説明し忘れていたが、私の名は霧崎重一。法律関係の仕事の片手間に、こつこつパズラーな本格推理小説を書き続け、気付けば二十年以上経つ。デビュー以来ずっと閑古鳥が鳴きわめいていたが、最近また本格推理小説がブームらしい。この山荘に集まった五人のうち、二人までもが私の名前を知っていた。一人が緑川で、もう一人が医師の香我美清悟という男。
 三号室と四号室の前を通り過ぎ、常夜灯だけの薄暗いリビングに入ると、ソファの後ろに二本の足首が転がっているのが覗けた。二人目か、などと思いつつ近寄ると、倒れていたのは香我美清悟だった。水色の毛布を被り、穏やかに寝息を立てている。まばらな白髪に黒縁眼鏡の寝顔をみつめながら、私は信仰していない神を呪った。夫婦なら仲良くひとつのベッドで手をつないで眠り、互いのアリバイを保証し合ってくれてもよさそうなものだ。
 ひとまず寝かせたままにしておき、厨房に向かった。手首の切断に使われた包丁がここから持ち出されたことを確認するためだが、殺菌灯で青紫に染まる厨房が食堂と同じくらい広いのを見て、きびすを返した。このさいどこから持ってきた包丁だろうが構わない、警察が調べてくれるだろう。
 リビングまで戻ってくると、香我美は同じ姿勢のまま横たわっている。毛布は上半身をおざなりに覆っているだけで、サスペンダーと蝶ネクタイが覗いている。昨夜と同じ服装ということは、パーティーに最後まで残りそのまま寝付いてしまったということか。それにしても、せめてソファで眠ればいいものを。身体つきは山男のようにがっしりしているが頬にたるみがあり、白衣を着せれば確かに医者以外の何者にも見えないだろう。
 十一時半過ぎだったろうか、気を失ったときのことが不意に頭に蘇る。他になかったので、普段は飲まない炭酸飲料を手にしていた。リビングで星塚友江の絵本の話題に耳を傾けていたのを覚えている。星塚夏樹は知り合いだとかに会いにでかけ既にその場にいなかった。ほとんど真っ黒になってしまうから、いっそ黒い紙に描こうと思うのだけどなぜか新しい絵を描き始めるときは白い紙を選んでしまう、そんな話をしていたように思う。それからまた苦労して黒く塗りつぶしていくのだと。少し前から気分の悪さを感じていたが、眠気と食事量とアルコールのせいにしか考えていなかった。トイレにでも行こうと席を立ち上がり、一歩踏み出してバランスが崩れ、絨毯に頬を擦り寄せる前に意識を失っていた。
 今になって思えば、これも犯人による計画の一部だったのかもしれない。睡眠導入剤でも飲み物に混ぜたのだろうか。食堂からリビングに座を移してからは頻繁に席を代わった。薬物を投入する機会はいくらでもあっただろう。
 目が覚めて初めて見たのは、椅子の背に私のズボンをかけている香我美清悟の姿だった。ワイシャツを脱がされ、ベッドの上に横たわる私はしばらく頭がぼんやりしていた。意識を失ってから三十分程しか経っていなかったが、香我美はその間、私の様子を見守ってくれていたらしい。三号室に運び込むときは女性陣も一緒に来たようだが、緑川と香我美ナズナはリビングに、星塚友江は自室に戻ったという。
「まあ、大事がなくてよかった」
 雪囲いでなにも見えないはずの窓の外を、明日の天気でも心配するのか香我美は眺めながら独り言のようにつぶやいた。
「あんな妙なものがありましたから、霧崎さんの小説のようで、毒殺でもされたのかと思いましたよ」
 期待に添えず申し訳ないという言葉を飲み込み、私は訊き返す。
「妙なもの?」
「ああ……霧崎さんは最後に到着されたんでしたね。脅迫状というか予告状というか」
 私以外の招待客である香我美夫妻と星塚夫妻は、昼過ぎには山荘に到着していたという。夕方、星塚夏樹がテラスのフランス窓に貼り付けられた紙をみつけた。緑川はパーティーの準備のためその場になく、リビングに集まっていた四人でどう処理するか話し合った。宗教的な文句が散りばめられ、災いの到来が予言された手書きの文章だったという。ただ具体的な内容はなく、紙もごく普通のコピー用紙でセロハンテープで窓の外側から貼られていた。筆跡をごまかすためか定規をあてたような文字で、セロハンテープにも指紋は付着していなかった。どうせイタズラなのだろうから、パーティーの中止などということにならぬよう緑川には伏せておくことになった。
 リビングに戻る香我美を送るため、私は立ち上がった。
「私も皆さんに顔だけ見せに行きましょうかね」
 倒れたまま顔を会わせていないのが病人のようで気恥ずかしく、香我美に提案した。
「いけません」
 廊下に通じるドアに向かいながら、香我美は笑顔で断言する。
「朝まで寝ていなさい。一杯やりに夜中に冷蔵庫を覗きに行くなんて、間違っても考えないように。明日、ご様子を伺いにまた来ますから」
 ドアを閉ざそうとして、思い付いたように香我美はまた開き、顔だけを部屋の中に潜らせる。
「ああ、それと鍵はしっかりかけておいてください。万が一ということもありますし」
 今度こそ閉ざされたドアに私は舌を突き出し、それから曖昧に微笑みながら鍵のつまみをひねり施錠する。念のため、隣室につながる二つのドアもノブを回し、開かないことを確認する。
 これでよし。ハンガーにかけられていた背広を下ろし、ポケットの中のものをサイドテーブルに移す。ルームキーは部屋をでたときと同じく内ポケットに入っていた。エアコンのタイマーを設定し、外した腕時計で時刻を確認してから明かりを消した。
 そのとき午前零時をだいぶ過ぎていたように思う。腕時計のアラームが鳴り響いたのが午前四時、スタンガンで襲われたのは午前零時過ぎから午前四時までの間ということになる。最初にリビングで倒れたのが薬物によるものだとすると、スタンガンで再び私の意識を奪おうとした犯人の意図はなんだったのか。
「香我美さん、起きて下さい」
 ひざまずき、絨毯に横たわる香我美の両肩を軽く揺らす。アザラシのように身体を震わせ、細く開いた瞼から黒目が覗く。
「星塚さんが、星塚友江さんが……亡くなられました。緑川さんが警察に電話しています」
 背後で短く息を飲む音がした。振り返ると、玄関に通じる側のリビングの入り口に男が立っている。革のジャンパーの肩を溶けかけた雪が水滴となって流れ落ち、両腕をぶらりとさせたまま怪訝に瞼を細めている。
「星塚さん……」継ぐ言葉を失い、私は黙り込む。
「いま、なんて言った?」
 怒りと不審を喉の奥に封じ込めるように、星塚は軽く首を傾ける。
 背後でうなり声がした。見ると、香我美清悟が上半身を起こし、眼鏡の位置を直しているのか手の平で顔を覆うようにした。
「ああ、お帰りになられたんですか」
 まだ寝ぼけているようなくぐもった声の香我美がつぶやくのを私は無視し、立ち上がる。
「友江さんが殺害されました」
 掛け時計が差す時刻を確かめる。さあ、忙しくなってきた。
「二号室です、案内しましょう。香我美さんはナズナさんがご無事か確かめてきてください。一号室でしたね?」
 客室側のドアに向かって私はリビングを横切る。一度振り返ると、星塚はこちらに歩み寄りつつあり、香我美は慌てて起き上がろうとしていた。