おれとおまえの名は

 賽銭箱の前で、左右に手を大きく広げる。ぱん、ぱん。柏手を二回打ってから、戸川河斗は考えこんだ。作法はこれで良かっただろうか。
 まあ、いいか。そう思い直すと、瞼を閉じて頭を下げた。とりたてて願い事は思い浮かばない。そもそも、ここを訪れたのは偶然でしかない。
 父の仕事の都合で、戸川家が隣の市に転居したのは河斗が中学に入学したときだった。四年ぶりに生まれ育った町を訪れたのは、懐かしさからではなかった。鉄道会社が敷設する新しい線路が、生まれ育った町を横断する。そんな話を夕食の席で母から聞いたのがきっかけだった。
 とくにすることもない日曜日、河斗は自転車にまたがった。四月下旬のうららかな陽気の日に、のんびりとペダルを漕ぎながら町を巡った。
 高架の脚となるのだろう、広々とした田んぼにコンクリートの巨大な柱が等間隔に建ち、一直線に遠くまで並んでいる。工事が休みらしく、どこも静まりかえっていた。行く先々に囲いがあり、工事関係者しか通れなくなっている。
 里山にはトンネルを掘っているらしい。長い石段をみかけ、河斗は自転車を下りた。工事の内容や進捗を説明する看板、騒音の大きさを示すデジタル表示。懐かしいものと見慣れないものとが入り混じった風景を思い返しながら、境内へと足を運んだ。
「なにしてんの」
 声をかけられ、ふりかえる。ラズベリー色のパーカーを着た少女が、石畳に立っていた。
「おまえか」
「誰がおまえだ」
「……元気だったか、前田」
 珠江という下の名前がでてくるまで、数秒かかった。寂れた地方だけに小学校は各学年に一クラスしかなく、ずっと同級生だった。卒業式以来、会うのは四年ぶりになる。気の強そうな吊り目がちの瞳が変わっていない。
 工事現場の見物に来たことを河斗は説明した。フウンと気の抜けた相槌を打ち、珠江は「お祭り、どうすんの」とつけくわえた。
「そういや、あったな」
 ゴールデンウィークには毎年、町おこしのイベントがある。
「暇だったら行くさ」
「うちの売上に貢献してよね」
 珠江の両親は、この町で唯一の小売店を営んでいる。食料品や日用雑貨、煙草や雑誌まで幅広く扱っている。イベントに、珠江の親たちは今年も出店するのだろう。
「一緒に売り子やらない? ご飯くらい奢るから」
「普通にバイト雇えよ」
 石畳の道を、鳥居のほうへ歩く。会話を切りあげることを身ぶりで示したつもりだったが、珠江は河斗の隣に並んで歩き始めた。
「けっきょく、どうすんの。お祭り、来るの?」
「わかんねえよ」
「氏子なんだから、来なさいよ」
「いや、もう違うだろ」
 しつこいなと思うと同時に、動揺している自分に気づいた。
 横にそっと視線を送る。隣を歩く少女が、肩から垂れた長い黒髪を後ろへ払う。何気ないしぐさに女性らしさを感じる。
 四年前、珠江はおかっぱ頭だった。頭の回転が早く、男子が相手でも怯むことなく正論をぶつけてきた。あの頃から、こんな色白だったろうか。懐かしさと見慣れないものとが入り混じっている。
「あんた、私のスカートめくったことあったじゃん。貸し、返してよ」
「何年前の話だよ! とっくに時効だろ!」
 鳥居をくぐる。山裾に広がる集落を一望できた。こんな小さな町だったんだな、と河斗は思った。
「ケータイ」言いかけてハッとなり、河斗は口元を手の平で押さえた。
「なに?」
 珠江がきょとんと瞳を丸くした。なんでもない。そう言い捨てて、足早に河斗は石段を下り始めた。そうだよな、高校生なんだから、みんな携帯電話やスマートフォンを持っていて普通だよな。そんなもん雑談のネタにもならないよな。わけのわからない言い訳を頭の中に大急ぎで並べる。頬が熱い。
「ちょっと、待ってよ」
 後ろから肩をつかまれた。ふりかえると、少女の顔が迫ってきた。珠江が足を踏み外したと理解した頃には、二人は石段を転げ落ちていた。
「う、うわわ!」
「痛っ!」
 ぐるんぐるんと全世界が回転する。抱きあったまま二人は長い石段をどこまでも転げ落ちていく。
「とまらねえ!」
「も、もしかして私たち入れ替わっちゃうの!?」
 いや、そんなことは起きない。二人はこのまま転がり続ける。これは、ただそれだけの話である。
 スカートめくりの時効を迎え、工事現場を見物し、神社の氏子だった戸川河斗。利口な子で、両親が小売店を営み、祭りでは売り子をする前田珠江。ここに二人の、言霊の輪廻が完成した。
  時効 -工事 -氏子
  利口 -小売り-売り子
 すなわち、
  じこう-こうじ-うじこ
  りこう-こうり-うりこ
 である。