ハックルベリィ・フィンがニタニタ笑って口笛を吹く。
フランス語なんて知らない。それより、口の中のオレンジ味のアイスクリームが冷たくて、痛い。唇の端から、溶けたアイスが流れ出る。
ああ、またよだれを垂らしてるな。俺は夢の中で自分が夢をみてるのに気付く。
まぶたを開くと白い天井が見えた。しばらく考え、これは現実で、目が覚めたのだと判断し、口元に手をやった。意外に、よだれは垂れてない。
短く口笛を吹く。ハックルベリィ・フィンの曲が気に入った。だが、最初の音を鳴らした瞬間、頭痛が走る。眉をひそめた。また飲み過ぎた……どこだ、ここは？
うなりながら腹筋だけで起きあがる。自分の着ている服に目をやる。なんだ？ 青と白の太い縦縞模様のつなぎだなんて。いい趣味だな。胸や膝の辺りに、乾いて赤黒くなった血の染みがある。手のひらにも乾いた血が付いてる。鼻血か？ やれやれ、腕時計がない。酔ってるのを保護されたのか……やばいな、精神病院かもしれん。とうとうなにかやらかしたか。
そういえば、俺は誰だ？ 名前……なんだっけな、クスリはやらなかったはずだが。
まあいい、とりあえずトイレだ。
よろめきながら、立ち上がる。素足に床が冷たい。脈を打つごとに、こめかみの辺りがズキズキする。血管が、いつもの三倍くらい太くなってるらしい。
「ひどいな」
意味のない独り言と一緒に、部屋を見渡す。後頭部をかきむしる。なんだ、えらい短くなったな。丸坊主か……キリスト教の団体がバックアップする病院があるのだから、仏教団体が支援している病院があってもおかしくはない。いや、だからって患者を丸坊主にはしないか。
ワックス塗りたての木目調の床は塵ひとつない。天井は白く、ちょうど俺の頭の上にプラスチックのカバーがされた照明がある。あの蜂の巣みたいなのは、空調用の穴か。なにか、特別な演劇や集会用の場所なのかもしれん。二、三十人は入れる広さだ。床は楕円形で、隅だの角だのがない。分数の二乗を足して一になるわけだ。ただし分母が等しくなる場合を除いて、だ。
手のひらに、妙な感触。無意識に煙草を探って、服の上から胸や腰を押さえていた。どうも息苦しい感じがすると思ったら、つなぎの下に革のコルセットのようなものがあり、胴体を締め付けてるらしい。ご丁寧に、脇腹のほうに鍵穴らしきものがある。鍵がなければコルセットを固定するベルトを外せない、そういうことらしい。ま、拘束着よりマシだ。
ＦＢＩに協力する人喰い殺人犯を思い出す。原作はスティーブン・キングだったか、いや、違うな。
腰のベルトに、革のホルダが通してあるのに気付く。新鋭デザイナーが発表したばかりの携帯電話か。数字キーや液晶表示もあるし、握るのにちょうどいい形だが、アンテナがない。鍔の部分を固定している革紐のボタンを外し、半分ほど引き出してわかった。折り畳みナイフか……暗証番号を知らないと使えないわけだ。だが、なんでこんなものが？ ホルダに戻して考える。が、解釈はでない。気を取り直し、再び部屋を見渡す。
ドアが二つ。焦点のある座標軸上の一点から引いた接線と楕円の接点の位置だ。深く考えることもなく、一方のドアに向かう。奥の方、楕円の端になる位置に、デジタル時計らしきものとなにか文章があったが、とりあえず、この部屋から出るのを優先しよう。
壁紙と同じ色のドアだ。装飾を限りなく廃した、ただの平面に過ぎないノッペラボウなデザイン。あるのはノブと、プラスチックの赤い矢印、そして矢印の先に穴。穴は、指が入るくらいの大きさだ。なんとはなしに、右手の人差し指をつっこんでみる。が、なにも起こらない。なんだ、こりゃ？
ノブをひねってドアを開ける。開けると同時に、自分が馬鹿なのに気付く。こんなコルセットをさせられて、トイレをみつけたってどうやって小便できるんだ。
「参ったな」
煙草がない、トイレにさえ行けない、頭痛と怠気、アンニョイの極地だ。
とりあえず、隣の部屋に移る。なんと、ピンクの壁紙。興奮状態を抑えるにはピンク色の壁紙が効くと聞いた覚えがあるが。これでリボンとレースの飾り付けでもあれば、気恥ずかしさで血圧が上がる。
代わりに、リボンとレース以上に派手なものが床に転がっている。背中にナイフを突き立てられ、うつぶせに横たわる青と白の囚人服を着た人間。丸坊主の頭に、裸足の足の裏にＷ-23の入れ墨。
自己像幻視……あれは、俺の未来の姿か？ ウィリアム・ウィルソンがニタニタ笑って口笛を吹く。エマージェンシィ！ 第二仮説を思いつく。そう、実は俺は死んでいるのだ。ここにいるのは幽霊で、あそこに倒れているのは魂の抜け殻。
「やれやれ……寝覚めの悪い」
ナイフ、ドアに穴、そして死体。三題噺に、どう落ちをつけろってんだ。
部屋を見渡す。死体以外は誰もいない。部屋の形はやはり楕円形で、自分が目覚めた部屋と広さも同じだ。ドアを境に、対称形に並んでいる。奥のデジタル時計と文章らしきものも同じ位置だ。
奥に向かう。デジタル時計は「1999.08.01 AM04:05」を表示している。こんな早起きじゃ不機嫌になるのもしかたない。文章はゴチックの太字だ。
俺は小さく舌打ちする。
「生き残ったら賞品でもくれんのか……」
まあ、いい。ゲームなら、参加者は受けて立つまでだ。案外、俺のことだから面白そうだと思って参加したのかもしれん。記憶を消されるのも、合意の上とか。真剣味を増すほど、ゲームは面白くなる。まあ、レベル７まで行ったら戻れないが。
回れ右して、Ｗ-23の傍らまで行く。ハロー、第一の被害者君。シャーロック・ホームズが診てあげよう。
ナイフは深く突き刺さっている。ちょうど心臓の位置だ。液晶にはなにも表示されていない。血の筋は二股に分かれている。一方はつなぎの縦縞模様と平行に、腰の辺りでとぎれている。他方は縦縞模様とは垂直に左脇へ流れ、床に小さな血溜まりを作っている。流血はとまっているし、完全に乾いているから、俺が寝ている間に刺されたのは間違いない。
恐らく殺人鬼は、Ｗ-23が立っているところを背中から刺したのだろう。もしくは、抱き合うような態勢からナイフを持った手を背中にまわしたのか。どちらにしろ、そのとき血はまず縦縞模様と平行に、足下のほうへ流れた。そして、血が床に落ちる前にうつぶせに倒れる。わずかに身体が左に傾いていたので、血は左脇に流れ落ち、床を汚したわけだ。
左脇からの血の流れと、床の血溜まりの位置は全くずれていない。つまり、死体は動かされていないと見ていいだろう……おっと、死体と呼ぶのは早かったな。
ひざまずいて、さらに観察を続ける。頭頂部の１６７６４１０８という数字の入れ墨は、ナイフの暗証番号か。後頭部に書いたほうが囚人みたいで、面白いビジュアルになったんだがな。なんて、他人事じゃないか。うつぶせの横顔を覗き込むが、息はしていない。素潜り世界チャンピオンの記録に挑戦中というわけではないようだ。冷たい手首に触れる。脈を探すまでもない、くの字に腕が軽く折れ、死後硬直が始まっている。見事なほど間違いなく死んでいる。
腰の辺りを覗き込む。空のナイフホルダがつぶれている。思いついて、頭頂部の数字を自分のナイフに入力してみる。が、ダメだ。考えてみれば、俺が目覚めるまでゲームの開始を待ってくれていたとも思えない。現実に、こいつは殺されている。自分の暗証番号を自分で確認できない以上、殺人鬼は他人のナイフを奪ってるだろう。となれば、なにかの事情によっては俺のナイフもすりかえられているかもしれん。
立ち上がり、再び部屋を見渡す。さて、次になにをすべきか。もう、この部屋から読みとれる情報はないか？ 深く息を吸い込み……思わず、あくびをする。眠い。早めに決断しなくては。元の部屋に戻るべきか、それとも、反対側のドアを試すか。
もう一度、壁紙の警告文を読み直す。明らかにこれはサバイバルゲーム……生き残った者勝ちというルールが読みとれる。ということは、意味不明の「夜明けの秋」という言葉の謎を解けばいいのか？
数秒考え込む。煙草がほしい。情報が、足りない。
入ってきたほうのドアに向かう。まず自分が目覚めた部屋の情報を集めよう。反対側のドアの向こうは、なにがあるのかわからない。うかつに踏み込むのは危険だ。
ノブをつかむ。プラスチックの矢印と穴が、こちら側にもついている。指紋判別機だったとはね。さっき試したから、どうせロックできないだろう。ノブをひねり、ドアを開ける。
「じゃ、また縁があったら」
振り返ってＷ-23に敬礼。部屋を移動する。最初に自分が目覚めたときと、変わっていない。ただデジタル時計は、Ｓの部屋とは五分ほど進んでいる。推理している間にそれくらいは経っただろうから、時刻は二つとも合っているようだ。もちろん、外界の時刻とシンクロナイズしているかまでは確認できないが。
警告文の前まで行く。文章を読む。どうやら、先程のと同じ文章のようだ。一字一句まで同じかは確認する気もしないが、内容的に違うところはない。
再び推理する。先程より、眠気が強い。どうも猶予はないようだ。集中力が弱っているのか、なかなか頭の中に部屋同士の位置関係をイメージできない。
「……夜明けの秋、か」
なぜ、壁紙の色が違う？ 単純に考えよう。子供にさえ解けそうな謎々の類かもしれない。
ひらめくものがあった。俺は反対側のドアに向かう。開くだろうか。ロックされていると、少々面倒なことになる。
ノブをつかみ、ひねる。どうやら、幸運だったようだ。無抵抗にドアが開く。今度は、栗色の壁紙だ。
部屋の真ん中に、人間が仰向けに倒れている。青と白の囚人服、丸坊主の頭、閉ざされたまぶた、薄青い唇、大の字に広げた腕と足、右腕の側に落ちている血塗れのナイフ、左腕の手首から噴き出した血の跡……すでに乾いている。
「十四日の土曜日かよ」
予想していなかっただけに、つい苛立ちが漏れてしまう。
Ｗ-23のときは背中を刺されていた。ナイフは刺されたまま残され、栓の役目をしたのか流血が少なかった。だが、こいつの傷は手首だ。結構、派手な血の飛び散り方をしている。ただ、落ちているナイフは刃の部分こそ血塗れだが、柄の部分はまったく汚れていない。液晶には、１６７７７２１５と表示されている。覚えやすい数字だ。
足の裏を覗く。だが血で汚れて、なにが書いてあるのか判別できない。仰向けに横たわっているのに足の裏に血がついているということは、立っている姿勢で手首を切られ、血が噴き出し、できた血溜まりの中に足の裏を突っ込んでから倒れたわけだ。まあ、Ｗ-23の血かもしれんし、まだ他にある死体からの血かもしれない。第一、背中じゃなく手首なんだから、自殺かもしれない。まあ、こんな異常な状況ならわからない気持ちではない。
頭頂部には、例によって数字が刻まれている。その気になって、再び俺は自分のナイフにその数字を入力してみた。ＯＫボタンを押すと、ピッと電子音。
「ビンゴ」
銀色の刃を引き出す。全開にしてから、また折り曲げてみると、六十度くらい折り曲げたところで表示が消えた。なるほど、それでＷ-23に刺さっていたナイフは表示が消えたのか。
乾いてはいたが、血溜まりを避けて近づく。よろけて、少し踏んでしまった。頭がぼんやりする。動いていないと、意識が飛びそうだ。
唇と鼻孔付近に、手のひらをかざす。息は感じられない。よく見ると、わずかにまぶたが開きかけてるようだ。死後硬直の現れか。左手首は血塗れなので、右手首の脈を探る。既に体温がない。ウェルダンくらいによく死んでいる。
「俺が殺人鬼だったのかな……」
記憶を探る。なにも思い出せない。二重人格なら、殺人鬼の人格が俺とは別にあるわけだから、記憶が連続してないので思い出せるわけがない。自分の服を見下ろす。この血の染みは、殺人のときに付着したのか？
立ち上がる。軽い吐き気を覚える。自分の考えていることに、なんだか現実感が伴わない。遠いことのように思える。眠い。
死体から離れる。奥の警告文の前に向かう。デジタル時計は十分ほど進んでいた。警告文を読み直すが、内容は同じだ。部屋の名前はＡになっている。
腰から力が抜ける。まだだ、ドアをロックせねば、とは思うのだが、もう身体の自由が効かない。夜明けまでに殺人鬼がこの部屋に来なければ勝ちだが……期待はできない。
いや、そうでもないか。警告文にはあんなことが書いてあったが、俺達は自分が目覚める時刻を自由にできなかった。ひょっとすると、殺人鬼は眠っている人間は襲わないのかもしれない。でなきゃ、ゲームに参加できる前に殺されてしまうこともありえるじゃないか。それじゃあ、ゲームにならない。
床に倒れ込む。仰向けになって、白い天井を見上げた。
二つの死体の様子を思い出す。二人とも、起きているところを殺されたようだった。いくら殺人鬼でも、眠っている無抵抗の人間を襲うほうが効率がいいはずだ。
まぶたを閉じる。まあいい、やるだけのことはやった。希望的観測をしてもしかたない。ああ、そうだ、俺の足の裏には、どんな記号が刻まれていたのだろう。
次第に、自分の心のつぶやきが小さくなるのを感じた。やがて、胸を締め付けられる苦しさと、鉛のような疲労感だけが残り……俺の意識は途絶えた。