神は一足す一がわからない

 山高帽を逆さにし、蜜柑を二つ入れている。膝の上のそれを、若き論理学者は黙って見下ろしている。昼下がりの駅は静かだ。ホームのベンチで、私たちは列車を待っている。線路の向こうに針葉樹林が広がっている。
「神は一足す一の答えがわからない」
 欠伸をしていた私は、論理学者のその言葉を危うく聞き落とすところだった。しばらく考え、私は降参した。
「なにを言ってるんだ? 神は純粋なあまり無知だという話か?」
「そりゃ凄い」
 驚いたような丸い目をして、彼は私を見返す。
「そんな独創的なこと、よく考えつくね」
「ふざけなくていいよ。いつもの君なら、神は万能の存在であることを前提にするじゃないか。どうしたんだ」
 すると彼は視線を落とし、黙って帽子の中の蜜柑をひとつ手にとった。
「今、帽子の中に蜜柑がひとつある」
 続けて、先程手にとった蜜柑を帽子に戻す。
「蜜柑はいくつになった?」
 私は眉根を寄せ、一語一語区切るようにして答えた。
「ふ、た、つ、だ」
「そうだね。ここにあるのはふたつの蜜柑だ。しかし観察してみよう、これらの蜜柑は全く同じというわけじゃない」
 再び帽子から一個の蜜柑をとり、手の中で回転させて観察する。
「こっちのほうが少し色が薄いようだ。形も微妙に違う」
 蜜柑を帽子に戻し、彼は胸ポケットから列車の切符を取り出すと、同じように帽子に入れた。
「蜜柑はいくつになった?」
「二つだ」私は即答する。
「その切符は、どうみても蜜柑には見えない」
「そうだね、私にも切符に見える。この帽子の中には、蜜柑が二つと切符が一枚ある。もしも蜜柑の一方が熟す前の青い蜜柑だったなら、黄色い蜜柑と青い蜜柑が一個ずつあると言えただろうね」
 彼は首を少し傾け、瞼を細めた。言葉を慎重に選んでいるのだろう。
「神は万能の存在だと仮定しよう。神は物体を原子レベル、素粒子レベル、物体の根元を為す最小レベルまで、観察者問題に悩まされることなく知っている。帽子の中にあるものについて、僕も君も二つの蜜柑、一つの切符と認識した。画家なら、蜜柑の色と形を正確に認識して個別のものと認識できる。同じように、画家よりも優れた眼を持つ神は、この二つの蜜柑をまったく別々のものと認識するだろう」
 帽子の中の蜜柑を、彼は両手にひとつずつ手にとる。
「しかし逆に、万能の存在である神は、この二つの蜜柑が同じものであるという認識を持つことがない。神の眼には、この二つの蜜柑は切符と帽子、ホームと列車、いや、それ以上に類似点のない、かけ離れた別々のものと感じられるからだ」
 蜜柑を帽子に戻し、切符を胸ポケットに戻す。
「神には『同じモノ』という概念がない。いや、それどころか『モノ』という概念すらないだろう。神の眼にはあらゆるすべてが固有の、かけがえのない根元的要素まで解析されてしまうからだ。認識能力が有限の人間は蜜柑を見て『これは蜜柑だ』というレベルで判断を止めてしまう。だからよく似た物体を見れば『これも蜜柑だ』で終わってしまい、そして『蜜柑が二つある』という認識につながる。無限の認識能力がある神は、究極のレベルまで一瞬にして認識する。ひとつとして『同じモノ』など存在しない。根元的かつパターン化不可能な固有の存在があるだけだ。そこに抽象的モノ概念は存在しない」
 彼は私のほうを見ている。しかし視線は、私ではなくどこか遠いところを、現実には存在しない地平線をみつめている。
「モノ概念がないということは、神は命題論理学を理解しないということだ。神はイコールを理解できない。右辺と左辺が同じになるということを理解できない。神にとっては認識できるすべては固有かつ独立した存在であり、同じになることなどない。命題論理学さえ成り立たないなら、一足す一が二になることも理解できるわけがない」
「最初の疑問に戻るんだが」
 私は意地悪く言った。たまには逆襲するのも悪くない。
「神は万能だと最初に仮定した。そこから君は、神は一足す一がわからないと結論した。それは矛盾じゃないか?」
 彼の視線が現実に戻ってくるのがわかった。私の顔をしっかりみつめ、含み笑いをする。
「いや、矛盾していない。というより、私の言葉が足りなかったというべきか。ここで神が万能であるとは、認識能力が万能であるという意味だ。神は人間よりも遙かに世界を知っている。根元レベルまで知っている。しかし、人間は根元レベルを知らないし、知る能力もない。言っただろう? 人間の認識能力は有限だから、どこかで判断が停止する。私たちには蜜柑は蜜柑でしかない。画家なら蜜柑を色や形まで正確に認識する。科学者なら電子顕微鏡を使ったり、化学分析を行うだろう。それでもどこかで停止し、根元レベルには至らない。だからこそ、モノ概念が生まれる。人間の認識能力が有限だからこそモノ概念が生まれ、論理学が必要となり、一足す一が二になる。一足す一の答えがわかるということはひとつの能力ではなく、認識能力の有限性という『能力の不足』を意味する。ならば万能の神に一足す一の答えがわからないことは、矛盾ではないだろう?」
 そのとき、奇妙な感覚が生まれた。彼の言葉が頭の中で渦を巻き、今まで気づきもしなかったスイッチがオンになった。
「しかし、それでは」
 自分自身のなにか根元的なものが、踏み砕かれる音が聞こえた。
「それではまるで、論理学が幻だと言っているようじゃないか。私たちの認識能力の不足から論理が生じるのだとしたら、それはまるで幻のようなものじゃないか」
 不意に我に返って、恐るおそる彼の顔を見た。彼は論理学者だ。論理とは彼のアイデンティティそのものなのに、それを傷つけてしまったのではないか?
 しかし彼はほのかな微笑を浮かべていた。
「そうだね」
 なにかまぶしいものを見たように、彼は瞼を細める。
「まったくその通りだ、神にとって、論理学など幻だ」
 首を軽く上げ、遠くをみつめる。列車が来たのだろうか。
「しかしね……私たちは人間なんだよ」
 私はふりかえる。のびてゆく線路の消失点に視線を走らせる。しかし、そこに列車の姿はなかった。