった。老人はうろたえたように、カウンターの上の財布をギュッとつかんだ。しかし決心したのか、小銭入れになっている部分の留め金を外し、ゆっくりと傾け小銭をこぼした。その合間に、霧崎はゆっくり十円玉だけを数えている。
「私は、十二枚です」
 霧崎は報告した。カウンターの上の老人の指先が、動きをとめる。五枚ずつの山が、ふたつ。
「勝った……」坂上が息を吐く。
「いや、待ってくれ」
 老人が両腕をめまぐるしく動かし、上着やズボンのポケットを調べている。
「あるはずだ……マスター、財布の中だけとは、言わなかっただろう?」
 霧崎は静かに十円玉を小銭入れに戻している。それから内ポケットに手を滑り込ませ、札入れを取り出す。
「あった!」
 老人が指先に、三枚の十円玉を光らせた。