トンネルのナトリウムランプのような明かりを灯すランプの形の照明が、間隔をおいて並んでいる。暗赤色のタイルが貼られた薄暗い廊下を、足音忍ばせ進む。靴を履いていると欧風ホテルのようで、個人の別荘とはとても思えない。
 ナンバー2の部屋番号のプレートが嵌め込まれているのを確認する。予定調和のように、赤褐色のドアは閉ざされていた。ノブをつかんで前後に揺すっても、わずかに金属の触れ合う音がするのみ。
(やれやれ)
 観念する、ことにする。あの切断された手首が握っていた、二号室のルームキーを鍵穴に差し込む。哀れなり、汝の名は第一発見者。
 三号室をでるときも、いっそ大声で誰かを呼ぼうかと思った。いまも、できれば誰かを起こしたい。起こしたところで別にどうなるというわけでもないが、犯人に思うがままに操られている気味悪さを払拭できるなら意義があるようにも思えた。職業病かもしれない。
 軽い金属音とともに鍵が回転する。ノブをつかみ、ひねり、ゆっくりと開く。蝶番のきしみとともに、室内の光が鋭く廊下の暗がりを刻み、押し開いていく。そっと室内をうかがう。開いていくドアとともに、若草色の壁紙が、壁際の照明スイッチが、コートをかけたハンガーが、そしてベッドが視界に滑り込む。手前にあるバスルームに邪魔され、裸の足首しか見えない。
「霧崎さん」
 これ程、自分の名が呼ばれるのを期待していなかった瞬間はない。ゆっくり振り返りながら、笑顔にならなければと思ったが、頬のひきつるのを感じてやめた。
 軽くウェーブのかかった髪を揺らして、ゆったりした青白縦縞のパジャマを着た緑川が立っていた。足元にはウサギのスリッパを履き、パジャマの上からカーディガンを羽織っている。好奇心剥き出しの大きな瞳に、作りたて生クリームたっぷりという感じの笑顔。右手に陶器のマグカップを持ち、コーンポタージュの湯気と香りが漂ってくる。
「お邪魔でした?」
 少し考えたが、よいジョークが思いつかない。
「そのスリッパ、わざわざ持ってきたんですか?」
 指差すと、緑川は自分の足元を見下ろし、それから笑顔のままで顔をあげる。
「可愛いでしょ?」一口コーンポタージュを啜る。
「じゃ、先生、おやすみなさい。お邪魔してごめんなさいね」
 おどけたように軽く頭を下げ、立ち去ろうとする。私は慌てて声をあげた。
「ああ、ちょっと待った、緑川さん」
 身体の向きを変えかけたまま、止まる。マグカップから立ち上る湯気が揺らぐ。
「精神科医、でしたよね。血とかは大丈夫ですか?」
 親指で背後の部屋を指差しながら、問いかける。
「友江さんが、怪我を?」
 表情が柔らかいまま変化しない。この落ち着きが大事なのか。私は軽く溜息を吐き、少し言葉を選んでから答える。
「いや……亡くなられている、と思いますが」
 後ろ手にドアを押し開きながら、さあどうぞ、とばかりに部屋の中を指し示す。怪訝な顔をしながら緑川は二号室に足を踏み入れようとして、ためらうように立ち止まり私の顔を見上げた。
「先生」顔を斜めにして、さっきとは少し違った笑顔を見せる。
「私が本格推理小説ファンだから……なにか悪ふざけしてる、わけじゃ?」
 大きく息を吸い、私は背筋を伸ばした。
「推理小説家というものは、さほど夢のある生き方をしてません」
 少なくとも読者ほどには、というセリフをなんとか飲み込む。
 神妙に眉を曇らせ、緑川は私の表情をうかがうようにする。それからベッドのほうを向き、部屋の中へ歩みだした。見えない風に逆らうように、少し背中を丸めている。
「気をつけて」続ける言葉に迷う。
「手首が切りとられてますから」
 ベッドから一、二歩手前で、緑川は立ち止まる。腕を胸の前で組み、右手の先でカップを軽く揺する。コンパスのように片足を斜め前に伸ばし、まっすぐ背を伸ばしている。蛙のように無表情にベッドの上のものを観察しているようだったが、一口カップを啜り、それからまた戻ってきた。
「殺されてますね」
 私は黙ってうなずく。それはもう、よく知っている。いっそ知らなかったことにしたいくらい。
「あと、鍵をくわえてます」
「鍵?」
 今度は緑川がうなずき返すのを見て、私はベッドに歩み寄る。菫色のパジャマを着ている。金属的な、かすかな臭気。ベッドの下には血塗れの柳刃包丁。サイドテーブルの上には、並行にいくつも刃の傷跡が白く走り、それをおびただしい量の血が埋めている。置き時計で殴り殺した後でベッドに寝かせ、右腕だけをサイドテーブルの端に載せ、恐らく厨房から盗んできた包丁を右手首に押しあてる……よくコーンポタージュなど啜れるものだ。カップの中にあったのがミネストローネだったら、私でも吐いていたかもしれない。
 切断された右手首の周辺は、かなり広範囲にわたってシーツが血を吸っている。後頭部を殴られたらしく、その辺りも血が染みていた。緑川の言うとおり、口にはルームキーをくわえている。鍵の先端を前歯で噛んでいる状態だろう、部屋番号を示すプレートが顎の辺りに垂れ下がっている。
(ナンバー3……)
 プレートの部屋番号を読む。私の部屋の鍵。目眩のような感覚が押し寄せ、思わず目を閉じ手を額にあてる。
「大丈夫ですか」離れて立つ緑川の声。
「ええ……いや、少し考え事を」
「警察に連絡しましょうか?」
「お願いし……少し待ってください」
 待ったをかけるように、私は手の平を緑川に向けて突き出す。部屋を見渡し、窓が施錠されていることを確認する。身を屈め、ベッドの下を覗く。誰もいない。
 立ち上がり、今度は緑川のほうへ歩み寄りながら、声をかける。
「ちょっと、バスルームを覗いてもらえますか」
 緑川が背を向け、バスルームに向かう。壁の照明スイッチを入れてバスルームのドアを開ける。使った形跡のない乾いた浴槽が、緑川の背越しに見える。
「誰もいません……あの、霧崎さん?」
 緑川の呼びかけを無視して、私はクローゼットに向かう。真珠色の両開きの扉を開ける。空っぽで、一着も服がかかっていない。再度、ゆっくり部屋を見渡す。部屋の造りは三号室とまったく変わらない。人が隠れるスペースは、もうない。
「二つの密室」思わず、言葉が口を突いていた。
「一方には死体が、もう一方には頭を殴られ気絶した男……そして鍵は互いの密室の中に」
 ぽかんと口を開けて、緑川が私を見返す。
「小説が書けますね。私自身が犯人でさえなければ」
 無意識にワイシャツのポケットを探っているのに気付いて、胸元まで来た自分の手首を、なんとはなしにみつめる。煙草はやめたのだが。
 顔を上げると、緑川の様子がおかしかった。マグカップを口元まで近付け、唇を閉じたまま頬を歪ませ、微笑んでいる。不気味ささえ感じさせる。
「緑川さん?」
「警察に電話してきます」
 大きくカップをあおってコーンポタージュを飲み干すと、緑川は背を向け部屋をでていった。