《解説》

CRITICA第12号

 評論「暴力と生の狭間で」の一部を試供品として以下に公開します。
 本稿の全文は探偵小説研究会機関誌『CRITICA』第12号に掲載されます。『CRITICA』の詳細、入手方法については以下のリンク先を参照してください。

探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/

「CRITICA」:探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/critica.htm

 構成は以下の通りです。

  • 第一章 理性の暴力
  • 第二章 探偵の暴力
  • 第三章 表現の暴力

 暴力をゲームの破綻と捉えて白井智之『東京結合人間』を精読し、規則の集合としての本格ミステリではなく、他者性と自我の衝突としての本格ミステリという見方を提示します。
 第一章では、暴力の性質について整理します。その上で、暴力とは公正な手段を採らないこと、ゲームを破綻させる行為と定義します。
 第二章では『東京結合人間』における謎解きを詳読し、作中では解が示されない疑問点について検討します。その上で第一章にて提示した観点に沿って、作中の推理について暴力性を考察します。
 第三章では、暴力を他者性と自我の衝突とする見方を紹介します。規則の集合とするだけではゲームの醍醐味を捉えきれないことを、本格ミステリに対する見方と重ね合わせます。暴力によって推理が成立しないかのように見える『東京結合人間』が、むしろ生と暴力の終わりなき衝突によってもたらされる論理を描いていることを示します。
 以下「暴力と生の狭間で」の第一章と第三章を公開します。一部、白井智之『東京結合人間』の作品内容(真相、犯人、トリック)に触れる箇所を、文字色を背景色と同じにすることで隠蔽しています。その箇所を読むには文章をマウスで選択するかボタンを押して下さい。

第一章 理性の暴力

 鈴木智之は『顔の剥奪』において、探偵小説にふたつの暴力があると指摘している。ひとつは言うまでもなく、犯人が被害者にふるう暴力だ。もうひとつは、探偵役が行使する理性の暴力、ジャンルの暴力だという*1

 こうして見ると、探偵小説――本格推理――という物語は、その形式のなかに二重の暴力を内在させているということができる。
 一つは、犯人によって行使される、犯罪行為の暴力である。それは、殺人という究極的な行為のなかで、「人間的」な秩序を解体させるものとして作用し、解かれなければならない「謎」を浮上させる。
 もう一つは、その「謎」に対して、探偵が行使する理性の暴力、あるいはその推理ゲームの妥当性を支えているジャンルの暴力である。探偵は、他者の行為によって「謎」をうがたれた世界に相対して「根無し草の理性」をもって挑み、自らが立てた合理的推論の枠組みのなかで事実を再構築しなければならない。そしてそのためには、他者を自己の主観的秩序のもとに組み込み、それを共同的な真実として承認させるだけの力を必要とする。

 前者はわかりやすい。強いて言えば、暴力行為の描写はミステリの必要条件ではないと反論できる。たとえば北村薫『空飛ぶ馬』(一九八九年)が原点とされる「日常の謎」派の作品は殺人事件を扱わない。しかし鈴木はあらかじめ、探偵小説を〝ジャンルの創成期から黄金時代ともいわれる戦間期の作品〟(三二頁)に絞っている。それでも人殺しを描くことはドラマ作りのためでしかなく、このジャンルの本質ではないと抗弁するだろうか。かといって、大多数の探偵小説で他殺死体が描かれてきた事実までは否定できないだろう。
 後者はどうか。他者を主観的秩序に組みこむとはどういう意味だろう。この結論に至るまでの流れを、やや駆け足で追ってみよう。
 鈴木は数々の探偵小説における死体、なかでも顔についての描写に着目する。謎解きの手掛かりとして精緻に描写されることもあれば、残虐さを嫌うように描写が過度に省略されることもある。さらに探偵小説の特徴として、顔がない死体、毀損され変形した顔がしばしば登場する。死体は探偵役にとって手掛かりになるが、犯人は被害者から顔を奪うことでそれに抵抗する。こうして〝身元を奪われた匿名の死体の表象は、謎解きのゲームでの機能性とは別の次元で、探偵小説の物語空間に独特のリアリティ(現実感)〟(五〇頁)を与えるのだという。
 なぜ、リアリティが生じるのか。一般的に人々は死体を、生きた人間として遇することも、ただの物質として粗雑に扱うこともできない。探偵は死体から人格的存在を想像しようとし、犯人はそれを徹底的に奪う。〝死者=死体を前にして、これをあるいは物へ、あるいは人間へと回収し、秩序化しようとする「表象の闘い」〟(六五頁)が起きる。探偵小説は、仮面の裏に誰が悪辣な笑みをたたえているのかわからない、日常生活の基盤となる信頼関係が損なわれた事態を描く。それを探偵役が回復し、事件の関係者たちに社会を呼び戻すことは、謎解きゲームに還元できない意義がある。
 なるほど、そこまでは納得するとしよう。では、なにが暴力なのだろう。被害者から奪われた顔を取り戻し、事件の関係者たちに日常を取り戻す行為のどこが暴力なのか。
 鈴木は、探偵役が推理を間違う危険性を払拭することはできないと指摘する。推論に過ぎないことを、絶対の真実として登場人物と読者に受け容れさせる。探偵役という一個の主観から下される解釈に事実を従属させる。〝その秩序回復の企てには、一個の構成的主観(探偵あるいはテクスト)が行使する理性の暴力が要求される〟(六九頁)という。
 後期クイーン問題など存在しない。名探偵はどんな悪条件であろうと無謬の真実を獲得し、読者は安心してフェアプレイが約束された謎解きゲームを愉しむことができる。よって鈴木の主張は成立しない。そう結論して本稿を締めくくりたいところだが、やめておこう。
 代わりに、別の形で反論しよう。主観的な正しさを他者に受け容れさせようとすることは、ありふれたことではないか。コミュニケーションの在り方として普遍的なことであり、それを修辞とはいえ暴力と形容するのは不適切だ。
 たとえば、あなたが会社に遅刻し、朝の十一時に隣の席の同僚へ「おはよう」と呼びかけたとしよう。あなたは「十一時といえば昼かもしれないが、今日は出社して初めて顔を合わせるんだし、朝の挨拶をしても構わないだろう」と考えたわけだ。あなたの同僚は「おはよう」と返してくれるかもしれないし、あなたの判断に疑問を抱いて「もう昼だぞ」と言い返すかもしれない。
 探偵役は、推理を語る。どの手掛かりに着目し、どのように推論を紡いだのかすべてを説明する。事件関係者たちは容赦なく疑義を挟み、探偵役はそれに答える。合意形成の過程を経て結論した推理を、主観の押し付けに過ぎない、理性の暴力だと声を荒げるのは妥当だろうか。
 もちろん、探偵役の推理に満足できないこともあるだろう。そのとき事件関係者は別の仮説を立てても良いし、読者はこの作家の次の新作を買わないという形で抗議できる。探偵役が迷探偵だったこと、ミステリとして駄作に過ぎないものを読まされたことはある種の暴力かもしれない。少なくとも、それをジャンルに内在する性質とまでは言い難いだろう。
 ここまでの文章を読んで、次のように感じた方もいるかもしれない。たかが暴力という言葉の使い方ひとつが不適切だったというだけで、目くじらを立て過ぎだ。評論に修辞的文句を使ってなにが悪いと。
 暴力という概念は自明なようでいて、ときに人を錯覚に陥らせる。その奥深さを踏まえた上で、本格ミステリと暴力との関係を探ったならば、興味深い洞察を得ることができるかもしれない。
 本稿は第二章で、暴力をキーワードとして白井智之『東京結合人間』を精読する*2。理性が暴力と化すことはありえるのか。それはどのような条件で成立するのか考えてみたい。だが作品論に入る前に、暴力という概念について性質を確認しておこう。

 殴る、蹴る、凶器をふるう、突き落とす、首を絞める、殺す。暴力という言葉から、多くの人は直接的には肉体的暴力を想起するだろう。痛みを与えられ、望まないことを強いられ、人権が脅かされる事態は根絶されなければならない。法的にも道徳的にも肉体的暴力はルール違反だ。
 言い換えれば、ルールが変われば許容されるのだろうか。戦争で、民間人ではなく戦闘員同士が、戦時国際法を逸脱せず正当な理由で為した殺戮は暴力ではないのか。あるいは「カルネアデスの舟板」はどうだろう。船が難破し、乗組員たちが海に放りだされる。乗組員の一人が波に漂う板切れにつかまった。そこへ、別の者が漂ってくる。二人が板につかまれば、重さを支えきれず沈んでしまうかもしれない。乗組員は後から来た者を突き飛ばし、水死させてしまった。このような緊急避難については、刑法三七条一項に則り処罰の対象とされない。
 こういったケースは法的には許されても、道徳的には許されないと考えるだろうか。しかし道徳は時代によって移り変わるものではないか。日本にセクシャルハラスメント(セクハラ)という概念が広まったのは一九八〇年代の半ばからだ。性的な嫌がらせを精神的な暴力とみなす考えはそれまでにもあっただろう。だがセクハラを巡る民事裁判が数多く起き、男女雇用機会均等法には事業者に対しセクハラの防止が義務づけられた。パワーハラスメントとして一般化され、労働環境の在り方を判断する上での不可欠な観点となっている。
 ここで着目しておきたいのは、特定のふるまいを暴力とみなすか判断するとき「ルールを知らなかった」という言い訳は通用しないことだろう。セクハラという概念が広まり始めたとき、どのような行為をセクハラとみなすのか混乱があった。社内で恋愛関係にあった男女が、その破局の腹いせにセクハラを申し立てた事例のように、どちらが被害者なのか第三者にはわかりづらいケースもある。
 視点を変えて、暴力を取り締まるための暴力はどうか。酒井隆史は『暴力の哲学』にて、暴力を排除しようとする動きがむしろ大きな暴力を招くと述べている*3

 ふつう、日本で観念されている「非暴力」はこの疑似非暴力状態であるにほかなりません。つまり、たんにわたしたちが無力であり、したがって「波風もたてない」というか「波風もたてられない」状態の肯定です。ニーチェのいうロバの「さようさよう」でもあります。この非暴力状態は、わたしたちが無力であればあるほど強化され、そうであればあるほど国家による暴力の独占やその行使を強化します。冒頭で述べた、「暴力はいけません」という声がたかまればたかまるほど、なぜか死刑を求め戦争をのぞむ暴力の肯定の強度がたかまるという逆説をとく鍵のひとつがここにみつかりました。つまり、疑似非暴力状態を肯定すればするほど、その状態をささえる暴力の行使はノーチェックになり、野放図になっていくのです。

 一九九一年、黒人青年のロドニー・キングが白人警官たちから暴行された。その様子はたまたまビデオ撮影されており、後に全米で報道された。翌年の裁判で警官たちは無罪放免とされた。これを契機とするロサンゼルス暴動(ロス蜂起)では、五日間で五十五人が死亡した。
 この裁判の陪審員は、十二人中十人が白人だった。警官たちの弁護団はキングに暴力がふるわれるビデオ映像を証拠として提出し、キングに抵抗の意志があったと分析した。「白人警官が黒人青年に暴力をふるう」映像は「暴力をふるわなければ警官たちが暴力をふるわれていた」ことを示す映像へと変貌した。
 ここには、暴力をふるう側こそ暴力を恐れ、そのために暴力をふるう奇妙な転倒がある。それは国家という大きな枠組みの問題だけではないことに注意してほしい。ひとつの暴力の背後には別の暴力が、より大きな構造的問題が潜んでいる。
 四歳の娘が母親から日常的な虐待をくりかえし受けた末に死亡した、というニュースを耳にしたと思ってほしい。なんてひどい母親だ、親としての資格がないと感じるのは当然だろう。では、その母親を処罰すれば解決するのか。
 娘の父親や他の親族はどうしていたのか。近隣住民はなにも気づかなかったのか。公的機関の介入などにより悲劇を防ぐ手立てがなにかあったのではないか。直情的に暴力を恐れ、ルール違反者のみを断罪して臭いものに蓋をすることは、暴力の根本的な解決とはならない。
 では、誰もルール違反さえしなければ、暴力は存在しないのか。年の離れた兄弟が喧嘩をしている光景を思い浮かべてほしい。中学生になり体格の良くなった兄と、まだ十歳にもならない弟。そんな二人が取っ組み合いをしていたら、弟にアドバンテージを与えるよう兄を諭して当然だろう。ゲームはフェアな条件の下、どちらが勝者となるのか誰にも予測できない状況でプレイされなければならない。
 兄弟喧嘩くらいならば微笑ましい。差別を受けてきた歴史的経緯を省みて、黒人、少数民族、女性などを優遇する政策、アファーマティブ・アクションはどうだろう*4。シェリル・ホップウッドは一九九六年、逆差別を受けたと連邦裁判所に申し立てた。白人の自分がテキサス大学ロースクールに合格できなかったのは、アフリカ系やメキシコ系のアメリカ人を優遇したためだと主張した。事実、シェリルと学業成績やテストの得点が同程度でも、マイノリティの学生は合格していることが確認された。
 過酷な労働を続けていても、生活水準が改善されないワーキングプアの問題についてはどうだろう。厳しい労働環境がスキル向上の機会を奪い、それが良い労働条件の仕事に移ることを妨げる。病気や事故といった不運から仕事を続けることが困難になると、路上生活や自殺へと追いこまれてしまう。生活保護といった社会のセーフティネットはどうあるべきか多様な議論が必要だろう。途上国に対し公平な貿易をすることで、南北間の経済格差を解消しようとするフェアトレードの取り組みのように、ハンディキャップをどう緩和するかはグローバルな問題でもある。
 ここまで述べてきたことを整理しよう。暴力について考えるとき、次の観点がある。なお、これらは次章からの作品論のために準備したものであり、暴力を考える上での観点のすべてだとは言わない。

観点一、所与のルール
観点二、文脈多重性
観点三、ハンディキャップとフェアネス

 直接的には、暴力とはなんらかのルール違反だ。共同体の構成員はルールに束縛されており、逸脱は許されない。ルールは変化し、世の中の変化に個人が追いつけないことさえある。それでも共同体は事後的にルールを協議し、問題とされた行動が暴力に該当するか判断を下す。
 小さな暴力の背後には、大きな暴力が潜んでいる。鉱山のカナリアのごとく、見え難い大きな歪みがあるからこそ、その裂け目に暴力が表出する。AからBへの暴力はBからAへの暴力かもしれず、あるいは名前すら登場しない悪人がどこかにいるのかもしれない。
 直感的には、暴力とは内面の発露だろう。怒り、傲慢、嫉妬、軽蔑。醜い感情が拳となって人を傷つける。だが、想いを遂げる妥当な手段が他にあるならば、処罰の恐れを犯してルールを破る人間は少ないのではないか。大きな格差を良しとせず、公明正大なルールでフェアネスを保証できたならば、暴力の被害は減るだろう。
 暴力の対となる概念は、公正なのかもしれない。誰もが認める正しい手段を採らないことを、暴力と定義しても良い。別の表現をすれば、ゲームの破綻だ。対等の条件で、勝ち負けのわからない勝負を愉しんでいるさまを暴力とは呼ばない。
 先に挙げたみっつの観点は、裏返せばゲームを成立させるための条件だ。観点一と三、すなわちルールとフェアネスがゲームに必要なことは説明不要だろう。観点二として、たとえば政治的圧力といった盤外の事情が勝敗に絡むことは望ましくない。ゲームは文脈多重性を排除すること、閉じた体系であることが望まれる。
 ここまでの論に対して「なんでもかんでも暴力に含めすぎだ」という批判があるかもしれない。肉体的暴力、精神的暴力までは良いとしても、治安体制の在り方やグローバル経済まで暴力の一語に収めるのは無理がある。構造的暴力などという見え難いもの、あいまいで政治的なものを含めてしまうと、焦点がぼやけてしまうのではないか。
 たとえば暴力を観点一、ルール違反のみに限定すればわかりやすいだろう。先に挙げたロドニー・キングの事件であれば、白人警官たちは正当な自衛のため行動したと裁判で認められたのだから、それを暴力と呼ぶのは適切ではない。無論、人種差別は望ましいことではないし、裁判の過程に不当な圧力があったかもしれない。だが、それと暴力の定義とは別問題だという意見があったとしてもおかしくはない。
 平和主義を憲法に掲げ、七十年も継続してきた安寧の日々を「疑似非暴力状態」と呼ぶのは一般的な市民感情から離れ過ぎている。政治的イデオロギーに染まった言い回しは、ミステリ評論に似つかわしくないのかもしれない。この問題については、第三章の宿題とさせてほしい。

...ここから作品論に入ります...

第三章 表現の暴力

 非実在青少年という奇妙な言葉をしばしば目にした時期があった。二〇一〇年二月、東京都青少年保護条例の改正案に使われた文句だ。マンガやアニメ、ゲームに描かれる空想上の人物であっても、十八歳未満として表現されている「非実在青少年」ならば性的対象として肯定的に描写されてはならないとした。規制の範囲が不明確で、広範な創作活動を恣意的な判断で抑圧される恐れがあるとして、大きな反対運動が起きた。
 このときの熱気が印象に残っていたせいだろう、数年後に「ヘイトスピーチ」という言葉を知ったときには、とまどった覚えがある。特定の民族や人種といった、自分の意志では変えることが困難な属性への憎悪表現のことだ。二〇一六年には大阪市で、日本初となるヘイトスピーチの抑止条例が施行された。
 なるほど、差別的な罵詈雑言を口にするのは良くないことだ。だが、それを公権力が禁じるのは話が違う。あなたの意見には反対だが、それを主張する権利は命を賭けて守るというヴォルテールの名言もあるではないか*5
 若くして南北戦争に志願入隊し、後に連邦最高裁判所陪席裁判官に任命されたオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアという人物がいる*6。徴兵制度に反対するリーフレットを配布したチャールズ・シェンクの行為を巡る一九一九年の裁判では、言論の自由を保護する合衆国憲法修正第一条に反しないという意見を述べた。混雑した劇場で「火事だ!」と偽って叫び、パニックを起こしてはならない。明白かつ現在の危険を生じさせる表現は許されないとした。
 同じ年のエイブラムス対アメリカ合衆国事件では、逆にリーフレット配布を有罪とした判決に反対意見を表明している。政府は表現を規制せず、すべての人に発言の機会を与えなければならない。競争原理によって優れた意見が自然と残ることを期待する、思想の自由市場という考え方を提唱した。
 ここで、表現の自由そのものには制約など不要だ、他の権利と衝突したときのみ、どちらを優先すべきか個別検討すればよいという意見もあるだろう。
 たとえば小説家が実在の人物をモデルとし、取材によって知った逸話を作品に仕立てたとしよう。刊行後にそのモデルとした人物からプライバシーを無断で明かされたと裁判沙汰になった。小説家には現実の出来事をフィクションへと昇華し発表する権利があるが、だからといって名誉棄損の罪を免れるわけでもない。表現の自由は保障されるべきだが、表現には責任が伴って然るべきだ。
 では、権利と責任の範囲が個人の範疇を越える場合はどうだろう。文章はときに、それ自体が意志を宿したかのように表現者の手元を離れ、不特定多数を斬りつけるものではないか。
 ヘイトスピーチが正にそれだ。たとえば、あなたがミステリを好きというだけで陰口をたたかれるとしよう。駅前ではスピーカーで聞くに耐えない罵りを聞き、不用意な一言を漏らせば公道で袋叩きの目に遭うかもしれない。不快で恐怖に満ちた終わりのない日々を過ごしているのに、あの人たちはあなたを憎悪しているのではない。攻撃の矛先は集団的属性であって、あなたではない。その無力感、尊厳を奪われながら憎しみをぶつけ返す先のない虚しさはどんなものだろう。
 いわば表現の自由とは、なんらかの良さをもたらすと信じる表現をすることの自由だ。だが、その良さとはなんなのか。混雑した劇場で「火事だ!」と嘘をついてはならない。表現の自由は、人々が大慌てする滑稽な姿を目にしたいという個人の身勝手な欲望のためにあるわけではない。では、公正な表現にしか自由は許されないのか。
 ひとつ、危険な発言をしてみよう。私は大学時代に運転免許を取得したが、二十年以上もペーパードライバーだ。機会があれば運転してみたいと思う。さて、運転をすれば当然、人身事故を起こす確率はゼロではないだろう。先程の文章は公正だったろうか。
 政府統計ポータルサイトe-Statを確認してみると、平成二十八年の交通事故死亡者数は全国で三千九百四人、一日あたり十人強だ。だが、自動車を廃絶しようという運動はみかけたことがない。目的は手段を正当化する。社会全体のメリットになることが明白ならば、人は見知らぬ他人を毎日十人殺し続けることを受け容れる。自動車運転は社会的に認められた行為であり、交通法規の順守やペーパードライバー向けの教習を受けるといった配慮さえしていれば、前述の文章を危険視されることはない。
 たとえリスクがあろうと、社会全体の益になるならば公正な表現となる。効用が明確なら、功利主義的態度で丸く収まるだろう。では、それが不明確な場合はどうか。
 わいせつ表現が青少年の健全な成長を阻害しないと誰が保証できるのか。東京都青少年保護条例の改正案を巡る騒動のときには、表現規制の強化と性犯罪の発生件数には正の相関関係があるという反対意見をみかけた*7。本稿はあくまでミステリ評論に過ぎず、その正否をここでは結論できない。私が述べたいのは次のことだ。統計的根拠や科学的裏付けがなく客観性を証明できなくとも、人は自分の信じる正しさを述べ、他人と意見を闘わせる権利がある。言い換えれば表現の自由とは、政治的信念の自由でもある。

 電車の中に、赤ん坊の泣き声が響く。若い母親が懸命にあやしているが、一向に泣き止みそうにない。母親の隣でうとうとしていた中年男性は、耳障りな声に顔を不快そうに歪め、やがて母親に一言告げた。他の人たちの迷惑も考えてくれませんかと。
 さて、この状況でもっとも暴力的なのは誰だろう。公共の場に赤ちゃんを連れてきた母親だろうか。一時的に赤ん坊を預けられる身近な人物がいない母親が、しかたなく電車に我が子を連れこんだのだとしたら、それは同情すべきことではないか。
 あるいは、安眠を妨害された中年男性だろうか。だが、その男性にだって事情はあったかもしれない。仕事が多忙で睡眠不足が続いており、思わず注意を口にしてしまった。それを非難することは、他人の事情への想像力が欠けている点で中年男性と同じ過ちではないか。
 いっそ、根本的な解決を考えてみよう。家族向け専用車両を設け、そこでは元気いっぱいの子供たちが奇声をあげても構わないとしよう。そう、電車内のルールを決める力がありながら対処をしない鉄道会社こそが暴力の元凶だ。
 おや、誰か忘れていないだろうか。傍若無人なふるまいをして、電車内の罪もない乗客たちを困らせている極悪人を。それは、赤ちゃんだ。公共の場では静寂を守るべしというルールを踏みにじっているのは、力いっぱいに泣き叫んでいる赤ん坊に他ならない。
 言うまでもなく、赤ん坊が暴力をふるうなどとは誰も考えない。人は成長とともに世の中のルールを覚えていくものであり、生まれて間もない赤ん坊にルール遵守を期待することはできない。赤ちゃんは、いわば暴力と生の乖離が始まる前の状態、ゼロ点だ。ありのまま、思うがままに生きることを許されるべき存在だ。
 酒井隆史は『暴力の哲学』にて、非暴力を人々の日常的な生活状況、生そのものとみなす向井孝『暴力論ノート』の見解などを紹介しつつ、次のように記している。

 [略]まず人間がいて必死で生きようとすれば肉体的衝突が生まれるのは当然であると考えて、その前提のうえでルールをとらえ、かつ活用しようとするのか、それとも、肉体的衝突を本来はあってはならないものであり、実際になくすこともできるという「ルールのユートピア」からはじめ、ルールの遵守を人間の生のあり方の最初にもってくるのか。つまり、わたしたちの生がルールに先立つのか、ルールがあってそのおかげでわたしたちがあるのか。後者の発想が浸透してしまっているのが現在の日本社会であることはいうまでもありません。[中略]しかし、それ以前にここで問いたいのは、人間がその生きているという実態――人が生きていれば赤ん坊は泣くだろうし、怒りでわれを失うこともあるだろうし、衝突もあるだろうし、そのあとにはゴミも散乱するだろうし、壁も傷つけられるだろうし、落書きする人間もいるだろうよ、などなど――ではなく、「上から承認されたルール」をふるまいの起点とする考えがここまで全般化した事態は、特定の日付をもつ傾向の帰結であり、きわめて支配的ではあるが趨勢にすぎない――変化は可能でないわけではない――ということです(フーコーの項を参考にしてください)。暴力を代償としない「礼儀」は、この人間が生きているという実態からはじめる指向性の上にしかないとおもいます。もともと社会のうちには複数の異質でときに背反する要素が共存しながら伏在しているものです。わたしたちの身体にさまざまな病原菌をふくむウィルスが共存しているようなものです。あるウィルスが特定の病理として発現するには、複数の条件が必要なのであり――もちろんそのうちに「体質」といったような要素もあるでしょうが、やはりそれも必要条件ではあっても十分条件ではない――それは分析されねばならないのです。

 ようやく宿題を提出できるようだ。なるほど、あらゆる効用が計算され、矛盾なき規約によって善悪を迷いなく判断できる、現世がそんなルールのユートピアだったならば、ルール違反だけを暴力とみなして充分だろう。しかし謎解き物語の名探偵たちはときに犯罪者たちに同情し、不条理な世の中にささやかな抵抗をする。承認されたルールだけを絶対のものとして疑わず、ただ論の確実さのためだけに暴力の定義をルール違反だけに限定するのは、世俗から目を背ける態度ではないか。
 さきほど表現の自由について考えたことを、暴力と生の関係についても適用できるだろう。人は全知ではない。口にする言葉には責任を負うべきだが、それはリスクのある発言をする奴は馬鹿だという意味ではない。暴力も同じだ。誰もがゼロ点を巣立ち、あるべき正しいふるまい方を身に着けていく。だが、ルールのユートピアは未だ成就せず、朝の十一時におはようの挨拶をするだけで小さな混乱が訪れる。暴力に外部は無い。実存とセカイとの齟齬を埋めていく作業は終わりがなく、かと言って逃れるすべもない。

 第一章で挙げた、暴力について考えるためのみっつの観点を思いだしてほしい。それはゲームを成立させるための条件でもあった。では、謎解きゲームにたとえられる本格ミステリはどうだろう。
 第一の観点として、たいがいの探偵役は公序良俗や法の範囲を大きく逸脱する捜査手段を採らないだろう。しかし、犯人はどうか。探偵役とゲームをしたがるのは、よっぽどの自信家だろう。多くの犯罪者は手掛かりを残さぬよう神経をとがらせ、叶うことなら完全犯罪を望む。
 謎解きゲームは作者と読者が争うものであり、ルールの次元が異なると指摘する者もいるだろう。手掛かりを隠さず、地の文に嘘を記述しない。そういったフェアプレイを成立させるためのルールは守られているのではないか。
 しかし、ミステリは意外性も求められる。奇抜なトリックを、斬新な騙りを、奇妙だが筋は通っているロジックを、新しい趣向を読者は求める。意想外の仕掛けを期待する心情をジャンルの特徴として無視できないならば、本格ミステリはルールの遵守だけがすべてとは言い難いだろう。
 第二の観点も怪しい。小説である以上、そこには生身の人間がいる。犯人はなんらかのメリットのため悪を為すのであり、探偵役とのゲームを目的として犯罪を為すわけではない。探偵役対犯人、読者対作者という二重の対立は、それだけで文脈が多重だ。
 フェアプレイという第三の観点なら大丈夫だろうか。多くのボードゲームやスポーツでは、敵と味方が同じ条件で争う。同じ犯人当て小説の問題編に複数の者が挑む場合は、参加者同士で対等の条件と言えるだろう。しかし犯人当ては本格ミステリの一部に過ぎず、謎解きゲームといえば一般的には作者対読者を指す。そこには答えを知っている側と知らない側という無視できない不均衡がある。
 本格ミステリはゲームとして成り立たない、と主張したいわけではない。ただ娯楽小説という形式上、閉じた体系から逸脱しかねない余剰があるのはやむを得ない。卑近な言い方が許されるならば、こういうことだ。本格ミステリとはクソゲーに過ぎない。
 ここで再び見方をひっくり返してみよう。ゲームとは規則がすべてだろうか。ゲームがゲームから逸脱すること、宇宙の真理が盤上に顕現したかのように感じ、ときに人々の絆や人生の意義を見出すこと、それもゲームの醍醐味のひとつではないか。
 スポーツ中継の番組で、ボールがどう動いたか軌跡だけを追って満足する視聴者は稀だろう。選手の超人的な動きを、我が身とくらべて感嘆する。インタビューで勝利を喜ぶ名プレイヤーの声に共感し、地元チームを応援してスタジアムの大観衆と一体になる。棋譜を読み解くだけで指し手の性格や人となりが感じられ、カードのやりとりでは普段のふるまいを思い起こし表情から相手の心理を読みとろうとする。
 ゲーム産業にはナラティブという用語がある*8。人によって定義に幅があるが、おおむねゲーム操作を通じたプレイヤーの主観的な体験を指す。たとえば小説は物語に分岐がないため、読み終えたときには誰もが共通の物語を体験している。ゲームは対話的操作によって体験する内容が異なるため、作り手が伝えたい物語体験とプレイヤーの自由度をどう両立させるかが問題となる。
 たとえば、王の命により勇者がドラゴンを退治する物語をプレイヤーに伝えたいとしよう。もっとも簡単な方法は、それを映像や文章で伝えてしまうことだ。しかし、それではプレイヤーは漫然とディスプレイを眺めるだけとなり、他ならぬ自分こそがドラゴンを退治したという体験とはならない。
 自由な操作を許しつつ、しかしゲームをクリアしたプレイヤーの胸に物語を残す。ゲームが規則の集合に過ぎないならば、ナラティブの問題は生じないだろう。ルールに沿った行動に別の文脈が結びつけられ、初めて人は満足を覚える。プレイのたびに向上していくスコアはただの数字の羅列ではなく、成長の証だ。
 再び『東京結合人間』に戻ろう。第二章で詳読したとおり、この作品世界では推理が壊れやすい。手掛かりの解釈は多様で、紡いだ論理はたやすく矛盾に打ち砕かれる。ノーマルマンは何人いたのかという前提すら、物語が閉じても確定できなかった。登場人物の誰もが真実に到達できない、絶望的な世界を作者は描いているように思える。
 だが、それは逆なのかもしれない。そもそも論理とは、暴力と生の狭間に生じるものではないか。ふたつの極がある。絶対的な他者性に支配された、なんの自由もない暴力の領域。欲望のために他者を省みず独善を貫く、あるがままの生の領域。規則、道徳、法律、良識、礼儀、一般常識。人が人として守るべき絶対の、しかしときに疑うべきそれらは、暴力と生との妥協なき衝突から生じる。実存とセカイとの齟齬を埋めていかない限り、ルールのユートピアは永劫に成就しない。
 欲望のままに人を傷つけ、傷つけられることは恐れて逃げまどい、友人を失い希望を失っても、生きることをあきらめきれなかったオナコ。暴力の恐ろしさを心の底から学び、それでも娘のために、生きるよすがを守るために刃物と立ちむかった圷。他者性と自我、結合することなど決してありえないふたつの終わりなき衝突を描くからこそ、この物語は論理に満ち溢れているのではないだろうか。