普段は滅多にないけど、僕だってたまには声を荒げることがある。
「なんなんだ! M-22? そんな記号の持ち主なんて登場しないじゃないか!」
マドがまた馬鹿笑いしている。江田は照れたように頭を掻いた。
「まあまあ、小田さん落ち着いて……いや、まぐれですよ、まぐれ。ほら、足の裏の記号ってなんども読みにくいとか、変なフォントだとか言われてるじゃないですか、それで気になってたんです」
そよ風でも送りましょうか、とでもいうように、江田は手の平をヒラヒラ振っている。
「それで、足の裏の記号についての描写にだけ注意して読んだんですけど、全部、記号はアルファベット、数字の順番で記述されるんです。それなのに、一箇所だけ数字、アルファベットの順番で記述されるところがありました」
僕は記憶を巡らせる。思い出す前に、原稿を素早くめくった黛が「ありました!」と声を挙げた。
「第一の魂のところです。夏の部屋で、W-22が倒れているのを見付けたシーン。『今度は数字の22とW』……でも、これがなに?」
「いや、だから」江田は黛に向き直る。
「思ったんです。実は『あたし』は、M-22を逆さまに読んだんじゃないかって。電卓のデジタル表示の数字みたいに、逆さまに読めるようなフォントなら、読みにくいだなんて何度も記述されるのもわかるかな、て。ほら、電卓の数字の2を逆さにしても2になるでしょ? 冬の部屋のM-24は仰向けに倒れていたけど、春の部屋の人はうつぶせになっていたじゃないですか。だから『あたし』は、うっかり逆さまに読み間違えたんじゃないですか?」
雪村は、気のせいか顔が蒼白に見えたけれど、落ち着いて江田に言い足した。
「そうですね……それなら二番目の魂『僕』が『彼女』の足の裏の記号を『W-23と似たような記号だけど、どう読むのだろう』と迷ったのもわかります。そこにはW-22とも、22-Mとも読める記号があったわけですから……いえ、逆です。『彼女』はM-22だったのですね?」
「え? どうしてですかぁ?」
江田のどうにも間の抜けた声に、僕は半分放心しながら答えた。
「どうしてって……『僕』はW-22だからじゃないか。第三の魂『私』はアルファベット、数字の順番で記述しているから、間違いなくW-22だ」
「タックン、それじゃ魂入れずよ」
マドが指を立ててチッチと左右に振る。
「そもそも『彼女』はどうして自分が殺人鬼だと思ったのか、考えなかったの? この状況で自分が殺人鬼ではないかと疑問に思うのはどういうとき?」
「そうか!」空になった煙草の箱をねじりながら、下崎が声を挙げる。
「自分を殺人鬼と思うのは、自覚している性別と、足の裏の記号で示された性別とが一致しなかったときだ! 『彼女』は目覚めたとき、自分は女性だと思っていたからM-22を22-Wと逆さまに解釈した。だが、刺されて死んでいるW-23を見て、わかったんだ。3は逆さまにしても他の数字にならないからな、数字、アルファベットじゃなく、アルファベット、数字の順に読むのが正しいことに気付いた。だから『彼女』は自分が二重人格で、殺人鬼かもしれないことに気付いたんだ!」
「と、いうわけ」
マドは立ち上がると、椅子の背にかけてあったオレンジ色のパーカーを着込む。
「アー、くたびれた。じゃ、帰りましょうか」
ショックのせいだろうか、今頃になってなぜか疲労と眠気が蘇る。頭の芯がボーッとなって、皆が片付けや荷物をまとめるのを僕はぼんやり見ていた。ああ、本当に疲れたなあ……。
ゴツン。出し抜けに、頭にゲンコツが降ってきた。
「痛……な、なんだ、マド、いきなり」
「お返しよ」
「お返し?」
「ペンネームの。江田君の『逆さまに読んだ』でやっと気付いたわ。笈香窓だなんて妙な名前だとは思ったけど……」
アハハ、と笑いでごまかしながら僕は慌てて立ち上がる。やっぱりバレタか。
「あ、小田さん、記念にこれ一部もらっていいですか?」
黛が原稿の束を振っている。ドーゾ、ドーゾと僕は手を差し出す仕草。黛は原稿の表紙を眺めていたが、不意にこっちを振り向いた。
「ねえ、笈川さん、ひとつだけ不思議に思うんですけど……どうして、殺人鬼は語り手のW-22だけ殺さなかったんでしょう?」
マドは答えなかった。それがどうしたの、とでも言いたげに腕組みしている。代わって、僕が答えた。
「それは、四番目の魂の『俺』が推理したとおりでいいんじゃないかな。つまり、殺人鬼は起きている者だけを殺した。眠っている者は殺さなかったんだ。理由はわからないけど、確かにそうでなきゃサバイバル・ゲームにはならないからね。それより、僕には別の疑問がある。なぜ殺人鬼は自殺したんだろう? それに、夏の部屋と秋の部屋の間のドアは、三番目の魂『私』のときはロックされていたのに、四番目の魂『俺』のときはロックされていない。このドアのロックを操作できるのは、殺人鬼のM-22だけど、どうして自殺する前にロックをわざわざ外したのか……雪村さん、どう思う?」
わざと雪村に訊いた。どういうふうに答えるか、興味があったからだ。筆者は最初に「二重人格者に秘められた残虐な殺人者の魂が、二人を殺害し、遂には己の魂の器を、自殺という形で破壊せしめた」と書いている。つまり、自殺を決意したのは殺人鬼の魂だ。もしかしたら、四番目の魂「俺」が目覚める前に殺人鬼は建造物の中をうろつき、死体となったM-24とW-23を発見したのではないか。そして、眠っているW-22、つまり「俺」もまた、死んでいると見誤った。なぜなら、W-22には三番目の魂「私」として目覚めたときに、死んでいくM-24を見守った血が服に付着していたからだ。それを見て、殺人鬼は「俺」が既に死んでいると判断した。殺害する相手が一人もいなくなったと思いこんだ殺人鬼は、最後に自分自身を……あるいは、己の魂と同居するもう一人の魂を殺害したのではないか。
けれど、雪村はそうは答えなかった。
「そうですね……」人差し指を顎にあて、うつむく雪村。
「恐らく、三番目の魂が眠った後で、M-24は殺人鬼ではないほうの人格、つまり二番目の魂『僕』と会った『彼女』の人格として目覚めたのではないでしょうか。『彼女』は自分が殺人鬼の人格を持っているのに気付き、ドアをロックした。そして人差し指を切り落として二度とドアを開けられなくすることで、『僕』を守ろうとした。しかし、そうする前に昏倒してしまった。再び目覚めた『彼女』は建造物の中を探索し、自分が殺害したW-23とM-24を発見したのでしょう……でも、『僕』だけはまだ生きていた」
黙り込んだ皆が、帰り支度の手をとめて立ち尽くし、雪村の言葉に耳を傾けている。
「そして『彼女』は決意したのです。『僕』だけは殺さない、そのためには、もう自分を殺す以外ない。ただ……M-24のように『彼女』もまた、一人では死ねなかった。だから『僕』の眠っている夏の部屋と、空いていた秋の部屋の間のドアのロックは外しておき、それから秋の部屋で手首を切ったのです」
僕はマドの顔を盗み見た。くしゃみでもしそうに、鼻をひくひくさせて、なにか言いたげに上唇をムズムズさせたけど、なにも言わなかった。そう、恐らくこれが、コミュニケーションというものだろう。