土曜の夕方、私は約束にあわせて早めに勤めを終えた。店を出る前にレジのアルバイト店員に直接訊ねると、今日もあの男は現れたらしい。男の風貌などを詳しく訊いてから店をでた。クーラーの冷気が一瞬で湿度に切り替わり、慌てて上着を脱ぐとシャツの背中が乾くのを感じた。陽が傾き、街は美しく橙色に染まっている。
 向かったのは駅近くの洋食レストランで、そこで私と坂上、そして五十円玉二十枚男に興味があるという男と落ち合う予定だった。ところが、レストランのテーブルで待っていたのは坂上一人。なんでも、仕事の都合と列車の遅延が重なったらしい。携帯電話など無かった時代だから、連絡を取り合いながら移動するなどという器用なことはできない。けっきょく、坂上の知り合いという男とは別に夕食をとり、その後でバーに集まって飲みながら話し合おうということになった。
「間に合うのか、その……」
 おしぼりで額を拭いながら、名前を思い出そうとして詰まった。
「霧崎、霧崎重一」
 蟹眼鏡にまるで無表情な小さな黒目をキョトンとさせて、坂上は答える。電球のように禿げ上がった頭に薄い唇、低い背。陰気で小狡そうな印象。これが法廷でひとたび口を開けば明朗闊達論旨整然とするのだから、人は見かけによらない。
「さあね、株のことは詳しくない。最近首切りが多いから、そっちもあるかもしれん」
「人身事故さえなければ、間に合うと言いたいのか?」
「冗談がわからんやつだな」
「おまえのブラックジョークは、特にな」
 懐具合に合わせた注文をし、料理が運ばれるまでとりとめもなく近況を語り合った。パンとスープがテーブルクロスに並ぶ頃には話題は一巡りし、坂上の知り合い、霧崎重一という男に戻った。
「どういう奴なんだ?」
 私が訊くと、坂上はスプーンからぼたぼたスープをこぼしながら上目遣いに私を睨む。
「知ってるだろ」
「知らんよ」
「本名と同じだぜ」
 頭の中で赤い発光ダイオードが二、三度明滅する。
「作家か……推理小説か?」
「本屋だろう、おまえは。本格推理小説てのは、最近流行ってると聞いたぞ」
「新本格か、新人ならわかるが。霧崎てのも新人か?」
「いや、古い。寡作だがな。年にせいぜい一冊てとこだ」
 続けて訊いてみると、霧崎重一は余技作家らしい。本職は法律関係の仕事であり、坂上とも仕事を通じて知り合った。どうやら五十円玉二十枚をネタに小説を書こうとしているらしく、それで話の出所である私のもとへ直接取材に来るということらしい。
 食後のコーヒーを片付ける頃になって、坂上が唐突に訊ねた。
「おまえはどう思う?」
「不景気のことか?」
「五十円玉のことだ」
「そうか……実は黙ってたがな、あの両替男、うちの店員が跡をつけたことがある」
 私はわざとらしく、チラリと左右の席をうかがい、内緒話をするように少し前屈みになった。坂上は煙草の灰を落とし、一口喫って「それで」とうながす。
「そうしたら、男は寺に入っていった」
「寺?」
「そうさ」
「賽銭ドロだったのか」
「うちの店員もそう思った。その日は引き上げて、翌日その寺の住職に会いに行った。これこれこういうことがありまして、もしかしてお宅の賽銭箱に誰か手をつけてるんじゃありませんか、とね」
「それで」
「実は住職も賽銭が少ないのを不審に思ってたらしい。ところが、賽銭箱を無理にこじ開けたような跡は全くなかったんで、盗まれていたとは思わなかったんだな」
「もしかすると、住職の家族が?」
「うちの店員もやっぱりそう思った。で、詳しく両替男の人相風体を説明してやった……そうしたら、住職驚いて言った。その男なら、今年の春に亡くなりました」
 眉を寄せる坂上。どうやら、まだ気付いてないようだ。
「そんな馬鹿なと二人で墓場に行ってみると、どこからか赤ん坊の泣き声がする。探してみると、声は最近葬ったばかりの女の墓の下から聞こえてくるじゃないか。掘り返してみると、棺桶の中には」
「飴を握った赤ん坊がいました、てか」
「いやいや、ちゃんと紙おむつだの玩具だのあったさ。最近の赤ん坊は贅沢だからな。死んだ後に棺桶の中で生まれた悲運な赤ん坊を養うために、近所の墓のよしみで男は化けてでてきたわけさ」
「アホ」
「幽霊なんだから賽銭箱から跡一つ残さず小銭を盗めても不思議じゃあない。百円はそのまま買い物に使えるが、五十円は面倒だから札に両替していた、というわけだ」
「座布団投げるぞ」
 それから二つ三つ馬鹿話をしているうちに刻限が近づいたので、霧崎重一と待ち合わせたバーに向かった。