しあわせな小説家

 小雨の降る午後、借りていた本を返すため友人Nのアパートを訪れた。
 いつものようにNは本を読んでいた。畳に寝そべり、丸めた座布団を顎の下にあてがって、なにやら電話帳のような分厚い本に挑んでいた。
 私は書棚を見渡した。背後から、ときおりペラリとページをめくる音がする。クスクスと、小さく笑い声が漏れ聞こえた。
 天井際近くの棚、一冊分の空隙をみつけた。ああ、ここだったか。爪先立ちして、借りていた本を差しこむ。と同時に、見慣れないものをみつけた。ドロップの缶だ。こんなものがなぜ書棚に。
 首を傾げていると、気配を察したのかNが起き上がった。
「ああ、それはな、妖精が入っていたんだ」
 私は瞼を細め、眉間に皺を寄せて彼の顔を見返した。
「昨日、押入を整理していたらでてきてな。懐かしかったのでそこに飾っておくことにしたんだ」
「妖精てのは、スイカ味とかイチゴ味の妖精なのか?」
「さあね。願い事を叶えてくれたのだから、妖精じゃなくて魔神だったのかもしれん」
 Nは小説家だ。いや、小説家だったと言うべきかもしれない。二十代で新人賞を獲り、瞬く間に人気作家になった。ホテルに缶詰で執筆させられたこともあったという。しかしもう五年近く新刊はでておらず、現在はアルバイトで糊口をしのいでいると聞く。
 ドロップの缶は、近所の路地裏で拾ったのだという。蓋を開けると、西洋の絵画にでてくるような妖精が現れ、逃がしてくれたお礼にひとつだけ望みを叶えてあげましょうと告げた。新作の構想に行き詰まっていた彼の願いは、当然決まっていた。
「面白い物語を、望みのままいくらでも思いつけますように、てね」
「ふうん。で、それは叶ったのかい?」
 ああ、もちろん。彼は深くうなずいた。
「もしかして、君はそれから小説を書くようになったのか?」
「いや、違うよ。五年くらい前だな、缶を拾ったのは」
「じゃあ、君が最後の本をだした頃じゃないか。いくらでも物語が思いつくようになったのなら、どうして新作がでないんだ?」
 Nは無言で卓上のメモ帳に腕を伸ばした。水性ペンでなにやら書きつける。
「読んでみろ」
 おたまじゃくしの太郎はメダカの学校に通うことになりました。けれど尻尾が無くなりカエルの姿に変わった太郎はメダカたちに嫌われてしまいました。春、田んぼの真ん中で太郎は悲しげに声高く鳴き続けました。おしまい。
「なんだい、これは」
 呆れて声をあげると、面白くないかなあとNは頭を掻いた。どこが面白いんだと憮然としてメモ帳を返すと、Nはさっと目を走らせ、柔らかな笑みを浮かべた。
 それは、自虐や皮肉めいた笑いではなかった。心からの素直な笑顔だった。
「ひょっとして……君には、面白い、のか?」
 ピンときた。彼が妖精に頼んだのは「面白い物語をいくらでも思いつける」ことだった。しかし、なにが面白いかは人によって差がある。それは読書経験や好みに左右され、誰にでも同じくらい面白い物語など無い。
 だから、妖精はズルをしたのだろう。Nの発想力ではなく、感性のほうを変えた。誰にでも思いつくようなバカバカしい話でも、彼には面白く感じるように。
 新作がでなくなったのも無理はない。確かに彼はいくらでも面白い話を思いつくようになった。けれど問題なのは、そうして思いついた話を面白がるのは彼自身だけだということだ。できるだけ多くの読者にとって面白い小説を書けるようになるには、思いついた話を客観的に評価し、つまらないものを切り捨てる能力が必要なのだ。
「誤解されるのも嫌だから言っておくが……」
 呆然としている私を尻目に、Nはまたうつぶせに寝そべった。
「俺はね、今の生活に満足してるよ。昔は働き詰めだった上に、いつかネタが思いつかなくなるんじゃないかと戦々恐々だったからね。なあ君、贅沢さえしなければ、食うに困らないくらいの稼ぎは簡単なんだよ。会社勤めの連中が夜中まで残業して、休日にはなにをしている? 映画を観て、スポーツをして、おいしいものを食べて。なんのことはない、暇つぶしにばかり金を注いでるじゃないか。時間を持てあまして、なにか面白いものはないかと探してる。そればかりだよ」
 ペラリとページをめくる音がした。私はぼんやり、畳の上に彼が広げている本をみつめた。いくつもの名前や数字がビッシリと並んでいる。
 電話帳のように分厚いそれは、間違いなく電話帳そのものだった。クスクスと、楽しげな彼の笑い声が薄暗い四畳半に響いた。