香我美清悟はなにも言わず、客室のほうへと引き上げた。続けて香我美ナズナ、星塚夏樹が立ち上がり後に続く。三人がどの部屋にどのように別れたのかは知らない。
 緑川に誘われ、リビングの奥にあるテラスに移動した。壁一面がほとんどガラスで、屋外に通じるドアがあるせいか、少し寒い。円テーブルを囲んで、籐椅子に斜めに向かい合って腰掛け、一息つく。緑川が二人分作ったコーンポタージュを、テーブルの上から持ち上げる。カップから立ち昇る香りと湯気をしばらく楽しむ。
「エアコンのことなんですけど」
 笑顔で緑川が切り出す。来たな、と私は臨戦態勢をとる。
「午前五時に設定するなんて、早起きですね」
「目覚めたときに、部屋が暖まってるのがベストですから」
「風量がいちばん強い設定になってましたけど」
 苦笑いをしながら、私は胸の内で降参のポーズをとる。
「そうしないと、リビングまで聞こえないかもしれないでしょう?」
「そうですね……」
 ガラスに映る姿越しに外の風景を伺うが、なにも見えない。ただ音もなく、降る雪がある。
「あの方達、香我美夫妻と夏樹さんは大学からのお知り合いなんだそうです」
 緑川も、外を眺めている。闇ではなく、遙か遠い光景を眺めるように。
「それから清悟さんとナズナさんが結婚されて、夏樹さんがお仕事で海外に行ったとき、友江さんとお知り合いになられたそうです。ですから清悟さんと友江さんはそれほど長いお付き合いがあったとは思えないんですけど……どうして、あんなことに」
 それは恐らく、他人を傷付けることを香我美清悟はなんとも思わないからだろう。心理的に遠い距離にあるからこそ、私を犯人に仕立てることをためらわなかった。なぜ香我美友江を殺害したのか、その動機はわからない。しかしそれは愛憎のためとは思えない。鍵はしっかりかけておいてください、と昨夜香我美は私に告げた。あの一言を告げたいがために、香我美は脅迫状を用意したのだろう。三号室の鍵を香我美友江の口にくわえさせたこと。手首を切断したこと。あの男には心理的に距離の遠い人間は人間ではなかった。
 香我美ナズナと星塚夏樹の関係を、恐らく香我美清悟は以前から知っていたのだろう。あの殺人にどのような意図があったのか、そこから先はすべて猥雑な空想に過ぎない。従って、私にそれを口にする権利はない。
「さあ、複雑な事情があったんでしょうね」
 音をたてて一口、ポタージュを啜る。
「正直なところ、香我美さんが犯人と推理したこと自体、私には冒険のようなものでしたよ。あまり考える時間がありませんでしたからね。例えば夏樹さんが本当は外出していて、麓まで降りて合い鍵を作っていた可能性もありますし、密室など緑川さん、失礼ですがあなたと誰かが共犯になれば簡単に作れます。本当の真相は、これから警察が調べて初めて判明するんです」
「そうですね……先生がそうおっしゃるなら」
「あの、先生はやめません?」
「あ、はい」
 瞼を閉じ、緑川は曖昧に微笑む。
「そういえば、そもそも緑川さんとあの方達は、どのようなお知り合いなんですか?」
 すると緑川は困ったように首を振り、前髪を揺らした。
「お友達のお友達というか……私の知り合いで、クリスマスとお正月をこんな山奥で一緒に祝ってくれるのを喜んでくれる人、他にいらっしゃらなくて。お子さんがいる方とか、実家にお帰りになる方、お仕事の忙しい方、みんなそれぞれで」
 手の平でカップを包み込むようにして暖かみを抱き締めるようにしながら、緑川は窓の外を眺めている。
「駄目ですね、やっぱり、一人で過ごすべきでした。こんなことになるなら」
「誰も緑川さんを責めたりなどしませんよ」
「ええ、そうですね」
「……来年も、パーティーをしましょう」
 緑川は黙り込み、伏し目がちになる。胸の内で、私は私を叱りつける。残酷なことを軽々しく口にするな。
「そういえば」
 こういうときに限って、急に関係のないことを思い出す。
「私の勘違いかもしれませんが……二号室で警察への連絡をお願いしたとき、緑川さん、微笑んでいるように見えたんですが、気のせいですか?」
 ああ、あれ、と緑川は顔の前で軽く手を振る。
「全然、事件とは関係ないんです。本当につまらないジョークで」
「ジョーク、ですか?」
「ええ、私、交錯密室と名付けたでしょう。鍵が互いの密室にあって、こう、クロスするみたいで」
 カップを円テーブルに置き、胸の前に、左右の人差し指でバツをつくる。
「今日、クリスマスですし……クロスド・クローズド・ルームね、なんて」
 恥ずかしそうに顔の前まで持ち上げた小さなバツで顔を隠すようにしたが、急に顔を窓の外に向けた。揺れるような雪景色から、パトカーのサイレンが響いてくるのが聞こえた。