特殊設定ミステリの流行

 二〇二一年は「特殊設定ミステリ」という言葉をよくみかけた年だった。
 二月にはTwitter上で特殊設定ミステリとはなにか、この用語が使われ始めたのはいつかというやりとりがされた。

 紙媒体では『ミステリマガジン』(早川書房)二〇二一年五月号で特集「特殊設定ミステリの楽しみ」が、『文蔵』(PHP文芸文庫)二〇二一年十二月号では特集「特殊設定ミステリが面白い」が組まれた。
 また『小説現代』(講談社)二〇二一年九月号の「令和探偵小説の進化と深化」特集では「特殊設定ミステリー座談会」が開かれ、相沢沙呼、青崎有吾、今村昌弘、斜線堂有紀、似鳥鶏が参加した。これはネット上でも公開されている。

 言うまでもないが、これらは背景として特殊設定ミステリとみなされる作品が多数生まれ、活況を呈しているからこその動きだ。
 ここまでいろいろと挙げてきた文章を読んで、自分なりに特殊設定ミステリについて考えたことを整理しておきたい。

特殊設定ミステリの定義

 まずは特殊設定ミステリとはなにか、他のミステリ作品との差異はなにか考えてみよう。
 一般的には特殊設定ミステリとは (トクシュセッテイミステリとは) [単語記事] - ニコニコ大百科の説明が簡潔で良いと思う。なお、この記事はいったい誰が書いたのか、充実した内容で読んでいて面白い。

特殊設定ミステリとは、SFやファンタジー、ホラーなどの設定を用いて、現実世界とは異なる特殊なルールを導入したミステリー作品のこと。

 千街晶之が『文蔵』二〇二一年十二月号に寄せた「独自の世界と極上の謎が絡み合う小説25選」の冒頭では次のように類似の説明をしている(一四頁)。
 蛇足だが、スーパーナチュラルといえば超自然的な存在や現象だ。パラレルワールドや異世界はその世界の登場人物たちにとっては当然の現実に過ぎないのだからスーパーナチュラルと呼ぶのは若干違和感を覚えるが、恐らく「読者にとって現実には起こりえない事象全般」くらいの意味で使っているのだろう。

 (略)本来、合理的な空間であるべきミステリの作品世界に、パラレルワールド、異世界、タイムスリップといったSF的(あるいはファンタジー的)設定を組み込んだり、幽霊や宇宙人などの実在を前提とするなど、スーパーナチュラルな要素を同居させたミステリのことを指す。ただし、二つの要素がただ同居しているのではなく、スーパーナチュラルな要素が謎解きのためのルールに密接に組み込まれていることが重要である。

 個人的なことを語ると、かつて「特殊設定ミステリ」はほぼ「SFミステリ」と同義という受け止め方をしていた。
 前述のTogetterに依れば「特殊設定ミステリ」という用語が商業誌で確認された最古の例は『本の雑誌』(本の雑誌社)二〇〇五年八月号に掲載された大森望の文章だと本人が投稿している。ただし「特殊ルールでしか実現できない」といった他の言い回しではもっと遡ることができるという。
 現実からかけ離れた設定のあるミステリ作品は古くから存在する。海外作品では、人を傷つけることはできないはずのロボットが殺人を為したかのような状況を描くアイザック・アシモフ『鋼鉄都市』(一九五四年)や、魔法が実在する世界を描くランドル・ギャレット『魔術師が多すぎる』(一九六六年)などが知られていた。
 一九八七年刊行の綾辻行人『十角館の殺人』に端を欲する、いわゆる新本格ムーブメントでは「ジャンル・クロスオーバー」という言葉をよく耳にした。SFやホラー、ファンタジーといった他ジャンルとミステリとの融合を意味する言葉だ。
 山口雅也『生ける屍の死』(一九八九年)なら、ゾンビという題材からしてホラーだろう。綾辻行人『霧越邸殺人事件』(一九九〇年)は幻想小説、あるいはゴシック小説か。西澤保彦は『七回死んだ男』(一九九五年)に代表されるようなSFロジックとミステリを融合させた作品を数多く生みだした。
 ゼロ年代頃の私にとって「特殊設定」すなわち「特殊ルール」「SF的なロジック」のことだった。さきほど挙げた『生ける屍の死』はゾンビが登場するのだからジャンルとしてはホラーだ。しかしミステリとして重要なのは死者が蘇るという法則が謎解きに関わってくることであり、ゾンビの恐ろしさではない。
 千街の文章を借りれば〝スーパーナチュラルな要素が謎解きのためのルールに密接に組み込まれている〟ことが本質だった。そのようなルールを用いると副次的に物語世界がSF、ホラー、ファンタジーといった周辺ジャンルに属するものになったに過ぎない。

特殊設定ミステリの境界

 スーパーナチュラルな要素があれば即、特殊設定ミステリになるわけではない。前掲した『小説現代』の座談会で、似鳥鶏がわかりやすい例を挙げている。
 赤川次郎〈三毛猫ホームズ〉シリーズでは、主人公の刑事が飼い猫のホームズに謎解きのヒントを与えられる。名探偵の頭脳を有し意思疎通できる猫というスーパーナチュラルな要素が登場するものの、名探偵が猫という設定と謎解きのロジックにそれほど深い関わりはないため特殊設定ミステリとは言い難い。

似鳥 作中で展開するロジックに“特殊設定”が使われているのか否か、がポイントになってくるのではないでしょうか。
 例えば赤川次郎さんの「三毛猫ホームズ」シリーズでは、猫のホームズが片山刑事に事件解決のためのヒントを示しますよね。では、ホームズを猫ではなく「猫並みのずば抜けた嗅覚や聴覚を持った人間」という設定に置き換えれば“特殊設定ミステリ”になるのか。私はならないと思うんですよ。なぜなら「三毛猫ホームズ」で描かれる推理は、別に「猫のような感覚」を使わずとも成立することが多いから。
 結局、物語の器の部分に特殊な設定を仕込むのか、器の中に注ぐロジックに特殊な設定を絡めるのか。ここが“特殊設定ミステリ”となるかどうかの境界線ではないでしょうか。

 そこで次の疑問が生じてくる。「特殊」とはどの程度を指すのか。
 さきほどの似鳥鶏の発言を、斜線堂有紀は即座に裏返してみせる。過去の時代を舞台とする歴史ミステリも、現代世界とは異なる社会制度や文化風習を描ている。それが謎解きと深くかかわるならば特殊設定ミステリではないか。

斜線堂 私も似鳥さんと同じ意見です。“特殊設定ミステリ”の境界の問題は、歴史ミステリの境界と似ている気がします。謎解きに主眼を置いた歴史ミステリでは、その時代の状況や思想が謎解きのトリックやロジックに関わってくることが多い。これだってある意味では“特殊設定ミステリ”とも言えるかもしれません。
“特殊設定ミステリ”の場合も、“特殊設定”がキャラクターに付与されているにせよ、世界に付与されているにせよ、きちんと謎解きに組み込まれているのかどうか、が鍵になるはずです。

 類似の指摘として『2022本格ミステリ・ベスト10』(原書房/二〇二一年十二月)所収の「「国内本格」座談会」では伊吹亜門『幻月と探偵』について蔓葉信博と嵩平何が次のやりとりをしている(六〇頁)。

蔓葉◆ 満州という複雑な状況だからこそのプロットでしたね。時代ミステリの世界も現代からすれば一種の特殊な状況下なわけで、そこに本格としての可能性を見出しているのでしょう。
嵩平◆ そういうメソッドを多くの作家が取得した結果、逆にそのような時代ものや特殊設定とかに取り組む作家が増えてきてるのかなあと思いました。
蔓葉◆ 余談ですが、時代ミステリだけでなく医療ミステリもそういう側面がありそうですね。それらを特殊設定ミステリだとは考えないですが、影響関係自体は色濃くあるはずです。

 特殊設定ミステリの特集が組まれた『ミステリマガジン』二〇二一年五月号に寄せられた大滝瓶太「作家たちの犯行の記録――特殊設定ミステリ試論」では遂に、ほぼすべての本格ミステリが特殊設定ミステリとみなせるのではないかとまで言われている(一一六頁)。

 では「特殊設定ミステリ」とはなにか?――それについて統一的な定義は存在していない。非現実的な現象が設定されている本格ミステリ作品を指すという主張もあれば、作品固有の設定が推理の核を担っている作品と主張する声もあり、医療や法曹などの専門性が高い知識を利用したミステリだとする者までいて、そして(ぼくのような)ミステリに明るくない読者は「そもそも本格ミステリのほとんどが特殊な設定を前提としているのではないか」と感じていたりと、その解釈は多岐にわたる。

 スーパーナチュラルな要素はないが、特殊設定ミステリらしさを感じる作品はある。たとえば十市社『滑らかな虹』(二〇一七年)では小学校の教室で、特殊な超能力に目覚めたかのようにふるまう「ごっこ遊び」が流行り、それが事件につながっていく。
 ふりかえると石持浅海の長編デビュー作『アイルランドの薔薇』(二〇〇二年)も特殊な設定と呼べるかもしれない。土砂崩れで道が封鎖されるといった物理的な理由ではなく、政治的な事情からクローズドサークルを成立させている。こういった現実世界でも起こりえる特殊なシチュエーションの作品を石持は数多く著している。
 それでは館ミステリはどうだろうか。綾辻行人『十角館の殺人』から始まった〈館〉シリーズなど特徴的な館が舞台となる作品は数多く、館に潜む秘密が謎解きロジックと深く関わることも多い。
 小説は個別具体の世界を描く。固有の場所を舞台に固有の名前を持つ人々が現実には起こらなかった固有のドラマをくりひろげる。完璧に一般的で普遍的な、読者の知る現実から一歩も踏みださない物語などあるはずがない。

 なるほど、大滝の指摘したとおり本格ミステリはすべて特殊設定ミステリなのかもしれない。とはいえ、現実的に考えればどこかに線引きが必要であり、そのわかりやすい境界線がスーパーナチュラルか否かになるだろう。
 言い換えるなら、特殊さの度合いをスペクトラム(連続体)として捉えるべきだ。試しに特殊さの度合いを薄いものから濃いものへと並べてみよう。

日常の謎派
学園ミステリ
お仕事ミステリ
警察小説/医療ミステリ/サイバーミステリ
 ~日常的↑ 非日常的↓~
コード型本格/館ミステリ
時代ミステリ
衒学趣味を扱うミステリ
本格ミステリー/21世紀本格
 ~スーパーナチュラルな要素がない↑ ある↓~
歴史改変/パラレルワールド
SFミステリ

 日常の謎派は北村薫『空飛ぶ馬』(一九九四年)に代表されるような、ありふれた日常に潜む謎を解き明かす作品群だ。殺人さえ起きないのだから、これこそ最大限に一般的なミステリだろう。
 これに影響される形で、私感ではゼロ年代後半頃から学園ミステリが増えてきたと感じる。誰もが覚えのある学校生活を描く学園ミステリにくらべれば、古書店や喫茶店といった仕事場が舞台となるお仕事ミステリはやや特殊と言えるだろう。
 警察や医者、システムエンジニアは現実にある職業であり、その仕事内容は接点のない一般人からすれば非日常だが、当事者からすれば日常の枠内に過ぎない。
 念のため言い添えるが上記の順番は私なりの判断であり、人によって判断が異なることもあるだろう。具体的にどんな作品を思い浮かべるかによっても解釈が変わる。青崎有吾『体育館の殺人』(二〇一二年)のように学園ミステリであっても殺人事件を扱うものがあるし、日常の謎派であっても専門的な知識が登場するもの、加納朋子『魔法飛行』(一九九九三年)のように幻想的な味わいのものもある。上記の並び順はひじょうにざっくりしたもの、便宜的なものに過ぎないことを了解されたい。
 理屈としては現実に可能でも、密室殺人だの奇抜な館での連続殺人だのが現実に起きたニュースとして報道されたことはない。いや、もちろん報道されていないだけで完全犯罪は現実にあったかもしれない……などと妄想してしまうからこそ、このあたりが妥当だろう。
 哲学、宗教、民俗学、妖怪、自然科学といったさまざまな学問や専門知識を活用しなければ解けない殺人事件となると、なおさら現実には起こりえない。時代ミステリをその手前に置いたのは、慣れてくれば特殊が特殊でなくなるからだ。初めて読む者にしてみれば耳慣れない単語ばかりでとまどうが、何冊か読書体験を重ねれば「特殊」は「あたりまえ」に変わってくる。
 島田荘司は『本格ミステリー宣言』で、詩美性のある幻想的な謎が論理的に解体される作品を「本格ミステリー」と呼んだ。さらに書下ろしアンソロジー『21世紀本格』では二十一世紀の本格ミステリーが進む道として脳科学など最新科学を駆使することを提唱した。これらは幻想を描こうとしていること、しかし謎解きは現実の範疇でスーパーナチュラルの境界は越えないことを考え合わせるとこの位置にあるべきかと思う。
 書物の所持が禁じられた世界を描く北山猛邦『少年検閲官』(二〇〇七年)、京都に古くから私的裁判制度が続けられていたという設定の円居挽『丸太町ルヴォワール』(二〇〇九年)、テクノロジーの進化史が異なる市川憂人『ジェリーフィッシュは凍らない』(二〇一六年)。これらの作品で描かれる世界は、現実世界と物理法則まで異なるわけではない。
 それとくらべれば前述の、死者が蘇る山口雅也『生ける屍の死』や同じ時間を何度もループする西澤保彦『七回死んだ男』では物理法則すら異なる世界を描いている。その意味で特殊さの強度がもっとも高いと言えるだろう。
 ここまで長々と綴っておきながらなんではあるが、上記の並びにすっきりしないところがあるのは確かだ。たとえば社会制度や文化風習、常識が異なるだけなら時代ミステリとパラレルワールド作品とは特殊さの強度としては等価ではないか。
 真相に直結するため語りづらいが、なかにはスーパーナチュラルな要素が実在したか否か決定しないタイプの作品もある。スーパーナチュラルな要素があるか否かはわかりやすいため特殊設定ミステリの広義の定義としては便利だが、その境界はそれほど自明ではないということをここに書き記しておこう。

特殊設定ミステリの分類

 前掲の大滝瓶太「作家たちの犯行の記録――特殊設定ミステリ試論」では本格ミステリを次の三要素に絞り、それらのどこに特殊さがあるかによって特殊設定ミステリの分類を試みている(一一七頁)。

   1 系の設定
   2 謎の設定
   3 事件の解決(推理)

 1の「系」という言葉が若干わかりにくいかと思う。具体例として、嵐など災害で外部から孤立した場所すなわちクローズドサークルでの事件を描くものは「閉じた系」と呼んでいる。謎解きにまつわる人物や事物、環境、証言や証拠といった情報、それらの論理的に結びつきが生みだす広がりを指していると解釈できるか。具体例として今村昌弘『屍人荘の殺人』(二〇一七年)や、二人以上の人間を殺した者は地獄へ落とされるという設定の斜線堂有紀『楽園とは探偵の不在なり』(二〇二〇年)を挙げている。
 2は設定の特殊さが解くべき謎を特殊化させた作品だという。たとえば森川智喜『スノーホワイト』(二〇一三年)には、質問をすればなんでも答えてくれる鏡が登場する。このため少女探偵は労せず真相を知ることができるが、依頼人にどうやって真相を知ったのか説明を求められて四苦八苦する。なんでも答えてくれる鏡という特殊設定から、どうすれば真相に納得してもらえるかという風変わりな謎が生まれている。
 3は設定の特殊さが推理の在り方に影響している作品となる。小学生男子の姿をした神様が登場する麻耶雄嵩『神様ゲーム』(二〇〇五年)では、神様の託宣と推理のどちらが正しいのか迷うことになる。清涼院流水『コズミック』(一九九六年)や舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』(二〇〇八年)はあまりにも過剰な推理によって世界が創造されるかのような効果が生まれている。
 正直なところ、この分類は使いづらさを覚える。たとえば2に分類された『スノーホワイト』は鏡の思いがけない使い方が編みだされコンゲーム小説じみた展開へ変容していくことに着目すれば1に分類されるのではないか。また、真実を知るための推理ではなく真相を納得させるための推理を捻りださなければならないのは3ではないかと思う。
 系、謎、推理に分割するという着眼点は優れたものだと感じる。ただ本格ミステリにおいてこれらの要素は相互に密接なつながりがあるため、人によって感心したところが異なれば分類も異なってしまう。

 今村昌弘は『小説現代』の座談会で、特殊設定の範囲による分類を提案している。恐らくはこれに倣ったのか前述のニコニコ大百科でも同じ分類で作品が挙げられている。

今村 “特殊設定ミステリ”をどのように捉えるのか、という話になってきていると思うのですが、私は三つのパターンがあると思っています。
 一つ目は、『サイコメトラーEIJI』のように“特殊な能力”を有した登場人物が探偵役となって、現実の世界で起こった謎を解くパターンです。この場合は世界に特殊な設定は必ずしも必要ない。
 二つ目は“特殊”な世界設定のなかで、普通の人間が事件に巻き込まれるパターン。似鳥さんの『生まれつきの花 警視庁花人犯罪対策班』(河出書房新社)や、斜線堂さんの『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)がこれに当てはまりますね。
(中略)
今村 最後の三つ目は、登場人物と世界設定、どちらも“特殊”というパターン。つまり隅から隅まで反現実的な要素で構成されており、謎解きもそれを前提に組み立てるものです。

 この三つ目の分類には相沢沙呼から〝キャラクターの特殊能力というのは、そもそも「世界そのものが特殊」である場合が多い〟ため、キャラクターが特殊なのか世界設定が特殊なのか分ける必要がないのではと指摘されている。
 私としては、相沢の意見にうなずくと同時に、それでも今村の分類に賛成したい。なぜなら、この分類はわかりやすいからだ。
 相沢の指摘どおり、たとえば超能力者が登場し(キャラクターが特殊)、謎が明かされてみると実は超能力者がもっと数多くいた、超能力者が当たり前のようにいる世界だった(世界設定が特殊)ことが真相と直結している作品は考えられる。
 だが、そのように明かされる真相まで含めて分類するのは未読者の興を削ぐため現実的には難しい。粗筋紹介で明かされる程度の内容で、誰にでも同じ分類ができるくらいがちょうど良い。
 小説を分類するのは難しい。その中にはひとつの世界と呼べるだけの時の流れと空間が広がっている。シリーズ化によって前作までは伏せられていた設定が明かされることもある。ミステリの場合、境界を揺るがす作品だからこそ読者の驚きを得ることができる。必要なのは完璧な分類よりも、創作のネタを考えたり次に読む本を選ぶとき視野を広げてくれる実用的な分類だろう。
 個人的に付け加えるとしたら、特殊設定のルールが読者に明示されているか、あるいは法則を一から探らなければならないタイプかという違いも重要だと感じる。
 後者の具体例として綾辻行人『Another』(二〇〇九年)が挙げられる。見知らぬ土地に越してきた少年が眼帯をしたミステリアスな少女の奇妙なふるまいに当惑させられ、その背景になにがあるのか徐々に明らかになっていく。恐ろしい超常現象を止めるためにはどうすべきなのかルールを探ろうとする物語だ。
 本格ミステリは読者にも推理できるよう、特殊設定のルールについて謎解き前に説明が為されていなければならない。これは多くの本格ミステリファンがうなずくことだろう。しかし、推理に必要な超常現象の法則をあまりに易々と得られてしまってはご都合主義のそしりを受けるのではないか。
 提示されたルールを本当に信頼してよいのか、その確からしさにも配慮すべきだろう。前述のとおり、本格ミステリは境界に挑むジャンルだ。作者から読者へのルール説明であるかのように描写された場面にこそ裏切りが潜んでいるかもしれない。これは次の章で述べる、特殊設定ミステリのリアルさの問題とも関わってくる。

特殊設定ミステリの背景

 二〇一二年六月に刊行された探偵小説研究会[編著]『本格ミステリ・ディケイド300』(原書房)には笹川吉晴「特殊設定ミステリ」という文章があり、次のような書き出しだ(二二四頁)。二〇一二年の時点で特殊設定ミステリは〝普通〟になっていたという。

 SFやホラーなどに類する特殊な設定の本格ミステリも、今やすっかり〝普通〟になった。そもそも本格ミステリ自体、不自然な作為のある人口世界であればこそ成り立つものではないか。ならばそこを統べる理こそ充分に提示されていれば、たとえどんなに現実離れした世界でも本格ミステリは成立するはずである。

 では今年になって特殊設定ミステリが俄然注目されだしたのはなぜか。『小説現代』の座談会で相沢沙呼はアニメや漫画からの影響を指摘している。

相沢 だって、世界に課されたルールを熟知しながら問題を解決していく、という形式の物語は漫画やアニメでは昔から山ほど書かれていたんですよ。ですが、ミステリ業界では今、「“特殊設定ミステリ”が盛り上がってますよね」と言っている。あえて厳しい意見を述べるとするなら「いや、それは他のジャンルから見ると周回遅れ」なのかもしれない。あくまで一般文芸のミステリ業界では、こういったジャンルがやや、亜流のように見られていたこともあるのでしょうか。

 同じく座談会で斜線堂有紀は、特殊設定ミステリのインパクトを指摘している。

斜線堂 認知の広がり、という観点から考えると、“特殊設定ミステリ”は「粗筋のインパクトで読者を惹きつけることができる」という点が有利に働いていると思うんですね。
 なぜなら「インパクトのある粗筋の本を読みたい」というのは、コアなミステリ読者だけではなく、広くエンターテインメント小説を楽しみたいと思っている読者も抱いている欲求なので、“特殊設定ミステリ”は両方の読者層にアピールできるんですよ。

 ここで視点を読み手側から作者側に転じてみよう。デビュー直後から架空の世界を舞台とした本格ミステリを数多く著した作家として北山猛邦がいる。探偵小説研究会[編・著]『本格ミステリこれがベストだ! 2003』(創元推理文庫/二〇〇三年四月)に北山が寄せた「トリック悲観主義」という文章から一部引用する(三七頁)。

 この自己に内在するトリック悲観主義への抵抗、これが北山の書いているミステリです。本格ミステリで描かれるような密室や物理トリックは、現実には到底あり得ないと否定し、冷静に理解しておきながら、新しい一人のミステリ書きとしてそれらを描くにはどうしたらいいのか。クイーンやクリスティの時代はまだ良かった、などと嘆くこともできますが、世界は一九九九年を無事に終えて二一世紀に到達したわけですから、暗い顔で後ろを振り返ってばかりもいられません。状況を打破するために思いつく限りの選択肢を並べ、選んでは過ちを犯し、選んでは過ちを犯しということを繰り返さざるを得ないのかもしれません。しかし選択権が与えられているだけでも、喜ばしいことではあります。

 いま改めて読むと、北山のこの生真面目に思い詰めた文章と現状との落差に複雑な思いを抱かざるを得ない。幼少の頃からアニメや漫画に親しんできたから、自然と奇抜な趣向を取り入れていました。キャッチーな設定で本格ミステリ好きだけでなく広く一般読者の心をつかむことができます。それは、まったくそのとおりだ。良い時代になったものだとつくづく思う。そして、良い時代に至るまでの暗く長い道は忘却されやすい。
 一九五八年に刊行された松本清張『点と線』や『眼の壁』がベストセラーとなり、社会派推理小説全盛の時代を迎え、ミステリはエンターテイメントとして大衆に受容されていく。一方で名探偵や不可能犯罪を描く本格ミステリは絵空事とされ、下火となっていった。
 本格ミステリはリアリズムと相性が悪いのか。むしろ本格ミステリは固有のリアリズムと一蓮托生ではないかと私は思う。
 なぜなら、なにが現実なのか明示されなければ、作者と読者との知的なゲームは成立しないからだ。これは確かに起きたことである、そのような法則はこれこれの条件の下なら確実に成り立つ。そのような論理の基盤なしには確かな推理などあり得ない。
 これを踏まえると北山猛邦の懊悩が理解できる。北山が重視したのは非現実的なトリックを現実に起こりえるものとして読者が納得できる世界を準備することだった。そのためには密室や物理トリックなど現実的には起こりえない本当の世界ではなく、架空の世界でなければならかった。
 新井久幸『書きたい人のためのミステリ入門』(新潮新書/二〇二〇年十二月)の第九章では、新人賞を下読みしてきた経験から特殊設定ミステリについて〝世界が、単なる雰囲気作りのためにしか機能していない〟(一五一頁)作品に対して警鐘を鳴らす。そして特殊設定の必然性を熟慮すべきだと説く(一五二頁)。

 特殊な世界設定であれば、読者はその「世界」でしか味わえない物語を期待する。ミステリで言えば、その世界でしか成立し得ないトリックやロジック、動機である。
 そこで初めて、読者は「なるほど、だからこういう特殊な世界が必要だったのか」と納得してくれるのだ。

 特殊設定ミステリが流行している背景として、絵空事でなければ実感できないリアルが求められているのかもしれない。