雨に濡れる交差点をみつめ、俊夫が足をとめた。もう一年も経ったんですね。事故に遭ったの、ここでなんでしょう?
去年のことだった。私は見知らぬ白いセダンに轢き逃げされ、意識不明のまま病院へ運ばれた。目覚めたとき、ベッドの傍らに立つ男が誰なのかわからなかった。けれどそれは一時的なもので、医師が駆けつけてきた頃には職場の後輩、俊夫だと思いだしていた。
嘘は、それから始まった。あえて私は記憶喪失のふりを続けた。
かつて、私は外資系の企業に勤めていた。連日の深夜業務、重いストレス。私はそれに耐えたし、耐えたことを誇りに思っていた。間違っていたのは、それを他人にも求めたことだ。私の初めての部下、金井宮子はマンションの七階から身を投げた。
誰も私を責めなかった。けれど、私が私を責めることは、誰にもとめられなかった。会社を辞め、新しい街で、私は他人との関わりを避けた一生を送るつもりだった。
けれど、記憶喪失という言い訳は、裏目にでた。俊夫も嘘をついた。自分たちは恋人だった。だからこうするのが当然なのだと。その優しさは、茨の棘だった。幸せにまどろもうとするたび私の胸を刺したのは、金井宮子の遺書にあった婚約者への言葉だった。
雨ににじむ、信号の赤いランプをみつめる。エンジン音、白いセダン、運転席の男。
「思いだしたんですね」俊夫が、薄く笑った。
「僕は、宮子の婚約者でした。初めから、復讐が目的で同じ職場に勤めたんです。通勤経路を調べて、車で襲った。でも、あなたは助かった。それからは恐怖の毎日でした。いつ記憶を取り戻し、警察に告げられるかわからない。僕は、宮子のためなら捕まってもいいと思っていた。それなのに、いざとなると恐ろしくてたまらなかった。あなたをもう一度殺すことさえできなかった。そうやって等身大の自分を思い知って、初めてわかったんです。あなたの痛みを、人の生き死にと向きあってきた苦しみを、やっと理解したんです」
どうか、僕を殺してください。それが駄目なら、僕にあなたを殺させてください。もう、こんな嘘だらけの生き方は嫌なんです。
冷たい雨の中、顔を歪ませ崩れ落ちる俊夫を、私は無言でみつめた。二人の間に許される嘘は、もはやなにひとつ無かった。