十年近く前になる。地名は伏せておこう。法に触れる行為には違いないし、それにあのバーの場所は秘密にしておきたい。
初めに断っておくが、この物語に登場する男――五十円玉二十枚男は、推理小説作家若竹七海氏が往時遭遇したという、あの有名な者とは別人だろう。しかし歴史は繰り返す。悪知恵を働かす人間は絶えない。私が出会った男とまったく同じ目的から五十円玉が集まったと否定できないならば、耳を傾けてみるのも一興、そう思っていただきたい。
当時、私が一階フロアー主任を勤めていた書店に、ときおり五十円玉を二十枚握りしめ、両替を頼む男性客が来店した。それは決まって土曜の夕方で、千円札を受けとると書棚を眺めることもなく気忙に外へ飛び出していく。男は勤め人風にもみえず正体不明で、店員達の間でも自然と口の端に上るようになっていた。
表向きはお客様のことを詮索せぬよう口を酸っぱくしていた私も、人に会い話題のタネにつきれば自然と頭をよぎるのはこの謎だった。両替に来る男の顔を直接見たわけではなかったが詳細は聞き知っていたし、謎に対するいくつかの仮説も、そしてその反証も次第に体得するようになった。それらについて語り、相手の考えにつきあうだけで適度な時間つぶしになる。話題として重宝しつつ使い回している間に、五十円玉二十枚男の伝説が思いがけず広範囲に伝播していることを、当時の私は気付かなかった。
とある法律事務所に勤める友人、坂上からの連絡があったのは、梅雨が明けたばかりの頃だった。近くまで寄る用事があるが一緒に飲まないかという誘いに、いつもと違ってひとつだけ条件があった。例の謎について興味を持つ知り合いを連れてくるから、詳しい話を聞かせてやってほしいという。私は承知した。そのときはまさか、五十円玉二十枚男の目的や正体が明らかになるとは、ましてその男と直接顔を会わせることになるとは思ってもみなかった。