リビングには照明が灯され、二台あるファンヒーターのどちらからも温風が吹き出している。大型テレビをコの字に囲むソファに四人はまばらに距離をおいて座り、真ん中の小さなテーブルには昨夜のグラスや菓子類の余りが雑然としている。
 腕時計を確かめ、頭の中にある論旨の最終確認を行いながら、私はテレビの前に移動する。半円形に並ぶ四つの顔をひとつひとつ観察する。緑川、星塚、香我美夫妻。疲労と睡眠不足、心労と疑惑、それぞれの理由に黙り込んで座っている。緑川は姿勢を崩し、うつらうつらしかけている。
「皆さん」
 両腕をぶらりと下げたまま私は背筋を伸ばし、口を開く。
「道の具合がよければ、後三十分程で警察が到着すると思います。その前に、皆さんにひとつ、お話ししておきたいことがあります」
 星塚がゆっくり顔をあげ、乱れた前髪の奥から瞳を覗かせる。首でゆっくり船を漕いでいた緑川が、驚いたように丸く目を見開く。
「謎解きですか?」
 香我美清悟が、皮肉そうな笑みを浮かべている。私は見返し、両手の平を上に向け「さあね」と軽くジェスチャーをする。
「誤解のないように。私は確かに生業の傍ら、刑事事件を主題とした小説をいくつか執筆しています。しかし当然、現実の事件解決に役立つものではありません。これから星塚友江さんに関する事件について私個人のある考えを述べますが、それは推理ではありません。ただ、現在の状況のままでは、私が友江さんに手をかけたと断定されてしまいます」
 少し言葉を切り、四人の顔を伺ってから続ける。
「私がこれから述べるのは、一つの可能性です。星塚友江さんを殺害しうる人物が、私以外にもいることに思い当たりました。そのことをお話ししておきたい……よろしいでしょうか」
 短い沈黙があった。なにか言い足したい気持ちを、ぐっとこらえる。ここでなんらかの抗議があることも、時間配分に入っている。星塚夏樹がなにか言い出すだろうとそのほうに視線を向ける。しかし誰も声をあげない。
「続けましょう」
 腕時計を確認する。少し、説明を遠回しにしなければ。
「友江さんの遺体を発見した経緯については、先程もご説明したので繰り返しません。二つの鍵がかかった部屋があり、鍵は互いの部屋にあった。一方で友江さんが亡くなっており、もう一方には私がいました。ここで、友江さんに手をかけた記憶がないことや、私の首筋に犯人がスタンガンを押しつけたと考えられる火傷の跡があることなどは、あえて私が犯人でない主張の根拠とはしません。それは警察が到着次第、綿密な捜査によって物的証拠が得られることを期待します。しかし、ここでは私以外にも犯行が可能であったことを論じる必要上、私は犯人ではなく、いわゆる不可能犯罪であったと仮定します。さて……」
 不可能犯罪などという一般人に耳慣れない言葉の、どこが「いわゆる」なのかと自問しつつ、後ろ手を組みソファの周囲を軽くうつむきながらゆっくり歩き出す。四人の視線が私を追うのを感じながら、言葉を続ける。
「推理小説では、不可能犯罪に対する手続き的なアプローチがあります。手がかりを拾い集め、仮説を構築し、それを整合性、蓋然性、必然性の側面から検証する、という手法です。そうして有効と認められた仮説から、それが真実であった場合に副次的に残される物的証拠を考え、現実の事件現場と照応することをを確認します」
 ソファの背後に、香我美が被っていた毛布が丸まったまま打ち捨てられている。立ち止まり、顔を上げて皆の表情を伺い、それからまた歩き出す。
「しかし、ここでは時間がありませんので、このような手法はとりません。不可能犯罪は、一見物理的に犯行が不可能なようで、実際には私達がどこか状況を錯覚していたために起こります。これは言い換えれば、その錯覚の焦点がどこにあるかを検討することで、不可能状況は解消されるということです。従って、仮説は不可能犯罪を構成する事象……今回は、ルームキーや人の移動が当てはまりますが、それらひとつひとつについて錯覚の可能性を考え、仮説を構築し、検証することになります。このような時間的ロスの大きいアプローチ方法は、今回とれません」
 まるで前回があったみたいなことを言っているな、と自分でもあきれる。
「そこで、今回は逆のアプローチをとります」
 逆? と小さく香我美がつぶやく。私はうなずき返す。
「推理小説では、これも決まった手続きですが……どのように不可能犯罪がなされたか、その整合性はあっても蓋然性や必然性の観点で有り得ない、という仮説が百出し、けっきょく」
「ハウではなく、ホワイですね!」
 楽しそうに緑川が続ける。気まずい思いに責められつつ、私はうなずき返す。ここは推理小説作家が落とされる地獄か?
「そうです。必然性や蓋然性から仮説構築を出発しよう、というアプローチです」
 腕時計を確認する。予定通り。
「長くなりました。具体的な検証に入ります。二つの密室、互いの部屋にある鍵、切断された手首、これらの状況を仮に……」
 言葉に詰まり、天井を見上げる。名付けの行為は難しい。緑川が手を挙げる。
「交錯密室、なんてどうですか?」
「は? あ、そうですね。単純に二つ密室があるわけでも、二重密室でもないですし。そう呼ぶことにしましょう。さて、この交錯密室を構築した犯人の意図は、明確です。私が犯人である、という状況を作ることですね」
 香我美の表情を伺う。変化はない。
「しかし落ち着いて考えてみてください。交錯密室では、確かに私のみ犯行が可能でした。ところがいくつか、私が犯人としたらむしろ有り得ない事象があります」
 人差し指をたて、四人の顔を見渡す。
「ひとつ、友江さんの手首を切断し、私の部屋に運んだことです。理性的な犯人でしたら、手首を切断して持っていたところで、なんのメリットもありません」
 中指を立て、続ける。
「ふたつ、私の部屋の鍵を、二号室に運んだことです。これは更に不自然ですね。私が犯人としたら、かなりの異常行為です。友江さんの部屋の鍵を私の部屋に置くことは、私以外友江さんの部屋に入れなかったという有力な偽装になりますが、その逆をしても仕方ありません」
 Vサインから中指を折り曲げ、人差し指だけにする。
「最初の事象についてはひとまず置きます。さて、問題は二番目の事象です。なぜ、私の部屋の鍵を奪う必要があったか? 簡潔な解答はこうでしょう。すなわち、犯人は私の部屋のドアを施錠することが可能な鍵を持っていなかった。だから、私の部屋を密室にするには、ルームキーを奪わざるを得なかったのです」
 だからどうした、とでも言うように星塚がソファの上で姿勢を崩す。無視して、私は続ける。
「よろしいでしょうか。さて、この仮定から、二つのことが明らかになります。まず、犯人は私の部屋の合い鍵を持っていなかった。それから、マスターキーあるいはその合い鍵も、持っていなかったのです……ただし」
 言葉をとぎらせた瞬間、私の耳に、かすかな響きが忍び込む。溜息とも寝息ともつかない、かすかな、柔らかな風の音色。急に黙り込んだ私に、四人が怪訝な表情を浮かべる。かなり、いいタイミングだ。まだるっこしく話を長引かせた甲斐があった。
「ただし……友江さんの部屋の鍵についてはわかりません。合い鍵を作っていた可能性も否定されません。ただひとつ確実に言えること、それは犯人が三号室を施錠するには私から鍵を奪うしかなかったということのみです。さて、蓋然性、必然性に関する考察は以上です」
 ソファの周囲を一周し、テレビの前に戻る。香我美清悟の表情が、一変するのを確認する。音の正体に気付いたのだろう。やっと、私は安堵した。どうやら、老人性健忘の恐れはなさそうだ。
「星塚さん」
 突然呼びかけられて驚いたのか、どもりながら星塚が返事をする。
「あなたの部屋の、エアコンのタイマースイッチが入ったようです。部屋が暖まると死亡時刻の推定に影響がでますから、とめてきてくれませんか?」
「エアコン? ああ、そういえば音がするな……でかい音だな。三号室のほうじゃないですか?」
「いいや、違う」強く、断言する。
「二号室だ……私がセットしたんだから
 短い沈黙があった。頭の中で言葉を咀嚼しているのか、星塚は宙をみつめる。
「私がとめてきます!」
 立ち上がる緑川、脱兎のごとく走り、リビングの出入り口でストップし、振り返る。
「戻るまで、絶対に話を続けないでください!」
 子供のような足音が遠ざかっていく。どういうことですかと星塚が問う。勝手に続けると、死体と犯人がもう一組増えますよ、と私は小声で答える。やがて戻った緑川が、ソファに飛び込む。
 リモコンでビデオの一時停止を解除するように、どうぞと緑川が手を差し出す。
「話を戻します……犯人は、私の部屋の鍵は持っていませんでした。マスターキーや、合い鍵もありませんでした。しかし、交錯密室を完成するには、午前零時以降、施錠された私の部屋に犯人は鍵なしで忍び込まなければなりません。つまり、錯覚の焦点は必ずこの辺りにあるはずです」
 ゆっくり、視線を香我美清吾の顔に合わせていく。
「さて、それではどのような錯覚がそこにあったのか? 後は星塚さんの部屋にあったボストンバックのことを思い出せば、トリックは明らかです。そしてそのトリックが可能だったのは一人だけです」
 香我美さん、と私は呼びかける。両膝に肘をつき、手首に埋めた顔に、香我美清悟は石のような表情を浮かべている。
「これは告発ではありません……ひとつの可能性です。ですが、あえて問います。あなたが昨夜、倒れた私を最初に運んだのは確かに三号室でしょう。緑川さんやナズナさんという証人がいらっしゃいますからね。しかし、意識を取り戻した私がいた部屋は三号室ではなく、隣の二号室だったのではありませんか?」
 香我美は答えない。星塚が小さく、溜息のような声を漏らす。
「単純な方法ですね、私が意識を失っている間に、あなたは二号室を訪れ……そして置き時計で友江さんを殺害した。星塚さんの部屋の荷物をボストンバッグにまとめ、あたかも二号室の星塚さんの部屋を、三号室の私の部屋のようにみせかけたのです。元は宿泊施設だけに部屋の造りはどこも同じですし、窓の外は雪囲いでどちらの部屋からも見えません。私は三号室ではなく、二号室を内側から施錠して安心していたわけです……犯人は殺害した友江さんから、二号室の鍵を奪っていたというのに」
 言葉を切り、反論の言葉を待つ。しかし、香我美はもう、私の目さえ見返そうとはしない。
「スタンガンを使って意識を失わせたのは、言うまでもなく私を二号室から三号室に戻すためです。手首の入った背広を置くだけなら、眠っているのですから構いません。しかし二号室から三号室に運ぶためには、確実に意識がしばらく戻らないようにする必要があったわけです。さて、ここで犯人がとった、もう一つの不自然な事象を思い出してください……なぜ、友江さんの手首を私の部屋に運ぶ必要があったのか?」
 香我美のほうを向くのをやめ、私はほとんど、宙に向かって語る。そろそろ、幕を下ろす時間のようだ。
「理由のひとつは私を二号室に向かわせるためでしょう。私の部屋の鍵は、三号室の中に置くことができない以上、第三者の手に触れないように二号室に置かざるを得ませんでした。だから、犯人は死体発見だけでなく、私に私の部屋の鍵を発見させたかった。複雑ですが、私が鍵をみつけたときの気持ちを想像してみてください。このとき、私は自分が犯人の偽装工作に踊らされていることに気付いています。そこで、自分の部屋の鍵をみつければ、それを隠そうとしたかもしれません。この意味において、犯人にのみ、私の部屋の鍵を星塚さんの部屋に置く意義があるのです。星塚さんの口に鍵をくわえさせたのは、ただ一人私にそれを手にとるよう誘いかける、犯人の罠だったのです」
 まるでダイアグラムに沿って列車運行するように、犯人は人を操ろうとした。
「ですが、この理由は充分ではありません。私を星塚さんの部屋に向かわせるには、凶器と鍵だけで充分だからです。では、なぜなのか……逆に、手首がなかったらどうなっていたか?」
 香我美に、視線を戻す。手の平で顔を覆い、指の間から目を見開いている。
「先程、皆さんをリビングにお待たせしている間、確かめました。二号室と三号室をつなぐドアに、鍵はかかっていませんでした。いつ、鍵は外されたのか? 私が最初にこの山荘に到着したとき、部屋を案内していただいた緑川さんが施錠されていました。あのドアを開けることができたのは、両方の部屋の鍵を手にすることができた犯人のみです。そして、交錯密室が完成された後ではマスターキーを持つ緑川さん以外に施錠できる人も鍵を開けることができる人もいない」
 言葉を切り、唾を飲み込み、そして続ける。
「しかしマスターキーを持つ緑川さんにはそもそも密室殺人を行うメリットがありません。では、私が腕時計のアラームに起こされたとき、あのドアが開かなかったのはなぜなのか。開かないドアを鍵で開けることができれば、それは施錠されていたドアです。しかし単に開かないだけなら、それは施錠されているとは限りません」
「もう、いいだろう」香我美が、小さくつぶやく。
「本当はな、楽しみにしていたんだ。二号室であのドアを背中で押さえつけていたとき、あんたの顔を想像していた。あんたが三号室から二号室に移動する間に、私は二号室から三号室に移動する。そして廊下にでて、友江さんをみつけたあんたに会うつもりだった。三号室の鍵を隠すよう勧めるつもりだった……緑川さん、なんだってあんな時間に起きてきた? おかげで私はリビングに行って、寝たふりをするしかなかった」
 ソファの後ろから突き出ていた二本の足首を思い出す。あれは緑川のように夜中に起きてリビングを訪れた者が、香我美の姿を見かけなかったことを証言されたときのための予防線だったのだろう。ソファの後ろで眠っていたから、気付かれなかったのでしょうと言い逃れるための。
「あなたは単に、私を急いで二号室に向かわせるだけのために手首を切断した」
「当然だろう?」香我美が即答する。
「それほどのインパクトがなければ、一人で二号室を訪れようとは思わなかったかもしれん。そうなれば霧崎さん、あんたは医者である私をまず最初に探したかもしれん。星塚、お前も意外な行動をとってくれたな」
 腕を膝の間にだらりと落とし、香我美は怒りともあきらめともつかない表情で星塚を睨み付けている。
「四時間遅かったな。私が友江さんに手をかけたとき、午前零時だったよ。お前はもう朝まで帰らないと思っていた」
「ああ、そうだろうな」表情のない星塚の顔。
「その予定だった。緑川さんが殺人のあったことを伝えてくれるまでは、そのつもりだった」
 沈黙があった。私の頭の中で、焼けた木片が火の粉をまき散らす。夏樹さん、と呼びかける香我美ナズナの声。
「電話をお借りしたんです」緑川の声が、震えている。
「星塚さんのお部屋の電話は警察の方達が調べられると思いましたし、霧崎さんのお部屋のをお借りしようかとも思ったんですが、事件のあったことをナズナさんにお知らせするついでもあると思って……一号室に」
「私が、厨房に行っている間ですね」
 急に疲れがこみあげてくるのを感じながら、自動的に言葉が口を突く。どうしてもお話ししておかなければいけないことがありますと言ったときの、緑川の顔を思い出す。
「星塚さん、あなたは一号室からリビングを通って外にでた。わざと雪を被って、外から帰ってきたようにみせかけた。眠っているふりのため眼を閉じていた香我美さんは、ソファの後ろにいたせいもあって星塚さんがリビングを横切るのを気付かなかった。ナズナさん、あなたは香我美さんがお酒を飲み過ぎるとその場で眠ってしまうことを知っていた」
 香我美ナズナは無表情のまま、ただ遠くを見ている。星塚夏樹は手の平に顔を埋めている。香我美清悟が口を開く。
「私達はいったい、なにをしていたんだろうね」
 黒い絵に塗り込められたように、誰もが言葉をなくしていた。不動と沈黙のまま互いの感情を思い合う、クリスマスには当然のその行為が、あまりに痛々しく手遅れでしかなかった。