はじめに

 二〇二三年二月に刊行された限界研[編]『現代ミステリとは何か 二〇一〇年代の探偵作家たち』(南雲堂)について、私なりの理解と感想を綴っていこうと思う。
 新進気鋭のミステリ作家たちを論じることで二〇一〇年代のミステリシーンを概観し、現代のミステリとはなにか考察する。円居挽、森川智喜、深緑野分、青崎有吾、白井智之、井上真偽、陸秋槎、斜線堂有紀、阿津川辰海、今村昌弘についての作家論が並んでいる。くわえて竹本竜都によるゲーム論、巻頭では蔓葉信博が二〇一〇年代の傾向について論じている。
 トピックとしてメフィスト評論賞を受賞した琳、坂嶋竜、孔田多紀の三氏が揃い踏みしている*1。面白い試みとしては、SFプロトタイピングという手法で白井智之作品を論じる宮本道人、斜線堂有紀の作家活動をオタクとして論じる詩舞澤沙衣の文章がある。また巻末には二〇〇九年から二〇二二年にかけて代表的な探偵小説と世の中の出来事をまとめた年表を収録している。
 なお限界研は過去にも『探偵小説のクリティカル・ターン』(二〇〇八年)、『21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊』(二〇一二年)とミステリ評論書を刊行している。ちなみに『21世紀探偵小説』に参加した藤田直哉が二〇一八年に刊行した『娯楽としての炎上』は本格ミステリ大賞評論・研究部門の候補作となった。同じく渡邉大輔も近々ミステリ評論書『謎解きはどこにある(仮)』を刊行するらしい*2

 まあ、作家論の対象になっている名前からして、広くミステリー全般というよりは国内本格ミステリに重心が偏っている感じがするかな。
 以下、各論について内容紹介と私の感想を書き綴っていく。なお、内容紹介については厳密さよりも「私はこう理解しました」というほうを優先する。評論特有の専門用語や引用内容やもったいぶった言い回しを尊重した要約を作っても多くのミステリファンには理解しがたい文章になる。筆者たちに殺意を抱かれかねない程度まで表現を改めてしまっているので、正確なところはぜひ本のほうで確認してほしい。

蔓葉信博「二〇一〇年代ミステリの小潮流、あるいは現代ミステリの方程式」

 ミステリならびに新本格ミステリについての説明は割愛。二〇一〇年代のミステリには次の四つの潮流があったという。

 なお「ライトミステリ」は蔓葉が以前から提唱していた言葉で、「特殊設定ミステリ」はほぼ自然発生的に以前から使われていた。「異能バトルミステリ」は、明記されていないが恐らく今回初めて蔓葉が提唱するものらしい。「新社会派」は提唱者こそ不明なものの書評などで使われているとのこと(二〇頁)。
 私は興味関心が本格ミステリだけなので「新社会派」がぴんと来ないけれど、それ以外については感覚的に頷ける。ただ細かいところで若干の不一致があった。私はてっきり異能バトルミステリに多重解決/推理バトルや倒叙ミステリも含むと思ったが、どうもそうではないらしい。
 先に用語説明をすると「多重解決」とはひとつの謎に複数の推理をするもの。事件を解決すべく素人探偵たちが集まって一人ずつ推理を述べるが、他の者に矛盾を指摘されるなどして次々と否定されるなんて展開が多い。これは本格ミステリに古くからあるコードとして知られている。
 もう一方の「推理バトル」のほうは同じ多重解決でも推理によるバトルがあるもの、推理の説得力が登場人物たちの命運と密接に関係するような作品を指す。たとえば殺人事件が起きてAはBこそが犯人だと推理を述べる。そこでBが、いや本当の犯人はAのほうなんだと別の推理を披露したりする。私は個人的にそう使いわけているけれど一般的に認知されているわけではない。
 二〇一〇年代は深水黎一郎『ミステリー・アリーナ』(二〇一五年)、井上真偽〈その可能性はすでに考えた〉シリーズや白井智之の一連の作品といった多重解決/推理バトルものが年度末ミステリランキングをにぎわせた*4。知的バトルが若者向けサブカルチャーで流行し、それがライトミステリに、そして本格ミステリにも波及した。具体的には探偵と犯人が対決する構図の強調として、多重解決/推理バトルや倒叙ミステリというコードで現れたという理解の仕方をした。
 ところが異能バトルミステリについての文章を慎重に読むと、明確には多重解決/推理バトルものが含まれるとは書かれていない(推理バトルものである城平京『虚構推理』や似鳥鶏『推理大戦』が挙がってはいるが)。これはツイッターで蔓葉氏に直接回答を頂けた。結論としては含まないらしい。ただ二〇一〇年代に多重解決/推理バトルが流行したことは蔓葉氏も感じていたとのことで、機会があれば再考したいとのこと*5

琳「シャーロック・セミオシス――円居挽論」

 これは面白かった。ざっくり私の理解を書くと次のようになる。
 井上貴翔「〈拡散〉と〈集中〉をこえて」は、空気を読むという世間の風潮に応答した作品として米澤穂信『インシテミル』(二〇〇七年)と円居挽『丸太町ルヴォワール』(二〇〇九年)を同列に論じた。しかし『インシテミル』は空気に毒され思考を放棄するリアルな光景を描いたのに対し『丸太町~』は精緻な推理を以て世間の風潮に抗ってみせたという質の違いがあると指摘する*6
 ちょっと井上貴翔の肩を持っておくと、これらの作品に質の違いがあることは井上も意識しており、単純な同列扱いはしていない。「〈拡散〉と〈集中〉をこえて」に目を通してみると『インシテミル』は四章「推理と『空気』という問題系」で、主に学園ミステリで空気を描くことの比重が高まっているという文脈で触れられている。『丸太町~』は五章「推理それ自体の前景化」で、推理がもはや客観的真実を探るための道具ではなく推理それ自体が目的化しているという文脈で触れられている。『インシテミル』は空気を読めと主張する者たちによって推理が省みられず思考放棄に至るが、『丸太町~』は推理そのものが空虚と化しているわけだ。
 要するに両者の主張の違いは『丸太町~』が空気を読むという風潮に抗っている(琳)のか、それともただ反映しているだけ(井上)なのかにある。恐らくこれらの主張の違いは、まんが・アニメ的リアリズムと自然主義的リアリズムどちらの文脈に沿って作品を読み解いたかに起因しているのではないか。
 井上は『丸太町~』について作中のディベート的なやりとりに着目している。そこでは推理の論理性よりもハッタリで勝ち負けを印象づけることが重視される(井上は言及していないが、作中の私的裁判では証拠品のすり替えといったインチキが横行しているという設定もある)。推理こそしているものの真実より雰囲気が重視され、空気を読む風潮を反映している点に着目すれば『インシテミル』と同列ということになる。
 琳は『丸太町~』の登場人物たちが変装などによって自在に入れ替わる、作り物の世界にしか登場しそうにない非現実的なキャラクターであることに注目する。推理を披露することでキャラクターとしての存在感を高めることができる。現実世界においても人々は空気を読み、自身のキャラクターを演じなければならない風潮がある。いわば推理を通じたコミュニケーションによって他者に認められ、尊厳を守ることが真実の探求よりも優先される。
 現実的に考えれば、それは夢物語だ。とっさにでたらめの推理を並べ立てて人を煙に巻き、魅了することができる者など現実にはいない。しかし『丸太町~』は小説だ。作り物だからこそ、およそ現実的ではないスーパーヒーローじみた者たちの活躍に人々は魅了され、現実世界の憂さを忘れることができる。そういう形で、空気を読まなければならない風潮に抗っている。だから『インシテミル』と同列ではない。
 こうして両者を比較してみると推理行為の二面性に深い感慨を覚える。人生を左右するほどの困難な問題にぶつかった者にとって推理は極めて現実的な手段だ。それでいて「そんな長ったらしい理屈を思いつく奴が現実にいるか」「都合よく手掛かりが転がっているわけないだろ」「なんだってことごとく他の仮説を否定できる状況が整ってるんだ」といった、本格ミステリファンなら耳を塞ぐ野次が飛んでくるという意味では推理は非現実的な、おとぎ話の産物だ。
 一人の立会人としては、とどのつまり両者は作品のどこに注目するか選択のポイントが異なるだけで、どちらか一方だけが決定的に誤っているとは感じない。琳のほうが作品読解としては深いことを述べていると感じるが、井上は状況論として数多くの作品のひとつとして言及しており、文章量の時点でハンデがある。ただ私としては琳のパラダイム、すなわち物語はただ鏡のように現実世界を反映するのではなく、夢想によって現実に抗うことができるという考え方に拍手を送りたい*7

 [4/18 追記]申し訳ありません、以下の指摘は私のほうの誤解でした。キングレオ=探偵の意味で記述していないとのこと。琳氏からツイッターで指摘を頂きました。
 蛇足だが、次の箇所は恐らく誤解されているかと思うので指摘しておこう(四八頁)。

 [中略]こうした探偵の推理が、キングレオのリアリティを高め彼を読者の記憶の中に生き永らえさせる事は明らかであって、本編は「探偵の、精緻きわまりない推理という第二の光輪」が、キャラクターを「無意味の荒野」から解き放つ、笠井のいう「探偵小説」としか言いようのない物語なのだ。

 いやいや、光輪は被害者に捧げるものであって、探偵(キングレオ)のためのものではない。
 笠井潔は一九二〇年代から三〇年代にかけて英米で探偵小説が黄金期を迎えたのは第一次世界大戦という大量死の経験にあるとする大戦間探偵小説論を唱えた。探偵小説に描かれる被害者は、犯人の狡知をつくした犯行計画、そして探偵の精緻きわまりない推理という二重の光輪によって、戦場での死という匿名性から救われることができる。念のため『探偵小説論』からも引用しておこう(二五頁)*8

 探偵小説は死者に、二重の光輪を意図的に授けようとする。探偵小説の被害者は、機関銃で泥人形さながらに撃ち倒された塹壕の死者とは比較にならないほど、栄光ある特権的な存在である。なぜなら犯人は、狡知をつくして犯行計画を練りあげ、それを周到に実行するのだから。探偵小説における死者は、大量死をとげた戦場の死者とは異なる固有の死者、意味ある死者、ようするに名前のある死者である。
 しかも、犯人が死者に与えた第一の光輪に加えて、さらに探偵は事件の被害者に、第二の光輪をもたらす。狡知をつくした犯罪の真相を、探偵が精緻きわまりない推理で暴露する結末において、被害者の存在はさらに特権化されるのだ。このようにしてポオの創造になる、「謎―解明」を物語的骨格とした奇妙な小説形式は、第一次大戦後に到来した群衆の時代において、急速に発展するための条件が与えられた。

 要するに大戦間探偵小説論は、探偵小説の精神とは死者の哀悼にあるという主張だ*9。生者である探偵の実存など、笠井にとっての探偵小説にしてみればどうもよいものでしかないだろう。

孔田多紀「燃ゆる闘魂――森川智喜論」

 ゴメン、これはよくわからなった。評論特有の難しい言葉をほとんど使わず、文章は読みやすい。それでいて論の筋道がよくわからないところがある。
 まず全体的な趣旨については〝そうした「特殊設定ミステリ」の観点から、二〇一〇年代におけるそのフロントランナーともいうべき森川智喜の諸作を読み、彼の新規性の秘密を覗いてみようというのが、本稿の趣旨〟(五五頁)という記述がある。なるほど、森川智喜作品のどこが目新しいのか教えてくれるらしい。
 まずは特殊設定ミステリについての話から。特殊設定ミステリの本質は、特殊設定が謎解きに不可欠な要素として組み込まれているかどうかにあると考える。特殊設定の特殊さは大きいものもあれば小さいものもあり、非現実的な超自然現象に限定されるものではない。つまり一般的なミステリと特殊設定ミステリとの間に明確な境界はなく連続している。
 そこで目をジャンルの外に向けてみよう。非現実的な設定を真に受けて、法則性(ルール)を理解し問題を解決していく類の物語はたくさんある(たとえば『ドラえもん』『DEATH NOTE』『ジョジョの奇妙な冒険』)。それなら本格ミステリも推理によってルールを理解し、問題を解決する物語として一般化できないか。逆に言えば、他のジャンル作品にはないミステリ特有の興趣はどうやって生じるのか。
 森川智喜はそれを、ルールの遵守を巡る作者と読者との緊張関係にあると捉えているのではないか。本来なら作者の恣意的な設定でしかないルールをあえて真に受け、作者がきちんと守っているか読者は精査する。そのような緊張関係があるか否かが、本格ミステリとそれ以外との線引きとなる。
 そういった関係は必ずしも謎解きでなくとも登場人物同士のバトルを通じて描くことも可能だ。私の理解では、謎解きという形にとらわれないラディカルさ、本格ミステリをジャンル外の物語と比較し一般化した上で捉えなおす姿勢こそ森川智喜作品の新しさだ、というのがこの論の主旨なのだと思う。
 まず『キャットフード』(二〇一〇年)は「自然的」「人工的」二系統のルールがあるせいで話が複雑になってしまっている。ここで「自然的」とは物理法則のように破りようがない絶対的なルール、「人工的」とは法律のように意思次第では破ることができるルールを指す。
 それにくらべて『スノーホワイト』(二〇一三年)や『踊る人形』(二〇一三年)は「人工的」なルールを後退させたおかげで、ルールを駆使して三途川理が私利私欲に走るのを防ぐバトルを描くことが中心になり、優れた本格ミステリとなった。誤解のないよう言い添えると、前述のとおり森川智喜にとって本格ミステリとはルールを巡る作者と読者との緊張関係にある。バトルに話を絞ることでその緊張関係をより洗練した形で描くことが可能になった。その意味で「優れた本格ミステリとなった」というわけ。
 逆に『バベルノトウ』(二〇一七年)では言語の混乱や殺人事件まで起きたことでバトルが浮いてしまったため良くない。『トランプソルジャーズ』(二〇一六年)はバトルというテーマの重要性が凝縮されている。なぜなら、この作品ではそれまでルールに従うことしか知らなかった者が、三途川理のようにルールを使う側へ覚醒する姿を描いているから。

 と、ここまで私なりの理解を書き綴ってきたけれど若干自信がない。なぜかというと『キャットフード』について〝デビュー作の時点ですでにこの「自然的」「人工的」という、異なる二系統のルールに着目したことにこそ、森川智喜の独自性がある〟(六五頁)と記述されており、上記の私の理解と大きく矛盾するから。
 ここを読んで私は「なるほど、ルールを二種類にわけたことが森川智喜の新規性、すなわちこの稿全体の主張なのか」と思いこみ、それが『スノーホワイト』『踊る人形』ではむしろ人工的ルールなど無いほうが良い、自然的なルールに絞ってバトルを描くことに絞ったので良くなったという話に進んだため、すっかり混乱してしまった。孔田としては「独自性こそあったものの、後になってふりかえるとむしろ邪魔だったね」くらいの軽い気持ちで書いただけだったのか、それとも私がなにか理解を誤っているのか。
 いずれにせよ、ジャンル外にも広く視野を向けて本格ミステリを捉え直し、多様な読者を想定して丁寧に論を進めていく姿勢には好感を抱いた。「ジャンルの定義なんてどうでもいい。面白いかどうかが問題だ」という意見をみかけると、私は「面白いかどうかが問題だからこそ、ジャンルの定義が重要なのでは」と疑問を覚える。作者や出版社から読者へ、読者から読者へ、なにが面白いか伝えるには言葉が必要になり、言葉についての共通理解が必要になる。共通理解は自然に生じるものではなく、言葉を交わすことでしか醸成されない。理解しあっているふりをして慣れあうよりは、無理解を悲しみながら手探りで言葉を紡いでいきたい。

藤井義允「想像としての「社会派」――深緑野分論」

 深緑野分はどのように社会を描いているのか。『オーブランの少女』『戦場のコックたち』『ベルリンは晴れているか』の内容を紹介し、異国の地の戦争というモチーフを志向していることを示す。二十一世紀の日本を生きる深緑野分にそれらの戦争について当事者としての経験があるはずもない。膨大な資料や映像、小説、ドキュメンタリーを享受し、そこから作品世界を築きあげている。
 深緑は当事者ではないがゆえに、史実には配慮していても加工が入り、独特な距離感がそこに生じる。現代を生きる私たちも戦争の当事者ではない。だからこそ深緑が歴史的事実を押さえ私感を排した上で創造した過去にリアリティを感じる。
 くわえて深緑の作品は過去を舞台にしつつも差別という現代にもつながる問題を描く。そこから作品世界が現代を生きる我々とも地続きだという感覚が生じる。また深緑の作品には本がアイテムとして頻出し、自由の象徴となる。

 とまあ、ざっくりそんなことが書かれており『オーブランの少女』『戦場のコックたち』『ベルリンは晴れているか』の三冊しか読んでいない私でも「そうそう、おっしゃるとおり」と頷いてばかりだった。ここまでの文章を書いていて思いだしたことがあったので、半ば私事だけど綴っておきたい。
 私は理屈っぽい性格をしている。倫理的な問題をツイッターなどでみかけると、あれこれ考えてしまう。たしか『ベルリンは~』を読んだ頃も、子供に見せるのは憚られる類の本を書店の平台に並べることは是か非かという議論があったように思う。
 まあ常識的に考えれば良くないよな、ゾーニングすべきか、でもあまり潔癖すぎるのもむしろ考えものでは。などと賛成と反対それぞれの立場でぐだぐだと考え続け、けっきょくどちらにも結論できず「まあ自分には関係ないか」「下手なことを口にして火の粉がかかってくるのも馬鹿らしい」「専門家や詳しい人に任せればいい」と思考放棄で終わる。そんな自分が未熟者であるかのような気分を覚えていた。
 そんな鬱屈が『ベルリンは~』を読んだことで楽になった。どうしてそうなったのかについては『ベルリンは~』を読んでほしい。七十年以上も昔の遠い異国の地を舞台とした物語のはずなのに「東京は晴れているか」と問う作者の声を耳にしたように感じた。

蔓葉信博「推理と想像のエンターテインメント――青崎有吾論」

 万人に確からしいと感じさせる推理を青崎有吾はどのようにして描いているのか裏染天馬シリーズを題材に論じる。第一節では主に青崎有吾についての紹介、第二節では後期クイーン的問題について説明している。
 後期クイーン的問題、すなわち手がかりから犯人を特定しえない事態の解決策が大別して二つある。ひとつは神や異能力者といった設定を導入する方法。もうひとつは蓋然性の高い仮説を真実とみなして受け入れる方法。裏染天馬シリーズは後者を採用している。
 ちょっと「蓋然性の高い仮説を真実とみなして受け入れる」というのはわかりづらいかと思うので補足する。たとえば密室殺人が起きて、室内に糸の切れ端が落ちていたとする。糸切れという手がかりからトリックを使って密室を作ったと推理するのが一般的なミステリだ。
 しかし可能性としては、別の星から宇宙人がUFOでやってきて人類より遥かに進んだ科学技術で密室を作り、人類には想像もつかない異星に特有の文化から糸切れを落としていったかもしれない。純粋に可能性だけなら、そんな人智を超えた事態が現実に起きたことを否定できない。
 さすがに宇宙人は突飛すぎるが、密室トリックが使われたように見せかけることで他の者に罪を着せるべく糸切れという偽の手がかりを残す奸智に長けた犯人なら現実にいそうだ。しかしまあ、ありえることをなんでもかんでも検討していたらきりがないため、すべての手がかりと整合して最小限の仮定で説明できる最大限にありえそうな仮説で満足しましょうということを意味している。
 話を元に戻して、第三節では具体的に『図書館の殺人』で探偵役の裏染天馬がどのような推理をしたか詳細に検討する。複数の手がかりがどう繋がるのか整合性を検討し、ジグソーパズルのように全体像を想像して、それに当て嵌まる新たな手がかりを探す。このような地道な作業をくりかえしている。一方で『鍵の国星』を巡る推理については結論だけが示され、どのような推理をしたのか作中に描かれていない。読者に委ねられたのかもしれないと仮定し、蔓葉は作中の記述から想像を広げ推理の内容を想像してみせる。
 第四節では裏染の推理法と現代を重ねてみせる。ポスト・トゥルースの時代だからこそ科学的な根拠に基づき、ときには認知バイアスを疑って陰謀論を退け、ごく普通に考えることが大切だ。

 実を言うと私は『図書館の殺人』について、蔓葉とはやや角度の異なる解釈をしている。蔓葉の論を根底から覆すようなものではないが、ここに私論を綴っておきたい*10。なお刊行直後に読んだきりで文庫版すら目を通していないため、なにか勘違いの類はあるかもしれないことをお断りしておく。
 蔓葉も触れているが、裏染は初めダイイングメッセージを手がかりとみなすことを拒否する。なぜなら〝ですが他人が何を考えてたかなんて僕らには絶対わかりません。わかったような気になったとしてもそれは当て推量〟(単行本九〇頁)だからだという。これは蓋然性を重視する裏染の推理法からすれば当然のことだ。
 さきほど例にあげた糸切れからは「密室トリックの痕跡」「密室トリックが用いられたと思わせるための偽の手がかり」「宇宙人が残したもの」という三つの解釈を挙げた。これらのどれが現実的にありえるか蓋然性の高さを順位づけするのは難しくないだろう。
 ところが人の心となるとそうはいかない。人それぞれの事情がある。他人には言えない秘密を抱えていたり、思いがけず奇妙な信念を抱えているかもしれない。下手をすると常識や道徳的判断すら異なっているかもしれない。なにがもっともらしい行動や考えなのか人によって大きく異なるため、なにが蓋然性の高い解釈なのか決定することができない。
 このような裏染の態度、論理から導きだせることのみに耳を傾け人の心に踏みこまない姿勢は『水族館の殺人』の犯人に対する辛辣な態度や「人間のことを知らなすぎる」(一八〇頁)という仙道警部の言葉からも窺える。
 ところが推理を進めた裏染はダイイングメッセージの謎に正面から向き合わざるを得なくなる。つまり、これまで蓋然性の推理に依拠してきた裏染が、人の心を推し量るという苦手な領域に挑むのがこの物語の核心だ*11。袴田柚乃が裏染の過去を探ってよいのか悩むという傍流のエピソードも、この作品が人の心をテーマとしていることを窺わせる。
 蔓葉の論では三節で『鍵の国星』を巡る推理については作中に推理の内容が語られず、想像を必要とされる旨の記述があり、私の読解と同じ方向に至るのかと感じた。ところが四節になると確かなエビデンスに基づいて考えることの重要さといった話になり、どうも上記のような私の解釈は視野に入っていないように感じられる。

宮本道人「特殊設定ミステリプロトタイピングの可能性――白井智之論」

 まず先にSFプロトタイピングを先に説明しなければならない。〝未来を考える際にフィクション作成を土台にする手法〟(一四九頁)とのこと。註記によれば『SFプロトタイピング SFからイノベーションを生み出す新戦略』(早川書房)が詳しいそうだが、あいにく私はそれを読んでいない。後述の内容や〝日本では特に二〇二〇年代に入ってからビジネス業界で注目を集めるようになり、様々な企業が事業開発や新人研修などに取り入れるようになった〟(一四九頁)という記述からして、作品読解をただ教養だけに終わらせずビジネス価値につなげようとする実用主義的な試みらしい。
 今回はそれの特殊設定ミステリ版として白井智之作品を題材にする。以下の四つの要素を分析していく。

 この要素を抽出してみせたのが見事で、ちょっと考えてみたが私には五番目の要素は思い浮かばなかった。最後の節ではこれらの分析結果を踏まえて企業がどのように活用できるか考察している。
 白井智之の作品はエログロや猟奇趣味が注目されがちだが、こうして整理してみるとサブカルチャーの台頭で空想じみた発想がごく身近なものになった現代における社会派の新しい在り方なのかもしれないとさえ思わされる。と言いつつ、最後の節の〝もちろん白井作品的なものは、企業で使うにはあまりに露悪的すぎて、「そのままでは」使えないだろう〟(一六四頁)という文章には思わず吹きだした。

杉田俊介「唯物論的な奇蹟としての推理――井上真偽論」

 先に触れておくと規定枚数の都合で掲載されなった先頭部分が『現代ミステリとは何か 二〇一〇年代の作家たち』(限界研)刊行に寄せて――井上真偽論助走|杉田俊介|noteにて公開されている。
 ポストトゥルースの時代にはなにが真実でなにが虚偽なのかわからず、ただ政治的な勝ち負けしかない。『その可能性はすでに考えた』(二〇一五年)はそれでも論理や公正さの重要性を説く。なぜなら推理を通じて人々は損得勘定と無縁な善意や愛がまだ残されていることを了解できるから。
 まず井上のデビュー長編『恋と禁忌の述語論理プレディケット』(二〇一五年)について紹介する。そこでは恋愛感情が多重解決/推理バトルを通じた頭脳の優劣合戦と重なっている。果たしてマウンティングしあう関係で愛は成立するのか。
 続いて『その可能性は~』のあらすじが紹介される。重要な設定として、上苙丞は奇蹟が存在することを証明するために探偵をしている。不可解な謎を合理的に解決すべくあらゆる可能性を検討する。その上ですべての仮説が否定されたなら、もはや奇蹟だと結論するしかない。つまり上苙はいっそ推理に破れ事件が未解決で終わることを願う探偵ということになる。
 そんな上苙のもとに依頼人が訪れ、新興宗教団体の閉ざされた村で起きた不思議な出来事が本当に奇蹟だったのか検討することになる。上苙はあらゆる仮説検討の末に本物の奇蹟が起きたと結論するが、次々と上苙を論破しようとする人物が現れ挑戦される。物凄く馬鹿げてはいるが可能性としては否定できない、推理というよりは妄説めいた理屈をぶつけられるも「その可能性はすでに考えた」と上苙は決め台詞を放ち否定してみせる。多くのミステリ作品では名探偵が推理を述べてワトソン役からツッコミを受けるが、上苙は探偵ながら逆にツッコミの役割を務めるわけだ。
 論破破りを重ねる上苙だったが、矛盾を突きつけられてしまう。どういうことか? 上苙は依頼人の話から推理し、敵対者たちの妄説を否定する根拠となる新事実をみつけてきた。ところが、それらの新しい事実同士がうまく整合しない。上苙は依頼人の話で前提とされていたことを疑うことで、その矛盾を解消してみせる。だがそこから合理的に事件を説明できる推理が生まれ、奇蹟を証明するという上苙の夢は潰えてしまう。
 神の奇蹟は無かった。しかし人々の必死の想いが絡みあって結果的に奇蹟のごとき現象が起きた。過去の事件だけでなく奇蹟はもうひとつ起きていた。上苙とその敵対者たちはマウンティングしあうだけで本人たちに協力関係の意識は無かったが、結果的には奇蹟に等しいことを実現していた。

 ちょっと誤解しそうになったが、杉田が善意や愛と呼んでいるのは過去の事件における人々のことではなく、上苙とその敵対者たちのほうらしい。
 文字どおりの善意や愛であれば過去の事件における人々の少女への想いを指すだろう。上苙や敵対者たちは相手を言い負かしてやろうとしか思っていなかっただろうが、膝を突きあわせて議論を交わすことで結果的には協力関係に至った。それを善意や愛だと呼んでいる。そう考えないと『恋と禁忌~』と話がつながらない。不毛な意地の張り合いで『恋と禁忌』では愛が成立しなかったが『その可能性は~』は実りある成果を生むことができた。
 助走の文章では後期クイーン的問題について触れられている。平たく言えば上苙は一人だけでなく複数人で頭を寄せあうことで解決できたわけだ。敵対者たちへの反論は前もって用意していたのだから、上苙は自力で矛盾に気づいてもおかしくなかった。その意味で上苙は超人的な、スーパーヒーローじみた名探偵ではない。自信満々で意見を述べて誰かに不備を突っつかれ恥ずかしい想いをしたことは多くの人に覚えがあるだろう。そんな当たり前の人間臭さがある探偵だ。奇蹟の証明を臨む探偵という突飛な設定から、こんな常識的な結論に至ったのが不思議だが。
 その意味で、この作品は後期クイーン的問題の根本的な解決策を提示したわけではない。上苙の考えの矛盾に気づいてくれる者がいなかったら、この解決には至らなかっただろう。しかし重要な示唆を与えているとも感じる。後期クイーン的問題は探偵役の実存と世界の広がりとの間に明確な壁を設けてしまうことから生じるのではないか。いわば本作は、後期クイーン的問題を論理学の問題からコミュニケーションの問題へ視点を変える役割を果たしたのではないか。
 ポストトゥルースの時代に私たちがどう在るべきかという観点では、蔓葉の青崎有吾論との対比が面白い。フェイクニュースの真偽をエビデンスに基づいて検証する人々を便宜上「検証家」とでも呼ぶとしよう。蔓葉は一人ひとりが検証家となることが大切だと訴えかける。もちろん、それは至極真っ当で現実的な主張だ。
 一方で杉田はそうではないと言う。フェイクニュースをまき散らす人々と検証家とが、たとえ敵同士であっても最低限の論理や公正さをわきまえコミュニケーションすることで善意や愛に到達することができる。そんな主張を耳にしたら恐らく大半の人が首を傾げるだろう。理想としては実現可能かもしれないが現実的ではない。
 けれど私は面白いと思う。大切なのは杉田はあくまでフィクションの話をしているということだ。上苙とその敵対者たちのような推理バトルを誰もができるわけではない。だが、けっして起こりえないとは断言できない。もしかしたらそれを為し遂げるのはこれを読んでいるあなたかもしれない。巧みな技巧に裏打ちされた絵空事は現実に対する認識をほんの束の間ではあっても変えることができる。琳の円居挽論にも書いたとおり物語はただ現実を鏡のように反映するだけではない。一般論に頭が凝り固まった人に個別具体例を突きつけ心を揺るがせることができる。

坂嶋竜「我們ウォーメンの時代――陸秋槎論」

 陸秋槎は中国生まれだが、日本のミステリ作品に影響を受けたことを公言している。日本のミステリがどのように中国へ届き、逆に近年の日本で華文ミステリのブームが起こるまでになったか説明する。これはなかなか勉強になったので、かいつまんで箇条書きで書いておこう。

 そんなわけで陸秋槎は新本格の影響を受けている。既存のコードを受け継ぎつつも微妙にずらすことで自分なりの世界を創りあげる、そんな新本格の作法を踏襲している。
 たとえば連作短編集『文学少女対数学少女』(二〇二〇年)は収録された短編のすべてが犯人当て小説を作中作としている。主人公は作者と同じ名前でミステリの創作に苦悩する。このような自己言及性は新本格のコードに由来している。青春小説としてのたたずまいもまた然り。
 一方で陸秋槎は異なる試みもしている。陸秋槎は男性だが、同じ名前を与えた登場人物は女性、性別を反転させている。似た試みをした作家として新本格ムーブメント発祥前にデビューした栗本薫がいる。こちらは作者は女性、登場人物は男性となる。思春期の学生時代ならではの閉じた世界、その時代に特有の自意識を描くことを継承しているのかもしれない。
 また陸秋槎の作品は登場比率が女性に偏っており、女性同士が抱くさまざまな感情の衝突が描かれることが多い。女性の世界を描くことで、新本格を受け継ぎつつも自分なりに逸脱しようとしているのかもしれない。

 いやあ、要約しづらい。細かいニュアンスはぜひ本文を確かめてほしい。
 坂嶋の文章がわかりづらいわけではなく、新本格ムーブメントの性質にややこしさがある。既存のコードを継承しつつも逸脱する、その逸脱すること自体が新本格の精神でもある。だから、どこまでが新本格の影響で、どこからが陸秋槎のオリジナルな世界なのか境界を明示することが難しい。坂嶋も迷いながら書いたのではないかと想像する。
 新本格ムーブメントが一九八七年刊行の綾辻行人『十角館の殺人』を嚆矢とすることは共通見解だが、いつ終わったかとなると人さまざまだ*12。円堂都司昭「シングル・ルームとテーマパーク」では自閉する若者たちとミステリ作品を重ねて論じた*13。現代はマンガやアニメといったサブカルチャーがオタクだけのものから広く一般に愛好されるものへと認識が変わり、SNSの普及によるコミュニケーションの活性化もあって若者たちの自閉というイメージはずいぶん色褪せたものになった。
 翻って陸秋槎の作品を眺めてみると『元年春之祭』や『雪が白いとき、かつそのときに限り』に顕著だが少女たちの闘争が描かれる。少女同士の感情のぶつけ合いがあり、そして息苦しい世間や激動する世界との闘いがあり、少なくとも自閉する若者たちを描いたとは思えない。
 いまや新本格という言葉はあまりにも長い期間を指し、人によって意見も分かれる。新本格との影響関係という観点だけではとりこぼしてしまった細部があるのではないか。

詩舞澤沙衣「作家だって一生推してろ――斜線堂有紀論」

 斜線堂有紀はオタクらしい作家であり、それゆえに成功している。
 箇条書きにすると、こんな感じ。

 あいにく私は斜線堂の小説を『キネマ探偵カレイドミステリー』と『楽園とは探偵の不在なり』の二冊しか読んでおらず「最近の若い小説家はそんなことまでしているのか、大変だなあ」というオッサン臭い感想しか頭に浮かばない。

片上平二郎「あらかじめ壊された探偵たちへ――阿津川辰海論」

 阿津川辰海の作品はどのような形で登場人物の苦悩を描いているのか。
 新本格ムーブメントの初期、八〇年代から二〇〇〇年代初頭にかけては自閉的な若者たちの屈折した自意識を描く青春ミステリが数多く著された。それは後期クイーン的問題によって真実を確実には見抜くことができなくなった苦悩と並行してもいた。世の中の潮流はコミュニケーション消費やゲーム的世界観へ移ったが、近年は新本格的な匂いのある小説が再び勢いを取り戻してきており阿津川辰海もその一人となる。
 阿津川辰海の作品はたとえば『紅蓮館の殺人』における山火事のように時間的制約がよく登場する。登場人物たちは待ち受けている運命に苦悩する。探偵は早熟な人物として描かれ、運命に向かいあって己の未熟さを思い知り苦悩する。いわば名探偵を描くというより、探偵という特権的な座から滑り落ちる姿を描いている。
 一方で阿津川の作品には探偵に先行する存在、兄のような人物も登場する。運命との対決は、この先行者との対立という形へ横滑りする。探偵未満の協働者たちからの助力を得て、探偵としての復活を遂げる。
 しかし悲劇はくり返される。たとえば『蒼海館の殺人』では水害という運命=未来と、家族の悲劇=過去という二重の苦悩がある。未来からの運命を乗り越えても空白の過去から苦悩が再び顔を見せる。探偵はそのようにして挫折と復活をくりかえす。

 正直、上記の文章を読んだだけだと「なんのこっちゃ」と言われるのが落ちだろう。阿津川辰海の作品を読んでいれば「なるほど、この小説もあの小説もモチーフが共通していたのか」と気づきの連続があって面白く感じる。
 要するに阿津川辰海はある種の強迫観念に取り憑かれていて、それが細部だけ形を変えてさまざまな作品として結実しているのではないか。その強迫観念を一言で表すと「苦悩」ということになる。苦悩する作家はスランプに陥って書けなくなってしまうイメージがあるが、阿津川にとってはむしろガソリンみたいなものなんだということ。
 あまり作者本人と作品を重ねすぎるのも良くないとは思うが、たまたま並行して読んでいた『阿津川辰海 読書日記 かくしてミステリー作家は語る〈新鋭奮闘編〉』(光文社)にこんな記述があった(一六〇頁)。ときおり読書スランプに陥ることがあり、そんなときにどうするかという文脈だ。

 そういう時は大抵気分も落ち込んでいることが多いので、読書を起点に生活が崩れ始めます。では、そういう時にはどうするか? 色々気分転換の方法はあると思いますが、私の場合は「一旦底まで沈む」ことをよくします。無理矢理元気になろうと思っても出来ないんですよね。陰鬱な話、暗い話、主人公がボロボロになるまで悩んで苦しむ話、不安を掻き立てられる話……そういうものを読んでいくと、ようやく、この世界に一人じゃないと思えるようになるのです。

 すでに『読書日記』を読んだ方なら承知のとおり、阿津川辰海という作家には全速力のブルドーザーで突っこんでくるような勢いと暑苦しさがある。だからこそ上記のような弱音を意外に感じた。
 だが、これはむしろ自我の強さの裏返しなのかもしれない。短編集『入れ子細工の夜』(二〇二二年)について私はツイッター上でこんな感想を書いたことがある。

 現実と虚構の綱渡りを愉しむ私立探偵、たやすく周囲の環境に染まる若者、どこまでも変転する二人芝居、覆面で正体を隠すことが常識の小世界。さまざまな形のアイデンティティの揺らぎが描かれるが、不安はなく状況を愉しんでいるかのよう。夢野的な実存の危機ではなく、乱歩的な自己変容の戯れ。

 阿津川辰海は強靭な自我を持ちあわせているからこそ、不安を感じさせられる物語に魅了されるのではないか。喩えは悪いが、腕に覚えのある剣豪が自分と同等の力がある者との真剣勝負を待ち望むようなものだ。もちろん人間だから阿津川の精神もときとして不調に陥る。あえて気分が落ちこむ小説を読んで、自分は独りぼっちではないと確認するときもある。
 そこにこそ本格ミステリ作家としての阿津川辰海の才能の秘密があるのではないか。あまりにも自我が強靭すぎればマッドサイエンティストのごとく傲慢になり、論理以外のすべてをかなぐり捨てた狂気の世界に安住してしまう。不安と苦悩を通じて自己を省みる、この世界にはさまざまな人間がひしめいて助けあったりいがみあったりしているんだと思いを馳せる時期があるからこそ、その論理は血の通ったものになるのではないか。

琳「連帯と推理――今村昌弘論」

 リアルと虚構との奇妙なバランスが『屍人荘の殺人』(二〇一七年)にはある。近年のホラー映画では観客の恐怖心を煽るべくゾンビの動きが異様に速いことが多い。そのような流行がこの作品には反映されていない。医学部出身の今村は医学的に考えて動きの遅いゾンビを採用したのではないか。もちろんゾンビそのものはホラー作品にしか登場しない架空の産物だが、あえて虚構を真に受けてリアルさを追求した結果としてそうなった。
 虚構を現実に実装しようとする態度はミステリにも向けられる。探偵役を務める剣崎比留子は徹底したリアリストであり、ワトソン役を託した葉村譲のミステリ好きならではの偏見を指摘する。ホラー映画でゾンビに詳しくなっても現実の脅威には歯が立たない。それはミステリもまた同じだ。
 剣崎の謎解きを通じて葉村は、他者を一面的にしか見ず悪人だと決めつけていた自分に気づく。いわば剣崎は虚構に踊らされている人々に現実を突きつけ、無自覚に抱えている偏見に気づかせ立場の異なる人々を調停する役割を務めている。

 少し琳の論について補足を試みたい。なんというか、論の結論については全面的に同意するが、出発点が示されていないと感じる。琳も意識しているかもしれないが、読み直してみてもハッキリしない。しょうがないので私の言葉で綴ってしまうことにする*14
 剣崎は偏見に目が曇った人たちを調停できる新時代の探偵だというのはなるほど納得した。では、なぜ剣崎にそんなことが可能なのか。歴代の名探偵たちとなにが異なるのか。
 まず剣崎が徹底したリアリストということにある。巧みなことに、剣崎がリアリストである理由こそ虚構そのものだ。呪いにも似た体質のせいで奇怪な事件に引き寄せられやすく、三ヶ月に一度は死体を目にするのだという(単行本一九九頁)。剣崎は真実を知るためではなく、ただ自身が生き延びるためになりふり構わず手だてを尽くそうとする。推理力はその副産物に過ぎない。ここにも虚構を真に受けてリアルさへ転じさせる姿勢がある。
 なぜ剣崎は人々に己の偏見に気づかせることができるのか。それは剣崎には観念や思想やイデオロギーやオタクのマニアックな趣味に付き合っている暇などないからだろう。たとえ身近な相手であっても疑いの目を向け、穏やかな笑顔の裏に自分への殺意が潜んでいないか探る。そんな危機意識こそが剣崎に現実をみつめさせる。
 これが推理法にも表れる。剣崎は密室殺人が起きても、それをどうやって成し遂げたかハウダニットには興味を示さない。犯人がなにを望んだのか、どうしたいのかホワイの側面を敏感に捉える(一四一頁)。つまり剣崎は犯人がどのような魂胆を秘めているのか、事件全体の絵図を真っ先に読み解こうとする。犯人の奸計から逃れ、生き延びるための戦略として剣崎はそのような推理法を鍛えてきたのではないか。
 シャーロック・ホームズであれば科学的知識と冒険心。エラリー・クイーンであれば高度な論理操作。時代の要請に応じて名探偵たちは、読者にこれなら現実を曇りなくみつめることができるだろうと信頼されるための武器を携えてきた。東日本大震災の影響が色濃い映画『君の名は。』や『シン・ゴジラ』が上映されたのは二〇一六年、今村が『屍人荘の殺人』でデビューする前年だった。かつては千年に一度の大地震によって原子力発電所がメルトダウンするなど、ゾンビが襲ってきたり奇怪な事件を引き寄せる呪いと同等の虚構に過ぎなかった。一寸先は闇の時代に剣崎はサバイバル精神という新しい武器を携えて現れた名探偵ではなかったか。

竹本竜都「謎を分割せよ――「本格推理ゲーム」とSOMI論」

 デジタルゲームにおけるミステリゲームの名作として『ポートピア連続殺人事件』『かまいたちの夜』『逆転裁判』『ダンガンロンパ』を紹介する。
 これらは本格推理小説のようでいて、小説をただそのままゲーム化したものではない。ゲーム操作による問題の解決の連続、すなわち攻略という形に落としこんでいる。
 多くの長編ミステリではさまざまな謎が提示され、終盤の謎解きで名探偵が一気にそれらの真相を説明する。数多くの謎が一気に解けることで読者はカタストロフィを味わうことができる。
 しかしゲームでは、一方的に謎ばかり提示されるのを見守っているわけにいかない。小さな謎が提示され、ゲーム操作を通じて解くことで物語が進行し、新たな謎が提示される。あたかもプレイヤー自身が名探偵となって事件を解決したかのような体験をさせなければならない。
 これを踏まえた上で韓国のインディーゲーム制作者SOMIによる「罪悪感三部作」と呼ばれるゲーム"Replica", "Legal Dungeon", "The Wake"について紹介していく。本格推理小説は一定の形式の枠組みで試行錯誤しつつ、ときに枠組みから逸脱してきた。罪悪感三部作から、ゲームはそのアーキテクチャの性質上、枠組みから比較的逸脱しやすいことがわかる。

 私はデジタルゲームの経験がほぼ無いが、謎の分割については近年のミステリも似た傾向があるように感じる。具体的には連作短編の流行だ。
 ひとつひとつは独立した短編だが、最後の作品で実はそれまでの作品に忍ばせていた伏線が目を覚まし長編としての結構を現す。これは東京創元社の「日常の謎」派の作品でよく使われた手法だ。何気ない日常でみかけたささやかな、しかし容易には説明のつかない出来事の背景を解き明かす。なにせ扱う題材が日常的なものだけに長編は書きづらく、かといって短編集として終わるのでは印象が薄くなる。そんな事情から連作短編という形態が広まったのではないか*15
 蔓葉の序文にあるとおり二〇一〇年代にはライトな作風のミステリが流行した。仮説検討や謎解きだけで何十ページも必要になる大事件ではライトと言えない。小さな事件を重ねながら登場人物同士の関係性が少しずつ変わっていくというスタイルが採られるようになったと推察される。
 もちろん謎を小出しにする特徴は同じでも、そうなった事情はゲームと連作短編とでは大きく異なる。ライトミステリの場合は、情報技術の発達と浸透にともないSNSやネット動画、ゲームといった数多くのメディアと可処分時間の奪い合いをしなければならない現代に重厚長大な作品は敬遠されるという事情なのかもしれない。

蔓葉信博「あとがきに代わる四つのエッセイ、あるいはミステリの未来に向けて」

 あとがきから読む人を想定しているとのことなので、ここを先に読んでも大丈夫。
 箇条書きで書くと次のとおり。

おわりに

 こうしてふりかえってみるとやはり十年という歳月は長いと感じる。
 二〇一一年には東日本大震災があった。あまり安易に世の中の大きな不幸と創作行為を結びつけるのは不謹慎のそしりを逃れられない。けれど、上述のとおり今村昌弘『屍人荘の殺人』が映画『君の名は。』や『シン・ゴジラ』とほぼ同じ頃に世にでたこと、ライトミステリから前衛的な試みへ読者が求める潮流が変化したことは偶然ではないのかもしれないと考えてしまう。
 くわえて二〇一〇年代といえば人々の分断が進んだことが挙げられるだろう。政治と社会、二つの分断がある。政治のほうは二〇一六年のアメリカ大統領選にてドナルド・トランプが勝利したことに象徴されるポスト・トゥルース時代の幕開けがある。客観的真偽が省みられず感情を動員した者が政治的勝利を収めるという風潮がどれだけミステリに影響を与えたかは上述のとおり。
 社会のほうは二〇一六年に相模原市の障害者施設で起きた連続殺傷事件や、二〇一九年に池袋で乗用車を暴走させ過失運転致死傷の罪に問われた人物が「上級国民」呼ばわりされた事件を思いだす。IT分野の立ち遅れや賃金水準といった形で国力の衰えが誰の目にも明らかになっていった時期でもあった。新社会派はもちろん異能バトルミステリも、無理解な人々が争いあい生き残るため必死にならなければならない世の中の非情な雰囲気を反映しているのかもしれない。
 その一方でただ世の中の移ろいを反映するだけでなく、絵空事は絵空事なりの責任を果たしてきた。人々が分断され客観的真偽など誰も気にかけない時代に、本格ミステリは説得力のある巧妙な嘘を探してきた。それは本格ミステリが自身の形を問い直し、変容していく過程でもあったと思う。実存とコミュニケーション、エビデンスと心理的洞察、リアリズムと空想的設定。さまざまな手段を弄して本格ミステリもまた生き残っていくことを願う。