フロントガラスを横殴りに叩き付ける雨粒が蜃気楼のように景色を歪ませる。吹きすさぶ風の跡が明るい黄緑色の帯になって暗い草原を渡ってく。センターラインの上を車は走っていく。そうしないと風圧で知らず知らず道路の端に追いやられる。どうせ対向車なんていやしない。
ボクらはほとんど無言だった。語りたいこともあったし、将来の心配もあったけれど、操縦桿を握る漠々の必死な顔を見れば、この状態がどれだけ危険かはよくわかった。どこから飛んでくるのか折れた枝木が目の前を横切ったり、倒れた看板が道路に覆い被さっていたりした。漠々は冷静沈着にそれらを避け、ときには乗り越えた。ただ一度だけ言葉を交わした。漠々がボクに、身体の調子はどうかと訊いたのだ。大丈夫と答えても、熱はないか、怠くはないかと重ねて訊かれた。
「怠いっていえば怠いよ。でも、それは当たり前だろ?」
そうだなとうなずいて、漠々はまた運転に集中し始めた。それからどれくらい時間が経っただろう、行く手に橋が見えた頃だった。増水した川の面が見えるくらい近づいたところで、不意に浮遊感が身体を襲った。
「しまった!」
漠々が叫んだ。次の瞬間、車が空を飛んだように感じた。声をあげる間もなく世界が半回転して、助手席のドアに強く叩き付けられた。ボクの身体に、覆い被さるように漠々が落ちてくる。外れた片眼鏡がケーブルに吊られて振り子のように揺れる。逆さまになった車体がそのまま風に運ばれ草の上を滑っていく。頭を下にしたまま天井に落ちたボクらは、車の屋根を砂利がこする音を聞いた。やがて速度が衰えていき、車は逆さまのままで止まった。
「でよう」漠々の顔がすぐ傍にあった。ボクは黙ってうなずいた。
後部座席に置いていたアタッシュケースの蓋が開いて中身が飛び散っていた。狭い車内を漠々は苦労して拾い集めていたけど、時間がかかると判断したのか先に行ってくれと告げたので、ボクは慌てて首を振った。車をひっくり返すような凄い風の中に、一人で飛び込むなんてごめんだ。見事なほど生活の最低限レベルに抑えられた荷物の中に、一冊の本が転がっているのをみて興味を惹かれた。漠々は慌てたようにボクの視線を遮って、本をアタッシュケースに納めた。見慣れた装丁だからボクにはそれがなにかわかっていた。グリと倶楽の創世神話集だ。そんなの、どこでも買えるのにとおかしくて、思わず笑い声を漏らした。人の信仰心をあざ笑うつもりはないけど、ただ漠々にそんな一面があることが意外だった。
運転席側から、漠々が先頭になって低い姿勢で飛び出した。ほとんど匍匐前進に近い体型で、四つん這いになって土で手の平を汚しながら進む。雑草が目の前に覆い被さって漠々の姿が隠れたり、ボクの麻袋が風にあおられて身体ごと浮き上がりそうになったりした。ときどき漠々は振り返ってボクの様子を確認し、どうやら励ましの言葉をかけてくれたようだけど風雨と草のいななきが邪魔してほとんど聞こえなかった。
歩けば数分もかからない距離に、二十分以上は費やしたと思う。ボクらは橋の下に辿り着いた。ところどころ白い波をあげながら川幅一杯に泥水が流れていく。コンクリートの天井に反射する低い音が塊になって胸に迫ってくる。風雨がしのげるだけましだけど、遙か向こうの対岸で並木が風に耐えている小さな姿や橋脚にぶつかって逆巻く波飛沫の様子、そしてなによりも星明かりひとつない夜だから橋の下はいっそう暗くて、二人並んで座っているのに隣の漠々の顔さえよくわからない。車の中にいるよりは安全だと思ったけれど、波と風の物凄い反響音と気温の低さに震える身体が次第に心まで不安に縮んでゆくのを感じた。
「……こんな夜が昔あったよ」
漠々はつぶやいた。うつむいていたボクは顔を上げ、漠々の顔を見た。そこには顔の形の影しかない。
「僕の親は反政府組織に属してた。君の星みたいに、国境をなくして世界連盟を形成すべきだ……同じ星の上に住む人々が互いに傷付けあうのはバカげたことだって、何度も何度も僕に言っていた。でも、それを叶えるための行動で、親はやっぱり人を傷付けてた。最後は二人きりで逃げて、夜を過ごして、朝陽が射す頃目の前で撃ち殺された」
ボクは言葉に詰まった。正直なところ、遺伝子のつながりだけで一緒に暮らすという感覚は理解できない。ネットで話すとき感じる倶楽人の「親」に対する独特な親愛感情は特にそうだ。現代の科学技術につながる発見発明をした先人に対する尊敬ならわかるけど、ただ血がつながっているということだけでどうしてそんな感覚が生まれるのかがわからない。
「漠々は、神を信じてるの?」
車の中で見かけた本のことを思い出しながら訊いた。その感情も、ボクには理解できない倶楽人の特徴だった。
「君は?」漠々の声。
「理解してるよ」少し考えてから答える。
「でも信じることはできない。だって神は抽象概念の一種だろ?」
「そうだ」
思いがけず肯定されて、ボクは黙り込んだ。ムキになって反論されても構わないと思ったのに。
「ズィラ、君はいつか書いてたね。僕ら倶楽人はタフネスで強いって。どんな悪環境にも負けない、不屈の精神の持ち主だって。それは、本当は違うんだ。少なくとも僕は何度も人生に負けてる。警備隊に撃ち殺される親を救えなかったし、反政府組織にも参加しなかった。やっとロケット開発で成功したと思っていたのに……」
言葉を濁して、漠々の声が途絶える。苦い気持ちでボクは耳を澄まして待つ。
「倶楽人は、本当は凄く弱い。グリラーみたいに頭もよくない。自分よりなにか大きなものにすがりつくことなしに今の倶楽はなかった」
「でも、宗教のために争いあうことだってあったよね」
「たとえ神さまがいなくても、傷付けあったに違いないよ。倶楽人はそういう奴らなんだ、弱いからいつも牙を剥き出しにしていないといけない」
それきり、漠々は口を閉ざした。暗闇の中でボクは「そういう奴ら」という言葉を使った漠々の気持ちを考えていた。それから、思い切って言った。
「君も、ディープフォレストで生まれたんだね」
漠々の頭が、小さくうなずく。そのとき、風雨の音が和らぎ始めているのに気付いた。