ブラウザのお気に入りにありながら、最近は訪れていないサイトがある。新型コロナウイルス感染症についてのNHKの特設サイトだ*1。
一時期はちょくちょくここを訪れては、一日あたりの新規感染者数だの都道府県別の感染者数の推移だのを確認していた。実家があるところは無事なのか、大きな波が来る兆しはないかと胸を騒がせたりもした。
そんなふうにサイトを確認したり、連日決まった時刻にテレビニュースで報道される新規感染者数を眺めたりしながら、ときおり私は感心していた。数をかぞえること、それを広く知らしめることは意味があるのだと。いま起きている現実を具体的な形で広く共有すれば、人々は感染症に恐怖を覚え行動を抑制する。結果として大きな波を乗り越え、感染者数は減少傾向に向かっていく。
なにを当たり前のことをと思われたかもしれない。ただあの頃、私は本当に感心していた。人々の意識の持ちようが現実を変えることが本当にあるのだと。
選挙について「あなたの一票が社会を変える」という類のスローガンに疑問を覚えた者は少なからずいるだろう。立候補したA氏がちょうど一万票、B氏も同じく一万票を獲得した。そんなときなら、あなたがどちらに投票するかでA氏とB氏の当落が確定するわけだから、文字どおり「一票が社会を変える」と云える。だが、そんな機会が訪れることは生涯無いだろう。
これは正しくは次のように解釈すべきだ。「私の一票が社会を変えると信じる者たちが増えれば社会は変わる」と。社会の不条理に抵抗することを誰もがあきらめていてはなにも変わらない。だが、これは鶏と卵の議論にどこか似ている。みながこぞって私と一緒に社会を変えるべく動いてくれるという保証が無いのに、空手形を信じられるはずもない。
そんな理屈っぽいことをつらつら考えた覚えがあるから、新型コロナウイルス感染症についての報道に私は感心したのだろう。ここに保証があった。人は感情で社会を変えることができる。
現実とはなにか。物理的事実の集積だろうか。いや、そもそも人は物理的現実など気にしているだろうか。
ハサミを目にして「短い刃と輪っかをつなげた部品を二つネジで留めたもの」と思ったことはあるだろうか。小学生のとき図工の時間に初めてハサミというものを目にして、しげしげとみつめたときならそんなことを思ったかもしれない。
たいがいの者はただなにかを切りたいと思い、そしてハサミを手にする。ハサミを手にしたとき人は物理的な形状や性質ではなく「薄っぺらいものを切断するための道具」を、いわば機能を目にしている。
ちょっとネット検索で調べてみよう。ハサミはU字形のいわゆる和鋏のほうが歴史が古く、紀元前千年頃にギリシアで羊の毛刈りに用いられたものが現存しているという*2。
想像してみてほしい。かつて誰かが思った。ナイフなどの刃だけでは不充分だ、もっと安全で使いやすいものが欲しいと。頭の中に浮かんできたイメージがハサミという形となり、そして世界に広まった。ハサミを発明した人物の名前は残っておらず、その人がどんな思考をたどったのか窺う術もない。
ビル街を歩いているところを想像してみてほしい。鉄とガラス、コンクリートが水平および垂直に組み合わされた光景が思い浮かぶだろう。装飾が限りなく排除された、あまりにも無機質なモダニズム建築は一九世紀末に生まれた。現代人はもはやそれを当然の風景としか思わない。思想や理念はただの形となる。人々に歴史の堆積を感じさせることもなく、それでも生活に影響を与えながら残り続ける。
現実とは、さまざまな人々の意思や感情が生みだした形や仕組みによって構成されている。このような現実概念をひとまず「構成された現実」と呼ぶことにしよう。
必ずしも善意ばかりが現実を構成しているわけではない。思わず踊りたくなるCMソングに釣られて買ったジャンクフードで健康を害すかもしれないし、政治家たちは耳当たりの良い言葉しか口にせずマスメディアも右に倣えをしているかもしれない。
陰謀論的想像力をたくましくすることはむしろ稀なほうかもしれない。前述のとおり、ハサミの発明者や高層ビルディングの設計者のことを意識することはない。名も無き人々の残した無数の形に囲まれながら生活し、それに疑問を覚えることすらない。
構成された現実は大量消費社会や高度情報化社会が生みだした幻影ではなく、ただの現実だ。強いて言い換えるならコミュニケーションかもしれない。私たちはさまざまな無名の善意や誰かのたくらみの下で、それを意識したりしなかったりしながら暮らしている。
私たち自身もまた誰かの現実を構成している。ほぼ毎週、短文投稿型SNSで私は本の感想を投稿している。その投稿を読む人は私という人物のことを意識するかもしれない。だが恐らく、意識せずにただ文章を読む人のほうが圧倒的に多いだろう。
本稿は近年の国内本格ミステリが現実概念の変容にどのように応答したか論じる。具体的事例として相沢沙呼『medium』を第二章で、北山猛邦『月灯館殺人事件』を第三章にて紹介する*3。第四章では構成された現実を描いていると感じた作品をいくつか挙げ、このような作品が生じた背景について考察したい。
二〇二三年五月、新型コロナウイルス感染症について感染症法上の位置づけが五類へと変わった。ウイルスの危険性が解消されたわけでは決してない。だが気づけば私は前述の特設サイトを覗くことすら回数が減っていた。全数把握から定点把握へと変わり、感染の動向は曇りガラスを透かすように見えづらくなっている。
たしかに感情は社会を変える。だが、それは多くの人の感情を共有する大きな仕組みがあって初めて成り立つものなのかもしれない。