事の起こりは、十月も半ばを過ぎたミステリ研の例会での些細な会話だった。N大学の共通教育棟には、ドナルド・マックの愛称で親しまれる全国的に支店を広げたファースト・フード・チェーン店"Days New Land"がある。大学サークルとしては、やはり一、二年生が活動の中心となるべきわけで、N大学ミステリ研究会の例会はそこで行われるのが常だった。
 十月半ばといえば、試験が終了するかしないかという微妙な時期だ。一、二年生の会員は一人もいなくて、四人くらい周囲に座れる丸テーブルをふたつつなげて、なんだか見慣れた顔のメンバーがその周りに集まっている。
「ほら、クリスティの『そして誰もいなくなった』て小説あるじゃないですか」
 江田晴海が大きく口を開けてフライドポテトを放り込む。女性のような名前だけど、経済学部三年生の男性だ。片方の手のひらをヒラヒラ振りながら、もぐもぐ口の中のポテトを処理してる。あいにく、僕はそれどころじゃなかった。江田のリスみたいなドングリまなこをチラッとだけ見てから、すぐに手札に集中する。
「あれって、それぞれの登場人物の心情描写をしてるじゃないですか、だからボク、犯人は島のどっかに隠れてるんだと思ってたんですよ。だって犯人なら企んでる殺人のことを考えるでしょ? ああいうのも叙述トリックなんですかぁ?」
「ウノ!」
 黛春香がカードを丁寧に置き、チラリと僕の手札に視線を走らせる。
「違うと思いますよ。あれは、登場する人のことを読者に覚えてもらうためですよね。犯人だからって、いつも殺人の計画のことばかり思い詰めてるってことはないと思います。それに、そんな昔から叙述トリックなんてあったんですか?」
 隣に座っていた僕は、厭世的な気分で山札から一枚とる。とったカードの表を見て、うなった。減らない。黛が口元に手のひらをあてて、こっそり笑う。N大学に近いT大学から黛はわざわざ通ってきている。世話好きというか、活動的というか、例会の曜日が金曜になったのも、黛のバイトがない日だからというくらいミステリ研への貢献度が高い。
「黛さん、クリスティなら有名な叙述トリックの作品がありますよ」
 僕の口調は、ちょっと尖っていただろう。
「第一、エドガー・アラン・ポーの短編にだって、語り手がわざと読者にある事実を伏せたままストーリーを進める、という作品があるしね。叙述トリックは、別に二十世紀末にいきなり発明されたわけじゃない」
 本格推理小説をあまりご存じじゃない読者に、解説しよう。
 まず、ミステリ研究会といっても、ネッシーだのクッシーだの雪男だのフランケンシュタインだの吸血鬼だのマリモだの、いわゆる超常現象を研究する団体じゃない。推理小説の愛好家の集まりだ。まあ、大学サークルのご多分に漏れず、実質のところ最近の例会はフライドポテトをつまみながら雑談とカード・ゲームに興じる時間と化しているようだ。会員ではない人達には、室内ゲームを楽しむサークルだと思われてるかもしれない。
 アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』は、推理小説ファンの間では有名な長編小説だ。孤島に集められた十人の男女が、不気味なマザー・グースの見立てにそって一人、また一人と殺される。近年の日本での本格推理小説でも、この小説を意識した『孤島の連続殺人』をモチーフとした作品は多いし、かつ名作が多い。アガサ・クリスティの作品で有名となったトリックは、後世の作家によってアレンジを加えられる例があるので、現代の読者には原点であるクリスティを読んで物足りない感じを受けることがある。けれど『そして誰もいなくなった』はサスペンスに溢れたストーリーと壮絶なラスト、物語全体の完成度の高さから、充分に鑑賞に堪えられる不朽の名作だと思う。
 叙述トリックとは、物語の語り手が意図的に勘違いさせるような記述をすることで、読者の小説世界に対する認識を誤らせるトリックだ。といっても、語り手は嘘をつくわけじゃない。例えば「手首のブレスレットをなでながら、カオルは溜め息をついた」なんて文章があると、読者はつい「カオルは女性なんだな」と想像してしまう。でも、実はカオルは男性で、だから体力が必要な犯行も行えたのだ、なんて謎解きになる。カオルが女性であることを直接に示す記述はなかった、というのが叙述トリックだ。黛の「叙述トリックは昔からあったの?」という疑問は、近年の国内本格推理小説で叙述トリックが作品によく使われていたこと、また、その使われ方にバラエティが広がったことから浮かんだのだろう。こればっかりは、読者の皆様に精進してもらわないと理解できない。
「タックン、カードださなくていいの?」
 笈川窓が、楽しそうに二枚しかない手札をヒラヒラさせる。寝癖混じりの短い髪に皺だらけの黒い開襟シャツ、ジーンズは膝に穴が開いて、首に銀色の鎖をかけている。鎖の先にあるのは誕生石らしい。きっと喧嘩のときにあの鎖で相手の首を絞めるか、振り回して石をぶつけるのだろう。マドは、つまりそういう奴だ。
「ださないんじゃなくて、だせない」
 僕は……おっと、そういえば、自己紹介がまだだった。N大学工学部四年生で、名前は小田卓央、文学部のマドとは幼馴染みで、どういう腐れ縁か地元とでもないのに同じN大学に入学してしまった。タックン、というのはマドが僕を呼ぶときのあだ名で、逆に僕はマドのことを影でマッドと呼んでいる。別名、マッド・ミステリマニア・マド。まあ、マドのことは、おいおいわかってくるだろう。
「ウノ! リバースだから、逆順ね」
 僕は手札を見て、確信した。これは誰かの陰謀だ。黙ってカードをとる。減らない。
「叙述トリックどうこうより、登場人物が多すぎるわよね」
 マドは山札越しに手を伸ばし、ポテトに手を伸ばした。江田は鉄拳を恐れているのか、それとも自分が買ったポテトなのを忘れているのか、間延びした口調で「そうですかぁ?」と答える。
「まあ、犯人役と、探偵役と、被害者役はどうしても必要だから、三人いればいいんじゃない? 三人しかいない孤島で連続殺人」
 マドは指を折り曲げる。黛は最後の一枚を出せなくて、山札からカードをとりながら江田に代わって答えた。
「それは無理です。一人殺されたら残りは二人だけになっちゃいます。小説って心情描写なしにパーフェクトな三人称で書かれても読みにくいし……あ、ウノ。またリバースです」
 山札からとったばかりのカードを黛は出した。僕は手札を見て、笑顔で一枚取り出す。
「ありがとう」
 やれやれ、やっと一枚減らせた。
「ありがとう……あがり、と」
 マドが最後の一枚をだす。撃沈。
「パーフェクトな三人称ねぇ……じゃ、いっそ全部、一人称で書きましょっか」
「笈川さん、ますます無理です。二人残った時点で、語り手じゃないほうが犯人です」
「犯人が二重人格者ってのはどう? 自分が別の人格のとき殺人をしているから、たとえ最後の一人になっても自分が犯人なのかわからないの。二番目の被害者が一番目の被害者を殺害して自殺したのかもしれないから」
 手札をテーブルの上に全部ぶちまけ、僕は大きく両手を広げて手札の上に額を打ち付けた。やっとの思いで迎えた後期試験明けの休日を、なんだってカードゲームでつぶさにゃならんのだ、という人生に前向きに生きようとするポジティブな気持ちが湧き上がる。
 テーブルの反対側から、皆の手札の枚数を数えるミステリ研究会会長……いや、元会長の声。数えなくたって、もうドン尻が誰かは明白だったが。
 元会長は数学科の院生で、今もミステリ研のメーリングリストの管理者という役割をしている。メーリングリストというのは、電子メールをある特定のメンバーの間で交換する仕組みのことだ。ミステリ研の連絡や、読んだ本の感想などを電子メールでやりとりしている。
「さて、じゃあ罰ゲームは、と」
 ナヌ? マドの声に、僕は顔をあげた。
「ちょっと待てマド、僕は罰ゲームだなんて聞いて……」
「やっぱりタックンは小説を書いてなんぼよね。犯人当て小説でもスラスラッと書いてもらおっかな」
 僕は立ち上がって、待ったの形に手の平をつきだす。江田が手を合わせて、ナモアミダブツとつぶやいた。
「去年の夏の事件なら小説にしたじゃないか、他に今すぐ記述して世間に公開可能なものなんてないぞ」
 笈川窓は、どういうわけか名探偵だ。見かけの粗暴さそのままに中身も粗暴で人間性のかけらもない悪魔の落とし子だけど、悪魔だけに知恵が回るのか今までに数々の難事件の隠れた真相を見破り、そして必要以上に事件を引っかき回して不幸な被害者を生み出してきた。マドという存在に三メートル以上近づくことを何度も繰り返しながら、奇跡的に生き延びている僕は、神様に感謝しなければいけない。
 だけど、どうも神様はブラックユーモアがお好きらしく、そういった事件のあった後で僕はマドの活躍を小説化するのが習慣になってしまった。小説を書くことは趣味だったから苦痛ではないけど、なにぶんマドの活躍は非合法な面も多いので、小説のストーリーとしての再構成に苦労する。しかも、どうやら苦労した僕の小説を、マドは読んでいないらしい。読んでいたら……ここまでの僕のマドに対する記述を読んでくれただけでも、どうなるか読者の皆様はわかってくれるだろう。
「大丈夫! アイデアなら、今、思いついたわ。私がメモを作るから、あんたはそれに従って小説らしく書くだけ」
「書くだけって……」
「まあ、罰ゲームだし、今回は私のアイデアなんだから、名義は私が書いたことにしといて。ペンネームもなんかいいのを考えといてね。楽しみだわ」
 テーブルにひじをついて、組んだ手の甲に顔をのせ、にこやかにマドは笑っている。僕は座って頭の中でスケジュール帳をめくった。試験明け休暇の予定が、ごっそりと後ろのほうに移動していく。
「長さは?」
 今まで黙っていた下崎雅也が、くわえていた煙草を指先に移してポツリとつぶやく。黛と同じT大学で、どうやら二人は付き合っているらしい。今日も隣同士で座っている。ひょろ長い手足に背が高く、いつもはオールバックの髪が少し額にたれている。
 僕は唇に指をあて、シーッと注意した。まったく、なんだってよけいなことを。
「下崎君、ナイス! そうね、思い切ってドーンと百枚くらい書いてもらいましょうか。もちろん、四百字詰め原稿用紙換算枚数でね。逃げ場のない孤島での連続殺人、犯人は誰か? 笈川窓から読者に挑戦よ!」
 そこまで言うなら自分で書けよ……。
「じゃ、来週の例会までに。頑張ってね」
「それはなに、被害者は作者だったって落ち?」
 結論から言うと、落ちではなく、本当に被害者は僕だった。
 一週間後、昼下がりのドナルド・マックで、僕は原稿を入れた茶封筒を持ったまま、テーブルの上に突っ伏していた。
「あ、死んでますねぇ」
「これが問題ですか?」
「なんとなく、犯人わかった気がするぞ」
「誰のことを言ってるつもり?」
「……勝手に殺さないでほしい」
 顔をあげてテーブルの周りを見渡す。江田晴海、黛春香、元会長、下崎雅也、そして笈川窓。なんだ、先週と同じメンバーだ……ということだけ確認した途端、まぶたが急に重たくなった。
「後はよろしく……」
「なに甘えてんのよ!」
 背後から誰かがのしかかってきたかと思うと、首が締め付けられた。この金属の感触は、鎖だ。やっぱりね。
「笈川さん、殺さない程度にね」
 そう言って、元会長は地元の名物『大餡巻き』にかぶりついた。誰が持ち込んだんだ。黛は紙コップ入りドナルド・コーヒーを配っている。
 スケバン少女よろしく鎖をチャリチャリ振り回しながら、マドが席に着く。もう片方の手には、僕から奪い取った原稿の茶封筒を持っている。
「まあ、なんとか書き上げたんだから良しとするわ。問題編の読み上げが終わったら起こすからね。ホントにもう、メモ通り書くだけなのに遅筆なんだから」
 血筆? 確かに。三日ばかり眠っていないので眼が血走ってることだろう。
 ここで読者に明らかにしておくと、僕もまだマドの犯人当て小説の解答を知らない。頭を働かせる余裕なんてなかったし、マドのいうところのメモとやらに従って書くと、章ごとのつながりが全く混乱してしまう摩訶不思議な内容だった。おまけに、小説家らしく細部をいろいろ書き足すと、マドには削除を命じられた。で、書き直すついでに「あ、いいこと思いついた!」とストーリー修正。書き直して持っていくと「あ、ゴメン、よく考えたらあれじゃ矛盾しちゃうわ」と再修正……無間地獄もかくやあらん。
「笈川さんのペンネームはどうなったんですかぁ?」と江田。
 僕はもう、眼を閉じていたので声しか聞こえなかった。
「それがあきれちゃう。『おいかわ』の『わ』を抜いて『おいかまど』。なんか虫みたいな名前だと思わない?」
 ビリビリと紙を破く音は、封筒を開けているのか。カチ、カチとライターで煙草に火をつけるのは下崎だろう。
「わあ、分厚いですね……解答編も合わせての厚さですか?」
 黛がガタガタと席に着く音。眠気が強いせいか、妙に音が遠くに聞こえる。
「ううん、解答編は私が書いたわ。分厚いのは五部くらいコピーしたから……それじゃ、始めるわね」