一息入れることになった。ドナルド・マックへコーヒーのまとめ買いに江田と下崎が立ち上がり、黛はシュークリームの箱を開けて皆に配り、マドと元会長は「向田邦子のエッセイでは水羊羹は夏に食べるものだなんて言っているけど北陸では冬にこたつで食べるのが常識らしい」などという雑談をしながら大餡巻きをたいらげ……僕は再び仮眠をとった。あいにく、頭にくくりつける枕がなかったので、うつらうつらしたくらいだが。
「じゃ、そろそろ再開しようか」
 元会長の声に意識を取り戻す。いつの間にか、全員が席に着いていた。雪村は元会長の言葉を無視するように、またメモを取りながら忙しく原稿をめくっている。顔の神経を切断したように表情が変わらないが、楽しんでいるらしい。
「俺、先に言っていいですか」
 買ってきたコーヒーを皆にまわしながら、下崎がきりだす。
「全部わかった訳じゃないけど、ちょっと、気付いたことがあって。叙述トリックに関係することで」
 ドーゾ、とでも言うように元会長が下崎に向けて手のひらを裏返す。下崎は、一口コーヒーをすすってから口を開いた。
「部屋、四つあったんじゃないかな」
 エッ、と江田が声をあげた。慌てたように手近の原稿をとり、めくる。
「でも下崎さん、壁紙の色は栗色、白、ピンクの三つ。部屋の名前はA、W、Sしか登場しませんよ」
「もう一つの部屋の壁紙は、黄色だね」
 ふざけたくなって、つい、僕は口を挟んでしまった。下崎が僕を見て軽く微笑みながらうなずく。江田は混乱した様子で、皆の顔を左右に見渡している。
「小田は、さすが、気付いてたんだな。『夜明けの秋』の意味に。部屋の名前はA、W、S。なぜ、こんな名がつけられたのか? 小学生向けの謎々だな。秋はAutmn、イコール、Aだ」
 黛が感心したように、下崎の顔にみとれている。僕はシュークリームを一口かじった。起き抜けに甘いものがおいしい。
「もう、わかるだろ? 『夜明けの秋』が『夜明けに、秋の部屋で』という意味なら四番目の魂『俺』が『やるだけのことはやった』てのもわかる。栗色の壁紙、つまり秋の部屋で『俺』は眠りについたんだからな。同時に、春夏秋冬、英語なら、Spring, Summer, Autumn, Winter、頭文字をとればS、S、A、W。壁紙の色が季節のイメージ・カラーなら、ピンクは桜で春、栗色は文字通り栗で秋、ホワイトは雪で冬だ。ピンクがS、栗色がA、ホワイトがW、対応してるだろ? だったら、四番目の部屋、夏を意味するもうひとつのSの部屋があって当然だ」
「そう……だから、もう一つの部屋は、黄色。夏のイメージカラーだからね」
「あ、それなら小田さん、海の青とか太陽の赤も似合いそうですね」
 黛が言い添えた。僕はちょっと首を傾げる
「うん、まあ確かにそうだけど、十中八九、黄色だと思う……まあ、これはわからなくてもしかたないけど。ちょっとした専門知識だから」
「なんのことですか?」
「……誰か、電卓持ってる? 普通のじゃなくて、関数電卓」
 あいにく、誰も持ってなかった。試験明け休暇中でなければ、大学生だけに一人くらいは持ってるものだが。僕は手近の原稿を手にとり、パラパラとめくった。
「第四の魂『俺』が言ってただろう……ああ、あった。手首を切った死体の傍らに落ちてた、ナイフについての描写のところ。『液晶には、16777215と表示されている。覚えやすい数字だ』……16777215だよ? どうしてこんな数字が覚えやすい?」
「二の二十四乗マイナス一ですね、それがなにか?」
 雪村が即答。全員、絶句。
「エート、その、つまり……」頭を掻いて、僕は続けた。
「十六進数ではね、十から十五まではアルファベットのAからFで代用するんだ。だから、16777215は、"FFFFFF"になる。ところで、ホームページを記述するHTMLという言語では、色の指定を六桁の十六進数で行うんだ。二桁ずつ、RGB、すなわち光の三原色である赤、緑、青の三色の強さに置き換えてね。だから、FF-FF-FFは三色すべてがもっとも強い光で混ざるから、白になる。この調子で、他に問題中にでてくる数字を色に置き換えると、背中を刺されていたW-23の数字は16764108だから、FF-CC-CC。これは赤がいちばん強くて、それよりも弱い緑と青を同じ量混ぜているから、ピンクだ。そして『彼女』の数字16776960はFF-FF-00、赤と緑だけで、青がない。これは黄色になる。これで白、ピンク、黄色とでたね? 壁紙の色は栗色、白、ピンクが記述されていたから、夏の部屋は黄色だったと推理できる」
「うわ……」
 感心したのか、それとも呆れてるのか、江田はポカンと口を開けている。
「本当に、専門知識ですね……全然わかんないです」
「あ、私はちょっとわかりました。手書き派なんです。栗色だったら、66-33-00くらい?」
 黛が小さく手を挙げて笑った。僕はマドの様子をうかがう。
「まあ、数字が示す色の名前と、部屋の壁紙の色や初期状態の登場人物の部屋配置が一致するなんてことは、この筆者は全然約束してない。どうも、こういうことを知ってる僕あたりのためのミスリーディングって気がするから、これはわからないほうがよかったのかもしれない」
 マドはニヤニヤ笑いをするだけで、なにも付け加えなかった。図星だったか。危ない、危ない。
「補足ついでに言うと……部屋の形が楕円形なのも、叙述トリックを成功させるための細工の一つだったことがわかるね」
「エ? どうしてですかぁ?」
 江田は腕組みをしながら耳を傾けている。
「だってそうだろ?」
 僕は原稿を一枚抜き取り、裏返した。白紙のそこに、胸ポケットから取り出したシャーペンで図を書く。雪村さんにあわせて、図6から図8までナンバリングする(図6~図8)。
「図6みたいに、部屋が長方形で四つあったら、ドアはたがいに垂直な位置関係になるね? 部屋の中心に立てば、登場人物はそのことに気付くはずだ。これだと、すぐに部屋の数が推理できてしまうから、登場人物は部屋が四つあることを言及しなければおかしい。けど、楕円は焦点が二つある。図8を見てごらん、ドアの位置関係は図6と同じく垂直だけど、部屋の中央に立っても図6とは違って垂直の位置関係にはない。図7と図8を比べればわかるけど、中にいる人間には部屋が四つなのか三つなのか、ドアの位置関係だけでは判別しにくいわけさ」
「す、すごい。笈川さん、そんな幾何学みたいなことまで計算して、問題作ったんですか?」
 すました顔でマドはコーヒーのカップを両手に持ち、答えた。
「江田君……私が次にしゃべるのは、みんながこれで間違いないっていう犯人の名前を決定したときか、降参したときだけよ」
 女王様はごきげんのようだ。下崎が短く口笛を吹いた。
「あの、ちょっとすみません」
 原稿を読み直していた黛が、皆を見渡しながら口を挟む。
「部屋の数が四つなのは、確かにありえると思います。でも、それって論理的に本当のことでしょうか?」
 新しい煙草に火を点けようとしていた下崎が、ライターに指をかけたまま眉を曇らせ、黛の顔を見る。聞いていなかったのか、とでも言いたげだ。
「雅也の言いたいことはわかるよ」
 ちょっと言葉を切り、頭の中を整理するように黛は一度天井を見上げた。
「だけど、部屋の名前が四季を英語に訳した頭文字だっていうのは、状況証拠ですよね? 小田さんが説明してくれた、ナイフの暗証番号が示す色と同じで、ロジックではなく知識からでてくる結論だと思うんです。もちろん、部屋が三つというのは、記述から矛盾が生じるから、雪村さんが証明してくださったように絶対に有り得ないことです。それから、壁紙や警告文を貼り替えたり書き換えて、同じ部屋を違う部屋と思わせるような工作は、作者の示す前提条件や語り手の記述から有り得そうにないです。だから、部屋が二つ以下ということも、ないと思います。でも、だからと言って部屋が四つであることって断定できるでしょうか? 部屋数が五つ以上、ううん、実は、それぞれの語り手によって全然別の建造物の中にいた、なんて解釈は無理でしょうか? だって、この小説の登場人物は、誰もがお互いを『初めて会った』という意味のことを書いたり、言ったりしてます。目覚める前の記憶があったのは、二番目の魂の『僕』がSの部屋で殺されているW-23と一緒に倒れているのをみつけた『彼女』だけです。それだって、一番目の魂の『あたし』によって記述された行動じゃないから、舞台が連続しているという証明にはならないです」
 元会長が、ウーンと小さくうなり声を挙げる。片方の手に、半分だけになったシュークリームがあるので、黛の意見ではなくシュークリームのおいしさにうなったのかもしれないが。
 黛の疑問は、近年の国産本格ミステリを読んでいない読者には、勘繰り過ぎだと思われるかもしれない。ところがどっこい、叙述トリックというのは、本当にそこまで疑わなければならないくらい奔放なものなのだ。タイトルを挙げるわけにはいかないけど、黛の言ったような叙述トリックの名作は事実存在する。
「そこがさ、推理小説とパズルとの違いなんじゃないかな」
 煙草に火をつけないまま考え込んでしまった下崎に、僕は助け船第二号を出航した。
「推理と、論理的導出は、そもそも違うものだからね」
「そうですかぁ? ボクは、おんなじだと思ってましたけど」
 江田が疑問の声をあげる。僕は二、三秒沈黙し、論旨を整理した。
「まあ、論理学の用語としての厳密な意味はともかく……僕は、推理と論理的導出は、暗黙の前提があるかないかの違いだと考えてる」
「暗黙の前提、ですか?」
「そう……論理的な導出は、前提がすべて明らかになっていて、前提における記号への論理的操作からなんらかの結論を得ること、だね。でも、推理というのは違う」
 いつだったか、マドがつぶやいた言葉を思い出す。私は一足す一という数式の横に、とりあえず二と書いてから、これだけかしらと思うようなことがよくある、と。
「推理には、暗黙の前提がある。例えば、犬が吠える声を聞いたのが犯人で、Xはワンワンという吠え声を聞いていたとする。そのとき、Xは犯人だろうか? 常識的な読者なら、Xは犯人だろうね。でも、読者が日本語を覚えたてのアメリカ人なら? 犬の吠え声を擬声語にしたら『バウワウ』だと思っている人間にはXは犯人のはずがない」
 コーヒーを一口すすり、僕は続ける。
「そもそも、小説というのは暗黙の前提、つまり常識を読者が持っていることを前提として書かれるものだね。『手首のブレスレットをなでながら、カオルは溜め息をついた』なんて文章があれば、カオルは女性だと思うのが当然だ。文章というのは、書き手と読み手の間の暗黙の前提を守ることによりメッセージが伝えらる。でも、叙述トリックとはなんだろう? 果たして、そういった暗黙の前提なしじゃ、小説は成立しないんじゃないだろうか? 黛さんの疑問は、そういうことだと思う。信頼性を失ったテキストからならどんな結論でも導き出せるんじゃないか、てね」
「いえ、そんな難しいことは考えてませんでした」
 ハキハキと黛が答える。僕はちょっと凍ったけど、聞こえなかったふりして続けた。
「……エー、まあ、でもね、叙述トリックを使ってるからって、なんでもありになるってわけじゃないと思う。確かにテキストは信頼性が低くなるけど、最低限の暗黙の前提が破られるわけじゃない。『彼は男だ』と書かれていれば、彼は男なんだよ。彼が男なのか疑うべきなのは、物語の舞台が大昔の中国で、現代とは漢字の意味が違う可能性があるなんて記述がされたときだけさ。疑いだせば、僕がこうしてコーヒー片手に論説ぶってるのだって、実はバーチャル・リアリティで電極がたくさんつながれた脳の中の幻なのかもしれない。だけど、とりあえず今こうして僕がコーヒー片手に論説ぶっているという意識体験そのものが否定されるわけじゃない」
 どうやら、徹夜したせいかハイになっているようだ。
「僕らは推理しなければならない。推理というのは、なにが前提として妥当であるかを検証する操作も含まれているんじゃないかな。検証する操作自体もなんらかの前提を認めなくてはいけないわけだから、これは本当に困難だし不安定で出口のない迷路だけど、でも、やらなくてはいけない。そして仮説を提示し、小説に記述された現象をすべて矛盾なく説明できれば、たとえそれが作者の解答とは違っていても、別解として成立するんじゃないか? 真実はひとつなんて、どっかにいる見えない神様の独り言さ。いいかな?」
 そろそろ、犯人当て小説に収束させないとまずいな。
「下崎君の、部屋が四つあるという説は、部屋の名前が四季の頭文字なんじゃないかということを思えば充分仮説として検討に値すると思う。その結果として、小説中の出来事を矛盾なく説明できればそれで真相じゃないかな。もちろん、それがマドの用意してある解答編と異なっていたとしても、それはマドにさえ思いも寄らなかった別解を考えることができたというだけだ。代わりに、矛盾が生じれば、そのときは黛さんの言うとおり部屋が五つ以上あるとか、語り手によって全く違う舞台だった可能性も検討すべきだと思う。まあ、その前にもっと他の、妥当性のある仮説を思いつくかもしれないけどね」
「小田の言ってることはよくわからんが」
 下崎はやっと、煙草に火をつけた。一口吸って、煙を吐いて、言葉を続ける。
「俺はそれで納得だ」
「私もです」
 黛は曖昧に笑っている。江田は、またポカンと口を開けていた。ふと、メモを書いていた雪村が顔をあげる。
「小田さん」
「はい?」
「今のお話、大変興味深く感じました。もう一度、最初から繰り返してください」
 ……二、三分程かけて、僕はカセットテープ・レコーダーの役割を果たした。「小田さん、それは違うと思います」なんて突っ込まれたらどうしよう、とビクビクしながら。
「わかりました。それで妥当だと思います」
 僕の説明を聞き終わり、雪村は手をつけていなかったコーヒーを、一気に飲み干した。テーブルの上に紙コップを戻すと、小さく息を吐き、言葉を続ける。
「私も、下崎さんに同意見です。同じように、四つの部屋に四人いたという前提で先程のメモを書き直しました」
「四人?」
 聞き返したのは、やっぱり江田だった。
「四人です」
 雪村霙は原稿をめくりながら、表情を変えることなく答える。
「部屋が四つあれば、人数は四人です。警告文にはこう記述されています……『残念ながら、指紋は一つのドアに対し一人しか登録されておりません。他方のドアは、お隣の部屋の方とのご協力によりロックするようお願いいたします』……」
 原稿から顔をあげ、雪村は凛とした声で続ける。
「婉曲的ですが、この文章と、語り手の描写する建造物の構造から、ドアの数と建造物内の人数が一致することは明らかです。そうでなければ、誰もロックできないドアや、二人以上の人間がロックできるドアが存在することになります。さらに、語り手の描写する建造物の構造によれば、それぞれの部屋は円環上につながっていますから、部屋数とドアの数が同じになります。部屋数とドアの数が一致し、ドアの数と人数が一致する。それなら、部屋の数が四つで、なぜ人数が四人ではないのですか?」
 たとえ親の仇だって、雪村に反論しなかっただろう。