いつの間にか、天井に蛍光灯がともっている。窓の外は夕暮れだ。きっと、今日も風が冷たいことだろう。
「そろそろ」僕から切り出した。
「僕も考えを述べようと思う……マドのメモを見ているから、やっぱり僕が口を出すのはフェアじゃないと思ってたんだ。でも、もう充分に検討してきたことだし、僕もマドのメモじゃなくて犯人当て小説から推理したことだけを言うようにするよ」
「その前に、小田さん」
待ったをかけたのは、雪村だった。
「私なりに、先程の小田さんの持論について考えていたのですが……」
持論? さっきのヨタ話が? キョトンとしてしまったが、僕に構わず雪村は続ける。
「犯人当て小説について、前提から矛盾が導かれた場合は、叙述トリックが使用されている。その場合は、読者が問題編を検討の上、仮説を立て、いわばその『仮前提』から矛盾なく問題編中の現象を説明できるならば、仮前提は真であり、導出した結論はたとえ解答編と異なっていても一つの別解である、と小田さんはおっしゃっいました」
「イエス、イエス、イエス」
雪村が相手だと、どうしても軽い返答をしたくなってしまう。
「確かに、叙述トリックは書き手と読み手の間の暗黙の前提を破ります」
舌をだして、雪村は乾いた唇をなめる。
「しかし、すべての前提が成り立たなくなるわけではありません……真実はたった一つという前提もまた、書き手と読み手の間の暗黙の前提であり、それこそが、書き手と読み手が同じ世界で意志疎通を交わすことが可能であることを示す、最後の砦ではないでしょうか……私は、仮前提から複数の解が導けるなら、それはやはり正しい解ではないと思うのです」
「神様の独り言じゃない、たった一つの真実があると?」
「ええ、私達が推理という能力によって理性的に受け入れることのできる、たったひとつの世界。それを求めることが……コミュニケーションというものでしょう」
僕は黙ってうなずいた。肯定したわけでも、否定したわけでもない。ただ、そのような捉え方もあるだろうとは思う。現実はただ自らの意識体験を肯定するだけでそこに存在するが、真実と幻想はそれだけでは得られない。現実を暗黙の前提として推理された世界が真実であり、現実にとらわれずに推理された世界が幻想である、とも言えるかもしれない。
逆に、真実を求めるために同じ世界を推理することができたとき、初めて人々は同じ現実を共有していたことを証明できる。推理された真実が登場人物のすべてに理性的に受け入れられなければならないなら、名探偵は孤独ではないのだろう。
数秒、考えにふけってしまった。気が付くと、皆の視線が集まっている。
「エヘン」漫画みたいに、わざとらしくせきこむ。
「じゃあ、僕の推理を説明する前に、ひとつ予言をしよう。マド……キミの足の裏には、W-22と書いてあるだろう?」
場がざわつく。そして、皆の視線がマドに集中した。
「あらあら」
マドはとぼけたような表情で、椅子を少し後ろにずらし、新体操でもするように右足を高く掲げた。靴を脱いでいたのか、水色の長靴下の足を乱暴にテーブルの上にのせると、ジャジャジャ、ジャーンと一人で効果音をつけながらクルクル靴下をまきとって、すっぽり脱ぎとった。
さすがに、入れ墨を刻むことはできなかったようだ。太い黒のマジックで、そこにはW-22と書かれていた。
「タックン、やるじゃない。あ、そうか、解答編は私が書いたって言っちゃったのがまずかった?」
「君が原稿用紙に向かってウンウンうなりながら文章綴ってる姿なんか、誰が想像すると思う?」
ガハハハハ、と大口あけて呵々大笑のマド。他の皆は狐につままれた顔をしている。僕は手近の原稿を手にとり、ページをめくった。
「じゃ、始めよう」
両手の平をテーブルの上に置き、頭の中で、僕はキーを回転させる。唸りをあげ、エンジンが始動する。
「まず、パズルの材料として、なにを選択すべきか? まず、冒頭の筆者からの約束は、いわば犯人当て小説として暗黙の前提となるようなことばかりだから、認めておこう。特に、四で述べてる『登場人物で殺人者のみ二重人格者であった』というのはちょっと重要だね。それから、客観的事実については眉に唾しておこう。なぜって、最初ここのせいで登場人物は三人のような錯覚を植え付けられたんだから、どうも叙述トリックはここら辺にあるってのが予想できる。そして、それぞれの魂による記述。これをいちいち疑っていたら、そもそも推理なんてできっこないから、とりあえずこれは文章からありのままを受け取ることにしよう」
右手の人差し指を一本立て、左手で軽くテーブルをたたく。
「さて、これまでの僕らの議論で、なにが確実だろうか? 部屋が四つ、人数が四人なのは、三人では矛盾が生じることや、記述から考えられる部屋同士のつながりからみて、確実と言っていいだろう。一番目の魂『あたし』と三番目の魂『私』が同じ身体を持つことも、ドアのロックから明らかなようだ。足の裏の記号としては、W-22が二人いることになるね。このことと、それぞれの魂の記述から、さらになにが言えるだろうか?」
僕はシャープペンをとり、図21を手早く書き、皆に示す。
「それぞれのドアをロックできる人は、こうなるね。星マークは、『あたし』や『私』のほうのW-22という意味だよ。春と冬の間のドアがロックできるのは、M-24だというのはいいね? 問題はW-23と、『あたし』や『私』じゃないほうのW-22がオープンできるドアは春夏間のドアか、夏秋間のドアなのか、どっちなのかということなんだけど、三番目の魂『私』の記述では、夏秋間のドアはロックされていたね? だけど四番目の魂『俺』のときは、ロックが解除されていた。W-23は二番目の魂『僕』のときに既に死んでるんだから、このドアロックを解除できたのは、そのとき生き残っていたほう……つまり、W-22ということになるわけだ」
「そうか?」下崎が疑問符を投げかける。
「死んだ奴の指では指紋判別機が使えない、なんてことは書かれてないだろ? 死んだW-23の指を切り取るとか、担いでくとかして、指を突っ込んでやればロック解除できたんじゃないか?」
「もちろん、可能性としてはある」
僕は投降するテロリストのように、両手をだらりと挙げる。
「だけど、四番目の魂『俺』があれだけ観察してて指がなくなってるのに気付かないとは思えないし、血の跡がずれてなかったってことは、死体は動かされていないと考えていいんじゃないかな? とりあえず、進める道は進まないとね……さて、これらのことをもとに、それぞれの登場人物にはどの記号が当てはまりうるか?」
僕は手近な原稿に升目を書き、上から代名詞を記入していった。
「まず、『あたし』と『私』はW-22※で決定済み。『彼女』はというと、図11の場合なら夏と秋の間のドアをロックできたから、W-22だね。逆に、図12なら秋冬間のドアをロックできたことになるから、W-22※、つまり『あたし』や『私』だったことになる。どちらにしろ、『彼女』の記号はW-22だったわけだ。次に、『僕』なんだけど、まず図11の場合は冬春間のドアをロックできなかったから、M-24じゃない。もちろん、既に死体になってるW-23のわけはないから、W-22かW-22※なわけだ。で、図12の場合もやっぱり冬春間のドアをロックできなかったから、同じ理由でW-22かW-22※になる。つまり、『彼女』と『僕』は一方がW-22で、もう一方はW-22※ということだ」
「あの、小田君」元会長が遠慮がちに口を挟む。
「論をどういうふうに持っていきたいのか、方向性が見えないんだけど……」
「そりゃそうです。まだ、論なんて立ててないんですから」
僕は左手を腰にあて、右手でピストルの形を作り、元会長を撃つ真似しながらウィンクする。
「まだまだ、これは準備段階ですよ。まずは問題を把握するんです。なにが確実に言えるか? なにが謎なのか? テキストのどの部分を信用し、どの部分を疑うべきか? パズルは、ロジックを構築するためのパーツがすべて与えられてから始まりますけど、犯人当て小説はそうではないんです。まあ、最近の推理小説はミスリーディングばかり発達して、肝心のロジック構築よりも伏線という名の卵探しゲームにばかり興じていますけどね……さて、次に四番目の魂『俺』と手首を切った死体……エート、言いにくいですから、『手首』と呼ぶことにしましょうか」
一息おいて、皆の顔を見渡す。全員、椅子に深く腰掛け、聴衆モードだ。
「この二人、『俺』と『手首』の足の裏の記号としてはなにがありうるか? まあ、これは簡単ですね、四番目の魂の時点でW-23とM-24が死亡していますから、二人はやはりW-22か、もしくはW-22※なわけです。『僕』と『彼女』もそうでしたけど、『俺』と『手首』もまた一方がW-22で、他方がW-22※という関係にあります。とりあえず、足の裏の記号についてはこの辺にして、次に、今まで触れられてこなかったナイフの暗証番号について考察してみましょう……」
そう言いながら、製図マシーンになったように超高速でシャープペンシルを走らせる。まったく、こんなときほどキーボードが愛しいときはない。
「数字じゃ覚えにくいから、色の名前も書いておこう。それぞれの魂による、ナイフの暗証番号についての記述をまとめると、この表1みたいになるね。で、それをもとにナイフがどう移動していったのかまとめたのが表2」
「このハテナマークは、二番目の魂の記述に登場しない人ですね?」
黛は表2の、二番目の魂の列にあるクエスチョンマークを指差す。僕は軽くうなずいた。
「うん。ああ、それから、壁紙の色との対応を考えると、黄色ナイフと栗色ナイフの持ち主も決まりそうなものだけど、それは筆者に約束されているわけじゃないから、ここではまだわからないこととしているよ。さて、もう表2の二番目の魂と四番目の魂のところを見てくれればわかるけど、W-23を刺したナイフは栗色ナイフだったことがわかるね。で、そうなると『僕』と『俺』は同じ黄色ナイフを持っていたことがわかる。ここからなにが導けるか?」
表を差していた指を、僕は天井を指すように垂直にする。
「ちょっとまわりくどいんだけど……『僕』と『俺』は同じナイフを持っていて、そしてそれぞれが『彼女』と『手首』の頭の番号でナイフを使用可能にできている。ということは、『彼女』と『手首』は同じ番号の入れ墨がされていた……つまり、『彼女』と『手首』は同一人物ということになる。そして、足の裏の記号を検討したときに判明していたことだけど、『彼女』と『僕』、『俺』と『手首』はそれぞれ、一方がW-22であり、他方がW-22※という関係にあった。ということは? 『彼女』と『手首』が同一人物なら、『俺』と『僕』も同一人物だ。記号がW-22とW-22※とのどちらなのかは決定しないけどね」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
空中で平泳ぎするように、手を大きく左右に振りながら江田がわめく。
「それは変です! どっかで間違ってますよ! 殺人鬼以外に二重人格者はいないんでしょう? 『あたし』と『私』とで二重人格者が既に一人いるのに、『俺』と『僕』とでもう一人二重人格者がいるなんて、それは矛盾です!」
「違います」
大きく開いたまぶたを、まったくまばたきさせずに雪村が宣言する。
「小田さんがおっしゃってるのは、殺人鬼以外に二重人格者はいなかったこと、『あたし』と『私』とは同じ身体を持っていたこと、そして、『僕』と『俺』も同じ身体を持っていたということですね……ああ、つまり」
僕は笑いながら両手の平を「待った」の形に突き出す。元会長は腕組みし、下崎と黛は原稿片手になにか熱い口調で激しく言い合っていたかと思うと、突然「あ、そうか!」と下崎がテーブルをバシンと叩き、驚いて黛が目を丸くした。そしてマドはというと……つまらなさそうな顔をしている。自分で解説したかったところなのだろう。もちろん、僕は遠慮なく謎解きを再開した。
「みんな、冒頭の一行には気付かなかった? 読むよ……『筆者は、以下の手記について次のことを約束する』……ね?」
黛と元会長が、声をそろえて「アー!」と叫んだ。どうやら、気付いたらしい。
「ウワー、ちょっとぉ、全然わからないんですけど!」
江田が絶叫する。だんだんサディスティックな気分になってきて、僕はもう少し遠回りすることにした。
「つまりね、筆者は一番目の魂から四番目の魂まで語っていることは、手記だと言ってるわけさ」
「そんなのわかってますよ! 一人称なんですから、体験した当人が語った形式なんだってことくらいわかってます!」
「江田君、手記なんだよ? 手記ってのは、体験したことを自ら書き綴ったものだ。つまり?」
「つまり……え?」
「青葉島で死んだ人間がどうして自らの体験を手記として残せる? 筆者は約束してるね、登場人物は、語り手により記述されていない特別な物品を取得、使用することは不可能だった。青葉島で起こったことを書き記す筆記用具も、ノートも、なにもなかったんだ。ということは?」
沈黙する江田に代わり、黛が口を開いた。
「まさか……四重人格者? 一番目の魂から四番目の魂は、すべて同一人物だったってことですか?」
「それを『仮前提』として、検証してみよう」
椅子から立ち上がり、僕はテーブルの周りを歩き出す。
「四重人格者は誰か? 殺人鬼は二重人格者だから、四重人格者は殺人鬼じゃない。そして三番目の魂『私』は自分の足の裏にW-22と刻まれているのを確認してる。ということは、四重人格者の記号はW-22だ。全体の大まかな流れはどういうものだったのか? 四番目の魂『俺』は『夜明けの秋』からゲーム終了とともに青葉島を脱出したのだと考えれば、四つの魂を持った四重人格者が青葉島を去り、そして手首を切って自殺した殺人鬼と、被害者W-23とM-24の三つの死体が残されたのだから、筆者が客観的真実として提示した、青葉島から四つの魂が去り、三つの死体が残されたという文章も、文字通り受け取ることができる」
テーブルを半周したところで、立ち止まり、僕は指を一本立てる。
「では、それぞれの登場人物の行動は、どのようなものだったのか?」
僕は後ろ手を組み、再びテーブルの周りを歩き出す。
「雪村さんが証明してくれたように、部屋が四つで人数も四人というのはこの仮前提でも適用されなければいけない。それぞれの人物の動きも、図9から図14をそのまま適用できる。後はハテナマークと代名詞になにがあてはまるかを推理するだけだね。まず語り手はすべて四重人格者の四つの魂の一つだから、すなわち『あたし』イコール『僕』イコール『私』イコール『俺』イコール『W-22』だ。そして一番目の魂『あたし』はM-24とW-22が眠っているのを見ているから、初期状態では春の部屋にW-23がいて、W-22は二人いた。秋の部屋にいたのが語り手で四重人格者のW-22で、夏の部屋にいたのが殺人鬼で二重人格者のW-22となる」
テーブルを一周し、元の席に戻ると、僕は座って雪村さんのメモ帳をめくり、簡単に人物の移動を描いていった。それを見ながら、江田が声をあげる。
「あ、そうか。W-22は唯一の青葉島の生存者で、しかも四重人格者でそれぞれの魂が経験したことを覚えていたから、手記を書けたんですね? だからW-22が筆者で、筆者は笈川さんだから、笈川さんの足の裏にはW-22と書いてあるんだ」
「今頃わかったの?」マドの容赦ない一声。
「さあ、できた」
僕は描き上げた図22から図26を皆に示す(図21~図26)。
「図22と図23はもういいね? 初期状態と一番目の魂の記述はもう明らかになってる。雪村さんにならって、プラスマークのあるのが殺人鬼のほうのW-22だ。『あたし』は秋の部屋から冬の部屋へのドアをロックしてるから、必然的に二番目の魂『僕』は夏の部屋で目覚めたことになる。だって目覚めた部屋が冬だったら、秋の部屋を覗いたときにドアをロックできたはずだからね。というわけで、姿を現さなかったM-24は冬の部屋にいたことになり『彼女』は殺人鬼のW-22+。三番目の魂『私』のときは、姿を現さなかった殺人鬼のW-22+は秋の部屋にいたんだろうね。ついでだけど、二番目の魂の記述によれば、殺人鬼のW-22+は夏の部屋と秋の部屋の間のドアをロックしている。で、三番目の魂のときは、このドアはロックされているのに、四番目の魂のときにはロックが解除されてるだろ? ということは、三番目の魂『私』が眠った後で殺人鬼は夏の部屋と秋の部屋の間のドアロックを解除したんだから、殺人鬼W-22はW-23やM-24が死んだ後でも生きていたということになる。二人を殺して自殺したのはW-22だという仮説が補強されることになるね。さて、もちろん四番目の魂『俺』のとき冬の部屋には胸を刺されたM-24が死んでいて、秋の部屋で発見された手首を切っている死体は殺人鬼W-22+だったわけさ……これにて、証明終了」
拍手の音がした。迷いのない、力強さのあるスタッカート。片足が裸足のまま、マドは両足をテーブルの上で組み、ふんぞりかえって拍手している。やがて他の皆もつられたのか、手を叩き出した。気恥ずかしかったから、僕も拍手した。いま、ここに、たったひとつの真実の世界が現れ、コミュニケーションが成立した。
「……まったく、時間がかかったわね。タックン、それじゃあ犯人の記号はW-22ね?」
「ああ、間違いない」
「そう」マドはニッコリ笑って、足をテーブルから降ろす。
「じゃあ、ハズレ」
ピタリと、拍手の音がやんだ。
「ハ?」と僕。
「え?」と黛。
「なんだって?」と下崎。
雪村は黙り込み、元会長はポカンと口を開けている。
数秒間の沈黙。マドを除いた誰もがフリーズし、ショートし、ヒューズが飛んだ。
「あの……」
最初にブレーカが入ったのは、江田だった。けど、次に江田が口にした言葉は、僕らの頭脳回路を再起不能に焼き尽くした。
「もしかして、犯人はM-22ですか」
ピンポン玉が入りそうなほど、マドが大きく瞳を開く。
「江田君……アタリよ」