泣いていた。めそめそ泣いていた。
 今日はマミオの命日だ。街中が灯火を消している。暗くてこわい。
 周囲がほのかに明るくなる。僕は夢から覚めた。
 真っ白な天井があった。ああ、夢の中で明るくなったと思ったのは、あの天井だったんだな、と思った。マミオって、誰だろ?
 頭を起こそうとして、すぐにやめる。二日酔いみたいな吐き気と頭痛と胸の悪さがいっぺんに襲ってくる。胸なんか、締め付けられるような息苦しさだ。気分はロー、頭はバッド、なんだかわかんないけど、もう一眠りしようか。
 そういうわけにもいかない。
「やれやれ……」
 手を床について、身体をひねり起こす。頭がボーリングの玉みたいに重くて、前に傾けると前に倒れそうだし、後ろに傾けるとゴロリとそのまま横たわりたくなる。
 つぶってしまいそうになるまぶたの隙間から、自分の着ている服が見えた。青と白のストライプ……こんな服、持ってったっけ?
 無意識に掻こうと頭皮に突き立てた爪先に、無精髭のような短い髪が突き刺さる。ない。髪がない。
「え? え?」
 両手の平で頭皮を探る。丸坊主にされているのがすぐにわかった。
「ひっでぇ……誰だよ」
 誰?
 僕は誰?
 上半身だけ起こした姿勢で、頭皮を探っていた両手のひらをみつめたまま、動けなくなった。手首の辺りの肌の色が、うっすら帯状に白っぽくなっている。腕時計をしていた跡だろう。手首を二、三度裏返す。ここに、どんな時計をしていた? ベルトは革か、金属か? 文字盤はアナログか、デジタルか? 買ったのはいつ、どこで?
 なにも、覚えていない。
「記憶……喪失」
 改めて自分の姿を見下ろす。青と白の太い縦縞模様。精神病院の患者みたいなつなぎの服だ。麻みたいにごわごわしてる。でも、こんなブカブカなのに締め付けられるような感じがするのはなんだろう。
 服の上からまさぐってみる。すぐにわかった。革製のコルセットみたいなものが、胴体を完全に包んでいるのだ。コルセットは幅広のベルトで固定されているが、鍵穴のようなものもあるのでベルトは鍵がないと外せないらしい。
 つなぎの服にポケットはない。代わりに、つなぎなんだから必要ないはずの腰のベルトがある。ベルトには細長い革製のケースがぶらさがっていて、なんだか変わったデザインの、テレビのリモコンみたいなのが入っている。いや、リモコンじゃないな。この形は、握りだ。小さな鍔があって、その鍔に引っかけるようにして短い革紐が棒状の物体の勝手に飛び出るのを防いでいる。革紐の先にあるボタンを外し、少し引き出してみて初めてわかった。どうやら、これは折り畳みナイフのようだ。数字キーと液晶は、パスワードを入力しないとナイフが引き出せないようになっているからだろう。
 ヒッチコックの映画を思い出す。あらすじを、全然思い出せない。金を横領して逃げた女がいて……どこかのモーテルで殺される。どうして殺されるんだっけ? 金じゃなくて恋愛がらみで、別れた男が追いかけてきたんだっけ?
 こんなつまらないことは思い出せるのに、なぜ自分が誰かわからないんだろ?
 立ち上がる。よろけそうになりながら、部屋を見渡す。わりと、広い。妙な感じだと思ったら、部屋が楕円形だ。時代劇で、悪徳商人が賄賂に差し出す小判の束を連想させられる。もちろん、見覚えはない。
 二つのドアがあった。たとえるなら、小判に横から噛み付いたとき、上の前歯と下の前歯が突き刺さる位置だ。よっぽど硬い牙が生えていれば、の話だけど。
 とりあえず、外に誰かいないか探そう。僕は一方のドアに向かって歩き出す。夢の中を歩いているように、眠気で足下がふわふわして頼りない。でもなんというか……これは夢ではない、現実の空気の感触が肌に感じられる。なにより、喉の奥の焼けるような吐き気がありがたくないリアルさだ。
 ドアノブをつかんで、ひねり、押し開ける。顔だけドアの外に出して左右を見渡す。
 通路にでることを想像していたが、そうではなかった。また、楕円形の部屋だ。栗色というんだっけ? 焦げ茶色の壁紙なんて、生まれて初めて見た……のかはわからない。
 誰もいないようだ。僕はドアを閉じる。ドアノブの上に赤いプラスチックの矢印があるのに気付く。矢印の先には、小さな穴。思わず右手の人差し指を突っ込んでみた。だけど、別になにも起こらない。ロックされたのかと思ったけど、ノブをひねると変わりなくドアは開いた。
 なにか、専用の鍵があるのかもしれない。穴の中は万年筆のキャップみたいに指の形に丸まっていたから、指の形をした鍵だろうか。とっかかりのない金属的な冷たさのツルツルした感触だから、普通の鍵みたいな機械的な構造じゃなく、磁気を読みとるとかの電子的な鍵なんだろう。となると……指紋でロックするのかな? 僕の指紋が登録されてなければ開くわけがない。
 念のため、左右十本の指を試した。けど、ダメ。
 諦めて回れ右する。もうひとつのドアを調べよう。地下のダンジョンをさまよう、RPGの主人公みたいだ。
 もう一つのドアも同じようにドアノブと矢印と穴があった。とりあえずドアノブをつかみ、ひねり、押す。なんなくドアは開く。少し頭がはっきりしてきたせいか、気が大きくなって今度はいきなり全開にした。
 桜の花びらみたいに柔らかいピンク色の壁紙。花、といえば、ここも同じように楕円形の部屋だ。位置関係を考えると、楕円形の部屋は花びらみたいに放射状に並んでいるようだ。
 床はここも同じく木目調。天井は白で、プラスチックのカバーがされた照明の光が柔らかい。そして、僕と同じブルー・アンド・ホワイト・スプライトの囚人服を着て倒れている、二人の人間。
 一瞬、網膜に映った光景を理解できなくなる。
 一人は起きあがろうとしてそのまま崩れたように、上半身をねじるようにして横向きに倒れている。
 もう一人は、うつぶせに倒れ、握りと刃の部分で「く」の字に折れ曲がった折り畳みナイフが、背中に突き刺さっている。
 ちょうど心臓の位置になるだろうか。濃紺の血液が、突き刺さったナイフの根本から、二筋流れ出ている。一方は縦縞に平行に足下のほうへ流れ、腰の辺りで途切れ、もう一方は左脇へ、そして床へと流れ落ちている。どちらもほとんど乾いているようだ。足の裏には、シンプルなデザインの活字でW-23の文字。マジックや墨ではなく、肌に浸透している色合いからみて入れ墨だろう。
 丸刈りの頭、安らかに閉じている瞼、薄青い唇。
「あぁ……」
 僕は、声にならないつぶやきを漏らす。叫びたかったのかもしれない。
 『バートン・フィンク』の監督って誰だっけ? なんてひどい……ひどい色使いだ。二番煎じもいいとこだ。小人にダンスをさせなきゃ。
 部屋に入る前に、本能的に部屋全体を見回す。人間にも、やっぱり動物的本能があるんだ。狩られる側の本能。殺した奴は、まだこの部屋に隠れてるかもしれない。
 その心配はなかった。ここも僕が目覚めた部屋と同じく、なんにもない空間が広がってるだけ。代わりに、壁紙に奇妙な文章が印刷されているのに気づいた。

 警告文の上には、液晶表示の時計。「1999.08.01 AM02:12」と表示されている。
「なんだこりゃ……」
 口に出してしまってから後悔した。あまりに場にそぐわない発言。でも、この警告文のほうがよほどナンセンスだ。二重人格の殺人鬼? 公共の利益? 夜明けの秋? 馬鹿らしい。ああ、でもそういえばこの警告文、僕が目覚めた部屋や、あの栗色の壁紙の部屋でも見かけた気がする。
 とりあえず、今はこんなのに関わってる暇はない。現実の、目の前で刺されて倒れている人間の生死を確認しないと。
 小走りに駆け寄り、そばにひざまずく。左の手首をつかんで脈を探りながら、声をかけた。
「おい、大丈夫か?」
 ナイフを抜くべきだろうか? いや、こういう場合は、ナイフが栓の役目をして出血を抑えるとも聞く。肩を揺らそうかと思ったけど、動かさないほうがいいのかもしれない。いや……なにより、僕は無力なんだ。医療知識はない、救急車を呼ぼうにも、ここから脱出する方法さえわからない。
 脈は弱かった。信じられないほどスロー・テンポ。横から顔を覗き込むと、真っ青で、閉じたまぶたは開きそうになかった。次の瞬間、ほっとしている自分に気付いた。もし、死にたくないなんてつぶやかれても、僕にはどうしようもない。ひどい自己嫌悪感が湧き上がるのを感じながら、かける言葉さえわからなくなって、やがて、脈はとまった。
 これが、尊厳あるべき人の死というものだろうか?
 僕は立ち上がり、しばらく、魂なき身体を見下ろしていた。それから、頭頂部になにか黒い汚れがあるのに気付いた。いや、汚れじゃない。数字だ。16764108……そうか、ナイフの暗証番号だ。
 腰の下を覗き込んでみる。空のナイフホルダが身体に押しつぶされていた。すると、自分のナイフで刺されたか? ナイフの液晶画面は、空白になっている。表示が自然に消えたのか、それとも犯人が消去したのか。
 仮説を立ててみる。僕のナイフと、背中に刺さっているW-23のナイフはそっくりだ。犯人も同じタイプのナイフを持っていて、それで刺し殺し、W-23のナイフを持ち去ったのかもしれない。いや、逆か。暗証番号は頭頂部にあるから、自分のナイフは使えない。ということは、犯人はW-23のナイフを使ったのかもしれない。眠っているW-23のナイフを奪って、そして頭頂部の数字を入力し、ナイフを広げ、刺す。その後は素知らぬふりで……そう、つまり……。
 僕は傍らで身体をねじらせ倒れている人間を見下ろす。頭頂部には、16776960の数字。こいつが殺した?
 一瞬、爆発的な怒りの衝動に突き動かされそうになる。待て、落ち着くんだ、どこに人をナイフで刺して、そのまま同じ部屋で眠り込む殺人鬼がいる。覗き込むと、捻った腰の下に僕と同じナイフがホルダに収まっていた。疑うようで悪いが、奪っておいたほうがいいだろう。それから起こして、事情を訊いたほうがいい。
 眠っているのを起こさないよう、そっと腰のホルダのボタンをはずす。右手で身体を抱き起こしながら、左手ですかさずナイフの握りをつかみ、奪い取る。ゴロンと仰向けになる身体から一歩飛び下がった。奪い取ったナイフは、とりあえず僕のベルトに挟む。
「う……」
 気が付いたようだ。ふと、足の裏に注目する。W-23と似たような記号だけど、どう読むのだろう。
 僕は近づいて、肩を揺さぶってやる。こうやって近くでみても、男なのか女なのかさえわからない。声はどうだろう?
「起きてください、非常事態ですよ」
「……エ、エ?」
 瞼をしばたいたり、手の甲を頬に押し当てる仕草は女性的だけど、声はハスキーだ。まあ、僕も声変わりしてないような高い声だから、人のことは言えない。
「あなた……誰? ここは?」
 それはこっちが聞きたい。上半身だけを起こした彼女(とりあえず、こう呼ぶ)に、中腰の姿勢で僕は語りかける。
「わからない。だから非常事態だ。君は、自分の名前が言える? 髪型は?」
「髪?」
 彼女は自分の頭を探る。数分前の僕と同じように、驚愕した表情で頭皮を探る。
「あ、あ……なに、私……思い出した」
「君は記憶があるのか? 僕は記憶喪失みたいなんだ」
「違う、あなたに会う前に、私、一度目が覚めたの、それからまた意識を失って……」
 なんだ、どうやら同じ境遇らしい。
「壁に変な文章があって、足の裏に、入れ墨がしてあって。Wって女性のことよね。数字は年齢? だから私は二十二才で女性なんだけど……あなたも書いてあるの?」
 そう言えば、気付かなかった。二人とも入れ墨があったのだから、当然、僕にだってあるはずだ。足の裏をみようと片足を上げる。
「ダメ!」
 突然、彼女が抱きついてくる。いや、抱きつくことで、彼女は僕の視界をふさいだのだ。
「エ、エ?」
 中腰の不安定な姿勢でいたせいで、僕らは抱き合って後ろに倒れ込む。慌てて彼女は離れ、座り直した。視線を左右にそらせる。
「あの、ごめんなさい。見ないほうがいい。警告文、読んだ? あなたは男の人みたいだけど、もし足の裏にWって書いてあったら……騙されるかもしれない」
 少し混乱したが、なんとか理解できた。あの警告文では、殺人鬼は二重人格者となっている。自分では男のつもりなのに、足の裏に女性を示すWの文字があれば、それは二重人格者の可能性が高い。けど、入れ墨と警告文を記し、僕らに悪意ある計画を仕掛けている人物は、わざと嘘の性別を刻んでいるかもしれないのだ。コルセットを外せない以上、入れ墨の性別が本当の性別か確かめるすべはない。
「あれは……」
 足の裏は確かめないことにして、僕は早速、物言わぬW-23を指さした。つられて彼女は視線を移動し、小さく叫び声をあげて口を押さえる。
「死……死んでるの?」
 僕は黙ってうなずく。
 彼女は僕と死体との間で視線を往復させる。僕は、彼女から奪っていた腰のナイフを抜いた。
「フェアじゃないから、返すよ」
 彼女の足下にナイフを滑らせる。こわごわと僕をうかがいながら、それでも素早くナイフを拾い、腰のホルダに納める。ホルダのボタンを閉じかけて、やめた。それが、彼女の心理状態だ。いつでも刃が飛び出しかねない。
「あな……あなたは……」
 声が涙ぐんでいる。
「私、あなたを信じてもいいの?」
「君は、あいつに見覚えない?」
 言葉が口から飛び出てから、小さく舌打ちした。どうして、話を逸らしてしまったんだろ。彼女はチラチラと死体を見やる。
「わからない……髪がないせいかな。確か、私が前に気付いたときも、他の人がいた。でも眠ってるみたいで、刺されてなんて……そうだ、壁紙の色が違う……」
 彼女は、熱でも計るように手のひらを額に押しあてながら立ち上がる。フラリとよろけた。僕と同じように、眠気やだるさを感じているのか。それとも、記憶の海に素潜りしているせいか。
「そう、ピンクじゃなかった。倒れてる人、肩を揺すったりもしたけど起きなくて、それから壁の警告文を読んで怖くなって……そう、この部屋に来た。そして……」
「そして?」
「……わからない、意識が途絶えたのかな」
「そのとき、ここに人は?」
「いたけど……やっぱり眠ってるみたいで、もちろん刺されてなんかなかった」
 交代して、今度は僕が簡単に自分が目覚めてからのことを説明した。誰もいない栗色の壁紙の部屋。ロックできなかったドア。死体の発見。
「よし、じゃあ、また意識を失う前に逃げ出さないと」
「逃げ出す?」
「当然だろう? まさか、あの警告文通り、ここでじっとしてるのか? まさか僕らはここで生まれ育ったわけじゃなし、どこかに出口があるさ」
「でも、出口が封鎖されてたら?」
 ああ、そうか。僕は言葉に詰まってしまった。ここがどこだか知らないが、黒幕は少なくとも三人の人間を監禁するために、これだけの建物を用意し、数々の小道具をそろえている。出口を封鎖し忘れるなんて手抜かりはありえない。
 ひとまず、僕らはナイフを調べることにした。まず、彼女がW-23の番号……16764108を入力し、OKボタンを押すと、小さな電子音がした。たがいに顔を見合わせ、彼女が刃の背をつまむと、銀色の刃が現れる。
「どうして、私が殺された人のナイフを……?」
「殺人鬼がすりかえたんだろ。自分の番号は自分で見れないから、他人のナイフを使ったんだ」
「でも、殺された人のナイフとすりかえても意味が」
「それより、君の番号を見せてくれる? W-23のナイフは君が持っているわけだから、僕が持ってるナイフはW-23のじゃ使えないはずだからね」
 ハイ、と小さく返事して、彼女は首だけお辞儀するように頭のてっぺんをこちらに向けた。16776960……ピッ、と小さく電子音。
「開いた……」
 一瞬、彼女を疑ったことを後悔した。そう、確かに、W-23のナイフを彼女のナイフと取り替えても、殺人鬼にはなんの意味もない。むしろ、ナイフを使える人間が増えるのだからデメリットだ。
「それ、私のナイフなんですね」
「……ああ」
 疑わないのか? 僕が、君のナイフと僕のナイフを取り替えたと思わないのか?
 手の平の中のナイフに目を落とす。ナイフを折り曲げてみた。六十度ほど折り曲げると、液晶表示されていた暗証番号が消えた。なるほど、折り曲げると自動的に表示が消えるのか。
「ロックも確認しましょう」
 彼女は立ち上がる。腰のホルダには、折り曲げたナイフが収まっている。八桁の数字を入力するのには、ある程度の時間がいるのに。愛玩犬のように無邪気で、無謀だ。立ち上がった僕はナイフを握りしめていたけど、刃を納めることのできないまま、僕が入ってきたのとは反対側のドアに向かう彼女の後を追った。
 けっきょく、彼女も僕も、ドアをロックすることはできなかった。
「じゃあ……とりあえず隣の部屋に行こうか」
 死体の転がっている部屋じゃ、今後のことを落ち着いて考えられそうにない。彼女は黙ってうなずいた。
 僕は、自分が入ってきたほうのドアに向かった。後ろから、彼女がついてくる。裸足が木目調の床にペタペタとたてるリズムを意識した。今、僕は彼女に背を向けている。もし、このリズムが突然早まったりしたら、ナイフを抜くべきかもしれない。
 部屋を移るついでに、ドアをロックできるか再び試した。しかし、僕も彼女も駄目だった。
 移動する。僕が目覚めた部屋は、そのままで誰もいない。
「じゃあ……あのドアもロックできるか、試そう」
 彼女は、うつむいている。視線が地を這っている。悩んでる、とか、恐れてる、じゃなく、眉を寄せて、なにか考え事をしているようだ。
「聞こえなかった?」
「え? あ、ドアね……あなたは、ロックできなかったんだっけ?」
「ああ、わざわざ全部の指を試したけどね」
 彼女はドアに向かう。僕は部屋の中央で待っている。あのドアの向こうは、誰もいなかったのだから、危険はないだろう。
 ふと、恐ろしい考えが浮かんだ。殺人鬼から身を守るため、二つのドアをロックしたい。だけど、一つのドアは自分の指紋でロックできても、もう一つのドアは他の誰かに頼まなくてはいけない。でも、ここではそれは命がけの行為だ。ロックすることを頼む相手が他ならぬ殺人鬼かもしれない。だから……相手が眠っている間に殺して、死体の指でロックする……考えてみれば、それがいちばん安全だ。殺人鬼から身を守るために殺人鬼になる。皮肉だ。
 小さく溜め息をつく。僕は手にしていたナイフを完全に折り畳み、腰のホルダに戻した。少し、眠気が強くなってきた気がする。
 かすかな金属音が響く。どうやら、彼女はロックできたらしい。ガチャガチャとノブを前後させて閉まっているのを確認している。
「ロックできた?」
 彼女は、答えない。ロックを解除する、金属の音。
 彼女は、ドアを開け、隣の部屋に入る。
「オイ!」
 一度に眠気が吹っ飛ぶ。走る。
「どうする気だ!」
 鼻先でドアが閉まる。即座に、ドアがロックされる音。裏切られた!
 暴力的な衝動が湧き起こる。両の拳で、ドアを殴りつける。
「……ちくしょう」
 そりゃないだろ? 考え事をしていた彼女の顔を思い出す。もう、あのとき、こうすることを決めたのか?
 僕は、そりゃあ疑ってはいた。でも、守りたかった。抵抗したかった。この大がかりで馬鹿げた茶番劇の黒幕に、立ち向かいたかった。他に僕らがただの記号じゃなくて人間になれる方法があるか?
 ドアに背中を押しつける。頭を抱える。意識がノイズだらけだ。眠気が強い。
「ごめんなさい……」
 ドアの向こうから、声。僕は、耳をドアに押しつける。
「どうして……ロックしたんだ?」
「私……今から、人差し指を切り落とします」
 なにか、とてつもなくシュールなジョークを言われた気がした。
「バカ! そんなことしたって、反対側のドアがロックできなきゃ互いにアウトだ!」
「ピンク色の壁紙の部屋は、きっとあのナイフを刺された人の指でどちらかのドアをロックできると思うんです。確かめたかったけど……私の意識がいつまでもつかわからなくて」
 鼻をすする音がする。泣いているのか。
「君はどうするんだ! まだ、向こう側に部屋があるんだろう?」
「私……もしかしたら、私が……殺人鬼かもしれない」
「なにを……」
 ひどく頭がぼんやりする。集中して考えることができない。ビルの屋上から飛び降りようとする自殺志願者のように、気を許せば二度と戻ってこれそうにない。
「さよなら……早く、ピンクの部屋のドアをロックして」
 彼女は、ドアから離れたようだ。二、三度短く声をかけたが、もう答えは返ってこなかった。
 僕も、ドアから離れる。フラリとよろけ、そのまま床に倒れそうになるのを、必死に体勢を立て直す。
 ゆっくりと、歩く。意識がとぎれそうだ。気が付くと、まぶたを閉じて歩いていたりする。足が地に着いている気がしない。切れ切れの想念が、泡のように浮かんでは消える。
「ちくしょう……ちくしょう……」
 僕の怒りを表す、もっと汚い言葉はないか?
 自分がどこにいるのかもわからなくなって、崩れるように倒れ込む。仰向けになって、ぼんやりと天井の白い照明をみつめる。
 ああ、悪夢をみていたのか? 今までのは、夢?
 身体が暖かくなってきて……そして、完全に、意識がとぎれた。