ドゥー、ダー、ダー。頭の中でリズムをとって。
 ドゥー、ダー、ダー。どこまでも滑り落ちてく。
 ……永い悪夢は目覚めたとたんデリートされた。あたしはそっと、まぶたを開ける。
 ぼんやり柔らかな白色光源で視界が覆われてる。霧の中? そう、確かに、ちょっと寒い。ううん、違う……仰向けに寝てるんだ、あたしは。
 上半身を起こす。途端に、刺すような頭痛。
「ウ……」
 目を閉じて、手のひらを顔に押しあてる。指先が、頭皮に触れた。男性のひげ剃り跡に触った感触。
 驚愕と、解析できない現実が、そこにあった。あたしは慌てて自分の頭を探る。こそばゆいような感覚が、両手のひらいっぱいにザラザラと満たされる。
 髪がない。丸坊主だ。
「え?……え?」
 自分の姿を見下ろす。ブルーとホワイトの太い縦縞ストライプ。囚人服みたいなつなぎ。頭皮を確認した両手で、今度は自分の身体を確かめる。胸が苦しい。なにか、丈夫なもので締め付けられている。
 テリー・ギリアムが監督の映画を思い出した。誰だっけ……ダイ・ハードって映画のヒーロー役。
 首を締め付けるような襟から無理に指を突っ込む。同時にもう片方の手のひらで脇や股間をまさぐる。胴体が、革のコルセットのようなもので覆われているのがわかった。脇に鍵穴らしきものがある。
 あたしは顔を上げ、周囲を見渡す。二、三十人は入れそうなポッカリした空間。木目調の床は、塗ったばかりのように光るワックスでピカピカだ。チリひとつない。
 立ち上がる。よろけそうになる身体を立て直す。
 落ち着いて、ゆっくりと身体を回転させる。栗色の壁紙が、遠くなったり近くなったり……めまいを感じる。
「楕円……形?」
 そうだ、楕円だ。楕円形の部屋だ。
 直角の角がひとつもない。なにより、床の形を見ればわかる。この部屋は、楕円の形をしてるんだ。飯ごうを連想した。円柱ならぬ、楕円柱。楕円柱の底の真ん中にたたずむ、小さなあたし。
 天井を見上げる。プラスチックのカバーに覆われた、平らな水滴のような形をした照明が三つ直線上に並んでいる。ひとつは、ちょうど頭の上だ。三つの照明の間にひとつずつなにか、映画館の窓口の仕切りガラスにあるような、小さな穴が円形に並んでいるのがある。シャワーヘッドを連想した。空調のための穴かな。
「痛……」
 再び、頭痛。思わず顔をうつむけ、頭を抑える。また、身体が崩れそうになる。ひどく、眠い。
「ここは……」
 思い出せない。
「……あたし」
 あたしは、誰だ。
 うつむいて、足下をみつめる。裸足だ。腰には細長いベルトと革製のケース。ケースからは、角の丸い、黒い握りらしきものが突き出てる。一瞬、電卓かと思った。握りの側面には、日本製としか思えない細密な数字キーが三かける四列並んでる。いちばん右端にゼロと、クリアを意味するCのキー、そしてOKキー。プラスやルートがないから、やっぱり電卓じゃない。小指の爪先程の幅程の、液晶表示部分もあるけど。
 鍔を固定する革紐のボタンを外し、握りをつかんで引き出す。予想外に長い。二十センチくらい? 全体を見て、初めてそれがなにかわかった。折り畳みナイフだ。
「なによこれ……」
 刃の背の部分だけが、溝になった握りから顔をだしている。指先でつまんでみたが、ひっぱっても動かない。数字キーの意味がわかった。暗証番号を打たないと、刃がだせない。
「なにがどうしたってのよ!」
 ナイフを力強く握りしめ、頭痛も眠気も忘れてあたしは叫んだ。こわい。とほうもなくこわい。気が狂いそうで、それでいて取り乱すことのできない理性的な自分がこわい。
 返ってくる言葉はなかった。巨人の寝息のような空調の唸りだけが、楕円形の空間に響く。
 物騒な代物をもとのナイフホルダに納めて、あたしは、もう一度部屋の中を見渡す。さっきよりは、少し頭がマシになってきた。今度は、注意深い。
 窓はなかった。出入り口らしきものは二つある。楕円形のすぼまりの方に、二つのドアが向かい合わせにある。たとえるなら、飯ごうに横から噛み付いたとき、上の前歯と下の前歯が突き刺さる位置だ。よっぽど鋭い牙が生えていれば、だけど。
 楕円形の一番奥の壁紙に、デジタル表示の数字が表示されていて(時計?)、その下になにか文字が書かれている。落書きじゃない、行間が整い活字を使った印刷された文章だ。あたしは、ゆっくりとそっちへ歩いた。急ぐと頭痛が響くからだ。
 記憶を探る。でも、なにも浮かばない。名前も住所も身分も国籍も……五里霧中だ。わかってるのは自分が女で、目も耳も口もまともって事だけ。もしかしたら、ここは精神病院なのかもしれない。だったら囚人みたいな服とか、丸坊主なのもわかる気がする。だけど、病院だったらナイフは持たせない。
 デジタル表示は、やっぱり時計みたいだ。細長い液晶画面が、壁に埋め込まれている。「1999.08.01 AM01:07」になっていて、壁面に近づくにつれて、分が「08」になった。
 やっと文字が読めるところまで近づき、威圧するような活字の固まりを見上げる。

 五回読み直した。でも、あたしが誰で、どういう状況なのか理解するヒントは読みとれない。
「狂ってる……」
 せいぜい思いつく解釈は、これはゲームということだ。道楽に飽きた金持ちの、命をおもちゃにしたゲーム。サバイバル・ゲーム。とにかく、なにか巨大なたくらみの中にいる、それだけは感じる。
 一方のドアに向かう。なにが起きてるのか、あたしが誰なのかはわからない。だけど、殺されたくないのは確かだ。あの警告文がどこまで本当のことを言ってるのか、できるだけ確認しないといけない。
 ドアは壁紙と同じ色をしている。カーブを描く壁面に対してドアは引っ込み平らだ。ドアだけが壁面から不連続になってる。いぶし銀のドアノブが、ドアの栗色に似合わない。ドアノブの上に、プラスチック製の赤い矢印が上向きに貼り付いてる。矢印の先には、指を差し込むためらしい小さな穴。こんなシンプルで、本当に指紋判別機なんてごたいそうなものがあるの?
 右手の人差し指を差し込む。カシャン、と金属質な音がした。ドアノブをつかみ、前後に揺すってみるけど、ガチガチとほんの少ししか動かない。ちゃんとロックされてる。
 もう一度指を差し込んで、ドアノブをひねり、押してみる。なんの抵抗もなく、ドアが開く。ロックされてない。
 細く開けて覗く。白い壁紙の部屋だ。同じくらいの大きさの、楕円形の部屋。ドアに対して楕円形の部屋が鏡に映るように対称形に並んでいるのを思い浮かべる。天井の照明は同じでも、壁紙が真っ白だと明るい感じだ。
 栗色の壁紙の部屋と同じ位置に、あの警告文があった。同じ文章だけど、最後の文章の、部屋の名前だけ違ってて、Wになってる。アルファベットは全部で二十六個だから……こんな大きな部屋が、二十三個もあるのかな。
 時計の表示は、あたしが目覚めた部屋と同じみたい。
 警告文があるってことは……細く開けていたドアから一歩Wの部屋に踏み込んで、ドアの反対側を覗く。やっぱり、いた。
 仰向けに、目を閉じて倒れてる人間。青と白の、太い縦縞の囚人服。丸坊主。腰には、ナイフ。ただひとつ、自分では気付けなかった特徴があった。頭頂部に、ゴチックで八桁の数字が刻まれている。16777215……おそらく、入れ墨だろう。まるで、商品管理番号みたい。所定の用紙に記入すれば、地域発送してくれるのかな。
 警告文を思い出す。ひどいブラック・ジョークだ。八桁ということは、きっとあの数字がナイフを使うための暗証番号だろう。防御に使えだなんて、自分の頭のてっぺんの数字なんか見えるわけないじゃない。
 もう、これで間違いない。あの人は、あたしと同じ、ゲームの駒なんだ。
 そして、もしかしたら、殺人鬼。
 あたしは、迷う。起こしたい。あの人を起こして、なにか覚えてないか訊きたい。もし、なにも覚えてなくったって構わない。せめて同じ境遇の人と助け合ってどうすればいいか考えられたら、不条理な悪夢の森をさまよう気持ちから救われるかも。
 あたしは、Wの部屋に入った。後ろ手にドアを閉める。
 あの人の目が覚める前に、ナイフを奪ってしまったらどうだろう。いや、ダメ。そんなことしたって、あたしは女だから、もしあそこで仰向けになってるのが男だったら簡単に組み伏せられてしまうかもしれない。それに、眠ってるようで、本当は眠ってるふりしてるだけかもしれない。うっかり近づいたら危険だ。せめて、あの人の性別だけでもわかればいいのに。
 倒れてる人を気にしながら、ドアを調べる。こちらの部屋からは、ドアの色は白だ。同じようなドアノブ、矢印、そして穴。右手の人差し指を差し込む。
 カシャン、と金属質の音。ドアノブをつかみ、ひねり、前後に揺すっても、ドアは開かなかった。もう一度、指を差し込んで、ロックを外す。ドアの向きに関係なく、どちらからでもロックをかけたり外したりできるんだ。あの警告文の通りなら、あの倒れている人はこのドアのロックを操作できないし、あたしもさっきまで自分がいたAの部屋の反対側のドアはロックできないことになる。
 ゆっくり、倒れてる人に近づく。もし倒れてる人が気付いて起きあがったら、すぐにAの部屋に駆け戻って、ドアをロックすればいい。性別だけ、確認しよう。ここからでは顔が逆さまで、よくわからない。あたしは旋回する飛行機のように、大回りして倒れてる人の足のほうから近づく。
 二、三メートル先まで近づいた。そこまで来て、やっと気付く。右の足の裏に、なにか書かれている。
 なんだか読みにくい活字で、アルファベットのMと、24というアラビア数字がハイフンでつながれている。頭頂部の数字と同じく入れ墨なのか、色素が肌にしみこんでいるようだ。
 あたしは、立ち止まる。アルファベットが性別で、数字は年齢を意味するのかもしれない。だったら、Mは、男だ。
 音を立てないようにして駆け戻る。ドアを開けてAの部屋に入り、人差し指を穴に差し込みロックする。
 カシャリという金属音に、緊張が解けた。同時に頭痛と、めまいが襲う。ドアに背を預け、まぶたを閉じてあたしは深くため息をついた……どうにかなってしまいそう。
 天井の照明を見上げる。あたしは、なにを信じればいい?
 下唇をきつく噛む。負けちゃダメだ、まだ、やらなきゃいけないことがある。
 反対側のドアに向かう。ドアノブも、指紋判別機の穴も同じ位置だ。
 ノブを回して、押す。ドアは軽く開いた。いったんドアを閉めて、あたしは人差し指を指紋判別機の穴に差し込む。だけど、ロックされる音は聞こえなかった。
「本当だったんだ……」
 さあ、面倒なことになった。お隣の部屋の方にご協力? また、同じようにゲームの駒が倒れてるの?
 考えたってしかたない。あたしはドアを細く開け、覗く。
 すぐに倒れている人間に気付く。今度は、うつぶせに横たわっている。つなぎの服も、丸坊主なのも同じだ。今度は頭が向こう側だから、ナイフの暗証番号もわからない。それに、うつぶせで身体の下になっているので、ナイフを持っているかはわからない。
 困った。ドアがロックできないなら、せめてナイフを奪いとりたいけど、これじゃ相手の身体を仰向けにしなきゃ駄目みたい。
 ドアを大きく開けて、部屋に入り込む。やっぱり、楕円形だ。あたしは、警告文のあるべき方向を見た。
 今度も、同じ警告文。何度読んでも腹が立ってくる。ただ、部屋の名前が今度はSになってる。あたしのいたAの部屋と、このSの部屋もドアを挟んで対称形だ。頭の中で、コスモスの花を思い浮かべる。楕円形の部屋が、花びらのように放射状に並んでいて、その楕円形同士の接点がドアになってるのかな。花びらが全部そろっていて、グルリと一周できるようになってるのかは確かめないとわからないけど。それにしても……S、A、W、どういう規則でつけた名前なんだろ?
 そっと歩み寄る。右足の裏を見ると、やっぱり入れ墨がされていた。今度は数字の22とW。二十二才の女性。あたしより年上だろうか? 自分が何才か思い出せないなんて、変な感じ。ああ、そっか、あたしの年齢も足の裏に書いてあるはずだ。
 あたしは自分の足の裏を覗こうとした。覗こうとして、恐ろしいことに気付いた。もしも、足の裏にMと書かれていたら? あたしはなんの疑問もなく自分は女だと思ってる。でも、男性であることを示す記号がそこにあったら?
 殺人鬼は二重人格者……二つの人格の性別が、同じとは限らない。自分では女だと思っているのに、本当の性別が男だったら、それって二重人格者の証明になるんじゃ?
 フッと意識が遠のく。少し、眠気が強くなってきたようだ。ほっぺたを、両手で叩く。
 考えなきゃ。考えなきゃ。そう、足の裏の性別と年齢が本当だなんて限らない。このゲームの主催者の罠かもしれない。自分こそが殺人鬼なんじゃないかって疑心暗鬼にさせて、ナイフで自殺させたいのかもしれない。
 あたしは少しずつ後ずさりする。もう、自分の足の裏を見るなんてできない。でも、次の瞬間、強烈な眠気によろめく身体が後ろに倒れた。ほとんど受け身をとることができなくて、頭を強く打ったのに、痛みをどこか遠く感じて身体が暖かだった。
 ダメ、眠ってはいけない。せめて、Aの部屋に戻らないと……。だけど身体が動かせない。いつの間にか、まぶたを閉じてしまっている。コルセットで締め付けられた胸が苦しい。
 ああ、そうか、コルセットは、そのためだったんだ。自分にも、他人にも、本当の性別がどっちなのかわからないようにするための……魂の貞操帯。
 必死にまぶたをこじ開ける。白い天井が網膜に焼き付く。これが、あたしの人生で最後に見る光景なんだろうか?
 どうしようもなくまぶたが重くなって……あたしは暗闇に吸い込まれるように意識を失った。