ぬるま湯のように生暖かい夜が迎えた。アメリカ映画に、水底まで照らされたプールがよくでてくるが、そんな感じの光に満ちた表通りを泳ぐように駅の方へ移動する。湿度にやられていた人々が今頃になって目覚めたかのように、過ぎゆく人々のざわめきには活気が満ちてきている。
「あの本屋だっけな、おまえの仕事場は?」
隣を歩く坂上が交差点の向こうの建物を指差し、私は軽くうなずく。私達が向かっているバー「おんぼろ車」までは、ここから二ブロック程だ。
いつも目印にしている煙草の自動販売機の角を曲がる。自動販売機がある側と道路を挟んで反対側は、一階がレンタルビデオストアで、二階が小さな映画館だ。何気なく目をやると、二階への階段の暗がりに見知った顔が立っているのに気付く。壁に背もたれ、気怠げにこちら側を眺めている。
「よお、爺さん」
軽く手を振ると、気付いたのか向こうはただ微笑みで返した。ソフト帽を被り、この気温にも関わらず上着を脱いでいない。縦縞のシャツに、ズボンのポケットから懐中時計の鎖。帽子の鍔が影になって、老人の顔はよくわからない。ただ口元の笑みだけが照らされている。
少し先を歩いていた坂上が立ち止まり、あれは誰だという顔で振り返る。
「おんぼろ車の常連さ」
私は短く答え、また視線を老人に戻す。
「そんなとこで、なにやってるんです。誰か待ってるんですか?」
老人は蚊でも追い払うように顔の前で手の平を振る。
「賭さ」年齢を感じさせない太い声。
「なんだって?」
「今夜最後の賭をしてるのさ」
意味がつかめない。腕時計を確かめた坂上が「行こうぜ」と手招きする。私は店に行くことを伝えて老人と別れた。
「なんだろうな」
坂上がつぶやく。やはり、気になったようだ。
「まあ、変わり者だしな」私は曖昧に答える。
老人の名前は知らない。バー「おんぼろ車」にはよく顔をだす。平社員の頃からなので十年以上私はあの店に通っているが、その頃から既に老人はあの通りだった。老人の職業も、住所もわからない。身内の人間がいるのかも知らない。競馬場で予想屋をやっていたのを見たという者もいるし、しがない電化製品小売店を一代で大手チェーン店に育て上げた会社社長の隠居後の姿という者もいる。
ただ私が知っているのは、老人が賭好きだということだけだ。ポーカー、麻雀、チェスは当然のごとく、次に店に入ってくる客が男か女かといった思いつきの賭もする。どんな高額になっても負けたときの支払いを渋ることはなく、といって小銭程度の額でも勝てば相手に必ず請求する。
老人は、強い。強いといっても当然、運強さだけに頼っているわけではない。経験の浅い若造からは容赦なく搾り取る。ある晩、老人と背広姿の青年が座るテーブルにマッチ棒が並んでいるのを見て、私は思わずニヤリとした。ニム・ゲームという、マッチ棒を交代に取り除いて、最後の一本を取らざるを得なくなった方が負けというゲームだが、これは必勝法さえ知っていれば必ず勝てるイカサマゲームだ。うかつに近づくと火花が散りそうな強かさがこの老人にはある。
裏通りに入ると「おんぼろ車」はすぐそこだ。元は馬車か大八車を支えていたのか、巨大な木製車輪が飾られている。半地下で窓がないので、中の様子はうかがえない。坂上と私は入り口への階段を下りた。