まどろみながら長い言い訳をしていた。フラスコを左右にゆっくり振りながら白衣の男が忍び寄る。黄色味をおびた半透明の液体が、撹拌されながら泡をたてる。違う違う、俺の胃液じゃないと後ずさりながら相手の顔を見る。髪の毛がない肌色の塊で、目も鼻も口もなく、大きな黒いアルファベットのエックスが顔を覆っている。
 降り注ぐ電子音。警告的でエンドレスな響き。私は頭を抱える。駄目だ、もうお終いだ。
 目が覚めてからもしばらく、アラームにぼんやり耳を傾けていた。それがサイドテーブルの腕時計から鳴っているのに気付いても、しばらく遠い昔の記憶を探るようにしていた。恐らく、悪夢を忘れるための処理をしていたのだろう。
 羊水に浮かぶ胎児の姿勢で、ベッドに横になっている。網の目にゆったり波打つシーツに、私の影が曖昧な輪郭で浮かぶ。ベッドサイドのライト、消し忘れたなと気付いた。ペルシャ柄の絨毯は、ベッドから離れるにつれ闇に溶け込み、隣室に続く芥子色のドアに、ライトの光はぼんやりとしか届かない。
 筋肉に染み込む程の寒気を感じる。脚が剥き出しだ。布団をかき寄せようと上半身を覆っているものをつかんで、質感と重さが違うのに気付く。これは布団ではない、背広だ。なにかポケットに入っているのか、脇腹にあたる感触がある。濡れているように感じるのは、寝汗だろうか。
 襟をつかんで引き上げる。横になった姿勢のまま、自分の頭の前にダークブラウンの背広のポケットをかざす。見た感じは、なんともない。反対側のポケットか。襟をつかんだ手首を捻らせ、くるりと背広を回転させる。顎先を布地がくすぐる。
 大きな膨らみがあった。野球のボールのような、丸みと大きさの膨らみ。ポケットの底になる辺りが、黒く濡れている。思考が停止した。まるで覚えがない。腕が疲れて背広を落とすと、だらしなく崩れてシーツに寝そべる。
 それにしても寒い。エアコンは……タイマーを設定したな。起きる一時間前には点くように。いや待て、じゃあ、なぜ腕時計のアラームが鳴る?
 視界の隅を、濡れた脇腹の辺りがかすめた。白いTシャツに、鮮やかな赤。血の汚れは洗濯してもなかなか落ちない。濡れた肌が痒い。汗のせいか、血のせいか。
 悪夢だな、と気付いた。喉の奥から黄色い胃液がこみあげる。回転する嘔吐感と揺れる浮遊感。
 別の生き物のように、自分の手首が背広に走った。毒蜘蛛のように素早く指先がシーツを這い、背広のポケットに潜り込む。指先に触れる冷たさ、柔らかさ、肉感。せめて誰かが悪戯で放り込んだ、血の滴る牛肉かなにかなら。だがこの肌触りは、まさに肌触り。人間の肌触り。排水溝に溜まった髪の毛を取り除くようなおぞけをこらえ、それをそっと、つかみだす。
 手首をゆっくりと引く。私の手の甲が、そして指先が姿を見せ、それからまた、方向が百八十度逆転した鈍色の指先が現れる。腰の辺りでおとなしくしているもう片方の自分の手首を、ちらりと確認した。ということは、ポケットの中に小人が住んでいる、わけではないな。
 観念した。引き出したものを、シーツの上に置く。青黒い甲、折り曲げられた五本の指、切断面から血脂がじわりシーツに染みをつくる。
 腕をベッドに突いて起きあがる。首を動かした瞬間、紙ヤスリでなでられたような痛みを感じた。思わず指先を首筋に走らせると、軽い火傷ができている。
 フラッシュバック。首筋に金属の冷たい感触、逆光に浮かぶ人影。跳ね除けた布団、襲う冷気、押さえ付けられる身体、暗闇に青白い火花、全身を襲う電気ショック。
「アチチ……」
 思わずうめく。五十代の相手にスタンガンを使うのは、心臓に持病でもないか調べてからにしてほしいものだ。
 背後でアラームを鳴らし続ける腕時計のほうに、身を乗り出す。木目調のサイドテーブルの上、笠付きランプの明かりの下で鈍く輝く、金属ベルトの腕時計。デジタル表示が点滅している。午前四時一分、ハッピー・メリー・クリスマス。靴下を吊した覚えはないが。
 ようやく、頭がはっきりしてきた。眠っていた私の部屋に誰かが忍び込み、スタンガンで気を失わせた。背広のポケットにプレゼントを、いや、切断された人間の手首を入れ、ご丁寧に布団を剥がして背広を私にかけ、腕時計のアラームを真夜中に設定した。
 そこまではわかる。さて、それはなんのためか。で、これは誰の手首だ。
 小うるさいアラームをとめると、滑り込む通奏低音、やまない吹雪。通報しても、警察はすぐには来れまい。腕時計を身につけながらサイドテーブルの向こう側にある出窓を覗くが、半透明プラスチックの雪囲いが外から窓をふさいでいて、なにも見えない。かすかにホワイトノイズじみたちらつきがあるだけだ。
 遅まきながら、脅迫状のことを思い出す。あれは本気だったのか。現物を誰かが保存していてくれればよいが。
 再び手首に視線を戻すと、かすかな金属的輝きを感じた。おや、と思って覗き込むと、なにか握っている。薄気味悪くはあったが、手首を裏返してみる。
 緩く折り曲げられた指の中にあるのは、鍵だった。ごく一般的なシリンダー錠のための鍵に、プラスチックのプレートが金属のリングでつながれている。指を一本一本開いていくと、プレートの文字が読めた。ナンバー2、隣の部屋だ。
(あの夫婦の……)
 これは女性の手だろう。名前はなんだったか。
 緑川桐子という友人から絵葉書が来たのは先月のことだった。いくつかの大手ショッピングサイト構築で有名なソフトウェア会社社長と結婚したが、交通事故で未亡人となり、子供もなく遺産と保険金で悠々自適。それにも関わらず、独身時代からの生業である精神科医を続けている。
 絵葉書は緑川が新しく購入したという山荘の、クリスマスパーティと新年祝いへの招待だった。遅い「夏休み」をとる予定だった私が汐声荘に到着したのはクリスマスイブ当日、車の調子が悪かったこともあり陽が暮れていた。既に他の四人の招待客は到着しており、リビングで談笑している。二組の夫婦で、どちらも私には面識がない。緑川は今回のためにわざわざ雇った料理人と厨房でパーティの準備について話していたようだが、奥から姿を現し部屋に案内してくれた。
 そう、緑川が姿を見せるまで、リビングであの四人の招待客と自己紹介をしたはずだ。名字は星塚、名前は、友江といっただろうか。おかっぱに似た髪型、低い背、人見知りしているような話し方、絵本作家。柔らかい人柄で、場から浮いた発言をしては皆を笑わせていた。
 次第に記憶が蘇ってくる。夫の星塚夏樹は映画俳優だ。かつてはある劇団に所属し、この地方にも巡業に来たことがあったという。顔見知りに挨拶に行くとかで、午後九時にパーティーを中座した。麓までは車で降りるのに三十分程度だが、遅くなるようなら向こうに泊めていただくことになるかもしれないという。ということは、現在二号室に星塚友江は一人きりでいる可能性が高い。
 なにがあったかは知らないが、どちらにせよこんなものがある以上は二号室を訪れてみるしかない。サイドテーブルの椅子にかけられたズボンをとり、両足を天井に向け振り上げて履く。ベルトを締めながら足をベッドから落とし、靴をつま先で探して履く。
 身をかがめた瞬間、影になって見えなかったベッドのすぐ足元に、なにかが転がっているのに気付いた。白く、大理石の模様で、時計盤があり、重そうで……角に血と髪の毛がこびりついている。凶器だろう。
 ベッドの頭のほうを見る。同じ置き時計が時を刻んでいる。切断した手首と一緒に放り込んだのか。ご丁寧な。
 触らないほうがよいと判断し、立ち上がる。さすがにこの背広を羽織る気にはなれない。血がついたシャツを脱ぎ、サイドテーブルの足下に置いた旅行鞄から着替えのシャツとコーデュロイの上着、毛糸のセーターをだす。
 着替えを終え、ズボンの尻ポケットからハンカチをとりだし、ベッドの上の手首から二号室のルームキーをつまみあげる。指は広げたままの形だ。死後硬直があまり始まっていないところをみると、死亡時刻は二、三時間前ということになるが、この寒さではもう少し幅があるかもしれない。まあ、手首だけでは不正確だが。
 よし、行くか。私はサイドテーブルの上を探す。あれなしでこの部屋をでるわけにはいかない。テーブルには寝る前に背広からだしたものが並んでいる。目薬、手帳、小銭入れ、眼鏡ケース……おかしい、あれがない。ベッドの上の背広を手にとり、ポケットを探る。それからズボンのポケット、もう一度テーブルの上を見渡し、少し頭を掻く。
 この部屋のルームキー、どこに置いただろうか。
 二号室に続く芥子色のドアに向かう。ノブを握り、回し、前後に揺さぶる。開かない、施錠されたままだ。
 夕方、この部屋に案内されたときのことを思い出す。先導してくれた緑川が、部屋に入ると芥子色のドアに向かった。よく見ると、鍵穴がある。ここは私の部屋のはずなのに、どうして内側に鍵穴があるのかと、少し混乱した。
「この部屋、隣と続き部屋なんです」
 子犬のイラストが描かれたエプロン姿の緑川が、私のほうを振り返りながら手にしていたルームキーをドアの鍵穴に差し込む。招待主だが、この山荘に集まった人々の中でいちばん若い。いちばんの年寄りは五十代の私だが。
「ここ、元はペンションでしたから。部屋に一号室とか二号室とかルームナンバーがあるのも、部屋ごとにユニットバスがあるのもそのためです」
「シングルの客のときは、鍵をかけておくわけですね?」
「ええ、ダブルとか団体のお客様のときは、部屋をつなげて使っていたそうです。鍵はドアの両面から一つずつ独立してますから、両側から鍵を開けない限り大丈夫ですよ」
 同じように緑川は四号室に通じるドアをロックした。と言っても、四号室は今回空き部屋だそうだが。各部屋の電話は普通の電話と同じように使えること、バスの使い方や洗濯物の扱いのこと、ドアが現在はオートロックではないことなどを緑川は説明してから「もうすぐ夕食ですから、すぐに降りてきて下さいね」と頬に笑窪を浮かべ私にルームキーを手渡した。
 軽くシャワーを浴びた後、食堂に行き七時半からパーティーとなった。そのとき、この部屋の正規の出入り口であるドアに鍵をかけた。飲み過ぎたのか、気分が悪くなって倒れるという醜態を私は演じ、自室に運ばれ午前零時過ぎに意識を取り戻した。この部屋に運び込まれたとき、気を失っていた私の背広から誰かが鍵を取り出したはずだ。ということは、悪意のある誰かがこの隣室に続くほうのドアをそのとき開けた可能性もある。料理人や山荘の整備に雇われた人々はパーティーの始まる前に下山したそうだから、それは明らかに緑川と招待客の二組の夫妻、計五人のうちの誰かとなる。そのとき知人に会うため下山していた星塚夏樹を除けば、四人だ。
 もう一度ノブを回してみる。やはり開かない。この部屋のドアはどれも造りがしっかりしていて、壁と密着しているのか揺るぎもしない。糸とピンセットのような小細工では、鍵をかけることはできない。
 窓を振り返る。隙間風を防ぐためだろう、普通のものより大きめの鍵がかけられている。気味の悪い思いを抱きながら、廊下に面したもうひとつのドア、すなわちこの部屋の正規の出入り口に歩み寄る。
 同じだった。昨晩の記憶と同じだった。つまみが九十度ひねられ、確かに部屋の内側から施錠されている。昨晩眠る前にこの通り確かに施錠したのに、サイドテーブルに置いたはずのルームキーは消え、凶器と切断された手首が残された。
 憮然としてバスやクローゼット、さらにはベッドの下を覗いてみる。しかし、誰もいない。四号室との間のドアも確かめたが、開かなかった。狐につままれた気分で二号室の鍵を手に部屋をでた。