肌と肌が密着している。汗をかいて蒸れて嫌な感じ。
 牛の顔をした男が獣臭い息を吹きかける。牛の言葉で語りかけられても返す言葉がない。
 ブモブモブモ……。ブモブモブモ……。
「ブモブモブモ……」
 目が、覚めた。仰向けに、私は寝ころんでる。
 白いプラスチックのカバーに覆われた照明。見覚えがない。どこだろ……寝言、誰かに聞かれちゃったかな。牛の化け物。なんだろ、そういう妖怪がいたような。確か、予言をするとかいう。あんな言葉じゃ、誰もわからないよね。
 寒気がする。床に直に寝転がってるせいか。熱があるのかも。平衡感覚がおかしくて……ゆっくり、部屋が回転してる気がする。空調の音が、雨の音のよう。二日酔いの哲学者のように、誰かの世界観をロジックで抹殺したい気分。
 上半身を起こす。ひどい頭痛。
「……イタ」
 剣山を入れた風船みたいに、ちょっと動かしただけで破裂しそう。思わずまぶたを閉じて、こめかみを押さえる。目を開けると、あぐらをかいた足の裏が見えた。奇妙な記号が書かれてる。素人が考えなしに作ったオリジナル・フォントみたいに、シンプルなようで読みにくい。
「Wの……22?」
 W-22。どうも、そう書かれているみたい。しかもマジックペンとかじゃなくて、入れ墨で。性別と、年齢? 私、今年で何才だっけ……思い出せない。ううん、そんなことより……。
 私、誰?
 自分の服を見下ろす。青と白の縦縞のつなぎ。腰にはベルト、なにかのリモコンを納めているらしい細長いホルダ。
 髪をかきあげようとして、手が宙を舞う。代わりに、心地よいようなザラザラした感触がした。両手を頭皮にあてる。ない。髪がない。だけど、目覚める前はどんな髪型だったか思い出せない。
 ここは刑務所? 私、囚人なの?
 サスペンス映画みたいなストーリーが浮かぶ。二重人格者の女性の、悪い心を持った人格の方が、悪いことをして刑務所に閉じこめられる。刑務所の中で、もう一つの方の人格がまったく見に覚えのない罪で独房に閉じこめられている自分に気付く。
 服も、丸坊主なのも、足の裏の記号も、刑務所ならありえることかもしれない。
 ホルダのボタンを外して、リモコンを抜いてみる。よく見たら、リモコンじゃなかった。電卓付き折り畳みナイフ? 銀色の数字キーに黒い柄、手になじむ曲線の握り。こんなの好きな俳優が持っていたら、絵になるだろうな。でも、どうしてナイフなんか持ってるんだろ。ここが刑務所なら、持たされる理由がわからない。
 ナイフをホルダに戻す。両手の平に顔を埋めて、記憶を探る。思い出せない。頭痛と軽い吐き気で、思考に集中できない。私、なにか悪いことをしたんだろうか。
 立ち上がる。自分が興奮してるのがわかる。身体がだるくてよろめきそうなのに、頭の中だけどんどん活発になる。徹夜明けで、精神的にハイになってるのに似てる。徹夜明けした記憶はないのに、どうしてそんなことわかるんだろ。
 部屋を見渡す。おかしな部屋だ。角のない、円形の……違う、楕円だ。楕円形の床だ。楕円柱の形のケーキを思い浮かべる。ちょっとした集会ができるくらい広い。
 二つ、ドアがある。ちょうど、楕円柱のケーキに横からかぶりついたとき、上下の前歯があたるところ。チョコレートムースが食べたいな……。
 ドアに走る。部屋の奥になにか文章みたいなのがあったけど、そんなのより、私は早く外にでたい。
 ノブをつかむ。ねじって、ガチャガチャと前後させる。開かない。
 ロックされてる? 落ち着いてよく見ると、ノブの上にプラスチック製の赤い矢印。指の大きさの穴が矢印の先に空いてる。なんとなく、右手の人差し指を差し込んでみる。でも、指で感じる限りでは、穴の中はツルツルでボタンとかがあるわけじゃないみたい。なんだろ、これ?
 もう一度、ドアを試す。やっぱり、開かない。
「もう!」
 両手グーでドアを叩く。サルに退化した気分。
 回れ右してもう一つのドアに向かう。泣きたい。泣き虫の殺し屋の映画を思い出す。マチルダ? 違う、それは別の映画。
 造りがもう一つのほうとまったく同じタイプのドア。ノブをひねると、ドアは開いた。
「やった!」
 そのまま隣の部屋に足を踏み込んで、私は凍り付く。
 ピンク色の壁紙。白い天井。木目調の床。広い、広い、楕円形の空間の真ん中に、倒れている人間が一人。
 背中に、ナイフが刺さってる。私が持ってるのと同じ折り畳みナイフ。
「うそ……」
 胸が苦しい。汗で蒸れる。手のひらをあてると、服地越しに革の肌触りがした。なにか、丈夫なもので胴体が覆われてる。気付かなかった。
 へなへなと腰が砕ける。魂が抜けそう。背中がさっき閉じたドアにぶつかり、そのままズルズルと座り込む。
 刺されてる人間は動かない。足の裏に、私と同じ種類の活字で入れ墨がされてる。W-23て読むのかな。ナイフの位置は、ちょうど心臓のあたり。血の量はそれほど多くなくて、背中から足下のほうへ、それから左脇に二筋にわかれて流れてる。見た感じ、もう血は乾いてるみたい。
 訳のわからなさに慌てふためいてた私の心が、ショック療法を受けたみたいに危機感で鋭くなってく。ここは不思議の国じゃない。首をちょんぎられたら、本当に死んでしまう。
 息が荒くなってるのに気付く。瞳が潤んで、寒くもないのに震えてる。でもどこかそんな自分を客観視してる冷静な自分にも気付く。深呼吸して、死体から目を反らし、周囲を見渡す。本当に二十二才なのか思い出せないけど、私は子供じゃない。それだけは確か。
 壁紙の色以外は、まったく同じ作りの部屋だ。楕円形の床、白い天井、壁紙と同じ色した二つのドア。二つのドアから更に奥のすぼまりのほうに、なにか文章が壁紙に印刷されている。その上にあるのは、時計だろうか。デジタル表示の数字が並んでいる。
 ドアから離れ、壁紙の文章に向かう。そういえば、私が目覚めた部屋にも同じような文章があった。内容も同じかな。近づいてみると、やっぱりデジタル表示は時計のようだった。「1999.08.01 AM03:07」と電卓の数字みたいに液晶画面に横長に表示されてる。もう少し近づくと、文章が読めた。

 めまいを覚える。強烈な悪意に、押し潰されそう。
 私は口元を押さえた。怒りとも悲しみともつかない感情に、混乱する。体罰の名の下に子供を殴りつける教師を目撃したような……残酷な人間性に感じる言葉にできない怒りと悲しみ。他者の痛みをまったく理解しない、ただ暴力的な愉悦と快楽のリズムに溺れる悪魔。
 ホルダのボタンを外し、ナイフをとる。刃を出せなくても、握っているだけで心強い。両の手のひらで握りをつかんで、入ってきた側のドアに向かう。戦場を駆け抜ける兵士のように、少し腰を落として。
 警告文の通り、赤い矢印の先に挿入口がある。期待を込めて、右手の人差し指を差し込む。このドアがロックできれば、私が目覚めた部屋の反対側のドアはロックされてたから、殺人鬼の襲来を防げるかもしれない。
 だけど、駄目だった。他の指も試したけど、ノブを捻ると他愛なく開いてしまう。さっきはドアが開かなくて泣きそうだったけど、今度は閉まらなくて泣きたくなる。
 またナイフを構え直す。部屋の中央に倒れるW-23を大きく迂回して、反対側のドアに。
 ノブをつかんでひねっても、ドアは開かない。ロックされてる。喜ぶべきだろうか? 右手の人差し指を指紋判別機の穴に挿入する。なにも起こらない。ダメだ、これはダメだ。ロックの解除をできる人間が殺人鬼だったら、この部屋に入ってくる。無言でドアを軽く蹴り付けてから、他の指を試す。全然駄目、開かない。
 二、三歩後ずさり、ドアを睨んでため息をつく。息を全部吐き出す前に、すぐに思いっきり吸い込む。どうする? 誰かが助けてくれるまで待つ?
 次の瞬間、かすかな、声が聞こえた。うなりともあえぎともつかないくぐもった声。
 熱いストーブにうっかり触れたみたいに、思わず身体を震わせる。殺人鬼が来た?
 カチャリという金属音。ロックが外された……私は、刃のでないナイフを構える。逃げ場がないことはわかってる、だったら、なんとか殺人鬼をやり過ごして奥の部屋に逃げ、ロックできるドアを探さなきゃ。
 だけど、ドアは開かない。自分の鼓動が聞こえそうなほどの緊張感を胸に、ドアに近づく。殺人鬼は、隣の部屋で待ちかまえているのかもしれない。
 ナイフを右手に、左手でノブをつかんで、ゆっくり開ける。ドアの隙間から、白い壁紙が見える。また同じ楕円の部屋だ。ドアを境に対称形に楕円形が並んでるわけで、仏像の光背みたいに放射状になってるみたい。でも、それだと外への出入り口はどこにあるんだろ。
 また、声がした。声というより、しゃっくりみたいな乱れた息に近い。
 ノブを握る手が思わず硬くなる。寒気で微震のように身体が震えた。息を潜めていると、かすかに、ドアを開けたせいか、気付かなかった荒い息づかいが聞こえる。殺人鬼がナイフに舌なめずりしながらドアを開けて私が入ってくるのを待っている……興奮で息を弾ませて。
 ううん、違う。なんだか、違う。押し殺すような息じゃない、これは……。
 ドアを全開にする。足下に、匍匐前進の姿勢でうつぶせで顔だけ必死に上向ける人間の必死な形相が視界に飛び込む。ナメクジみたいに匍匐前進で這った跡が、濡れている……真っ赤に。
「……う……ああ……」
 丸坊主の頭。頭頂部に刻まれた16777215の数字。青と白のストライプ囚人服。あえぎながら差し出す右手が、赤い。
 私は悲鳴を上げた。高度計の針がグルッと回って、急降下してゆく。下降するエレベータの百倍強い無重力感に力が抜けて、一歩後ずさったかと思うと床の上に尻餅をつく。
 同時に、相手も力つきるように首が落ちる。木目調の硬い床に、強く額を打ち付ける鈍い音が響いた。同時に、赤い右手が糸の切れるように床に落ちる。
 身体中から汗が噴き出すのを感じた。ブモブモブモ……牛頭がささやいてる。コルセットが熱い。私はナイフを持ち直し、這うようにして相手に近づいた。殺人鬼じゃないなら、助けないと。
 ドアに視線を向けると、ノブや指紋判別機の穴の周囲に血が付いている。そうか、隣に人がいるのに気付いて、瀕死の状態でここまで這ってきてロックを開けてくれたんだ……でも、どうして?
「どうしたの? 刺されたの?」
 相手はうつぶせになったまま、動かない。首を横向きにして、息だけが荒い。私は相手の肩に手をかけ、仰向けにさせる。傷の様子を見たかった。知識はないけど、縛って血をとめるとか、やれることをやるしかない。
 でも仰向けの姿を見た途端、私は自分が無力なのを思い知らされた。服の生地が変わったかと思うほど、胸から足下まで真っ赤だ。心臓の位置から少し離れたところを刺されたようで、つなぎの服がちょうどナイフの幅の分だけスッパリ切られ、ナイフが突き刺さっていたことがわかった。無駄遣いをするように血が溢れてくる。懐かしいようで生理的嫌悪を感じる匂いに酔いながら、私は泣き出した。頬に熱い滴が流れる。
「……ひどいよ」
 投げ捨てたい気持ちを抑えてナイフを自分のホルダに納める。思い出したように、私は一瞬だけ部屋全体を見渡した。大丈夫、私達以外、この部屋には誰もいない。私が入ってきたのと反対側のドアは閉じている。警告文も内容の同じらしいものがあった。末尾の文の部屋の名前は、W。壁紙が、ホワイトだから? 部屋の中央付近、血の跡が始まってる辺りに、ナイフが落ちてる。私が持ってるのや、W-23に刺さっていたのと同じ形のナイフだ。かなり遠いけれど、まぶたを細めると、どうにか16764108の液晶表示が判別できた。彼の血を浴びたのか、刃先はもちろん握りまで真っ赤に染まってる。
 視線を戻すと、仰向けに倒れてる相手の腰のホルダには、ナイフがない。ナイフを奪われてから刺された? 殺人鬼も私達と同じナイフを持ってるなら、あそこに落ちてるのは殺人鬼のナイフで、その後、この人からナイフを奪ったのかもしれない。
「君は……誰?」
 声で男性だと直感できた。彼は(本当の性別はコルセットのせいでわからないけど、こう呼ぼう)まぶたを細く開いて、私の顔をみつめている。
「しっかりして。外に行って、救急車を呼んできます! 大丈夫、きっと助かるから!」
「君も……同じ目に遭ったんだね……その服、頭……目が霞んで……よく見えない……」
 私は彼の腕をとった。手首の動脈を探る。弱々しい鼓動が、わずかに伝わった。思わず、彼の上半身を抱き上げる。彼の顔が間近に迫る。なにか声をかけたい、でもなにも言えない。ただ軽く身体を揺さぶりながら、頬を涙が伝わるのだけ感じる。とても大事でかけがえのないものが壊れていくのをただみつめるしかない無力感。
「……ごめん……ごめんなさい、私……」
 やっと絞り出せた言葉は、それだけだった。同時に、フッと意識が遠のくのを感じた。目覚めたばかりのときに感じていた眠気が、強くなっている。
「……あり……がとう」
「え?」
 指先に感じる彼の鼓動が、次第に……小さく……小さく。
「一人では……死にたくなかった……なにも思い出せないまま……殺されるなんて……」
 それだけのために、ドアを? 彼は、まぶたを閉じる。突然、支えていた彼の上半身が重くなる。同時に、私の中で恐ろしい疑問が沸き上がり、気管を突き抜け、唇から飛び出た。
「私が、あなたを殺したの?」
「ちがう……」
 首が後ろにのけぞる。鼓動が、感じられなくなる。
 私は、そっと彼の身体を床に戻した。しばらく、彼の顔をみつめる。眠気と、極度に張りつめた精神が感情を麻痺させ、沈黙だけが残る。
 立ち上がる。同時に、頭痛が襲う。思わず指先を額にあてると、スピードの緩んだコマみたいに身体がよろめくのを感じて、たたらを踏んだ。
 さまよう視線が、彼の足の裏をとらえる。そこには、自分と同じ入れ墨があった。M、そして24。
「……ああ……あ……」
 拳を固めて天井を見上げ、うなりをあげる。
「卑怯者ぉ!」
 彼の名前さえ、私は呼んであげることができなかった。
「私はWの22なんかじゃない……」
 歩き出す。入ってきた側のドアに戻る。殺人鬼は、彼を刺した後で私が入ってきた側と反対側のドアから逃げたはず。だから、殺人鬼から離れたかったら、最初に私が目覚めた部屋に戻ったほうがいい。
 隣の部屋に移る前に、もう一度、彼の身体を見下ろす。さよなら、と小さくつぶやいてから、私はドアを閉じた。
 W-23は、変わらず背中を刺されて倒れたままだ。大きく迂回して、部屋を横切る。眠い。歩きながら、まぶたを閉じてしまいたい。まっすぐ歩けなくて、壁にぶつかりそうになって、手探りで進んでドアノブをみつけて、両手でつかんで、身体全体をねじらせるようにしてノブを回し、ドアを開けた。
 部屋に入る前に、もう一度W-23を見る。彼と同じように、頭に数字が刻まれている。16764108……あれ? Wの部屋に落ちていた、彼を刺して血塗れになったナイフと同じ数字だ……どうして?
 倒れ込むように部屋に入る。意識が切れ切れで、これからどうすればいいかわからない。部屋の中央に向けて、ただ歩く。なんにも思い出せない。楕円形の部屋が回転してる。私も回転してる。いつの間にか、床に横たわっていた。
 ぼんやりと、白い天井を見上げる。遠くから人々のざわめきや虫の羽音が近づいてくる。
 どうして私は寝転がってるんだろ……そうだ、殺人鬼から逃げてきて……。彼は死んでしまった。W-23も。
 ああ、でも……そう、確かに、彼は死んでしまった。手首の脈が止まったのを確認した。
 でも、W-23は倒れてるのを見ただけだ。
 ざわめきと虫の羽音はうるさいほどになり、甲高く永い悲鳴のようになったかと思うと、突然、静かになった。私は、意識を失った。