映画『君の名は。』を初めて観たのは九月四日だった。鑑賞後、ストーリーの細かい部分が気になり、小説にも手を伸ばした。新海誠『小説 君の名は。』(角川文庫)と加納新太『君の名は。 Another Side:Earthbound』(角川スニーカー文庫)だ。あいにく、初めの鑑賞時に感じた疑問点を解消する明確な答えは書かれていなかったが、仮説を立てる機会にはなった。十二月二十四日、映画館で二回目の鑑賞をした。
 以下、自分なりに整理した考えをメモしておきたい。なお、私は新海誠作品について『君の名は。』以外は観ていない。公開から月日が過ぎたため、類似した考察を公開している方がいるかもしれないが、意見の重複は気にせず書き綴ることにする。

なぜ瀧でなければならなかったのか

 私は、たとえ気に入った映画でも見返すことはあまりない。そういえば映画館で同じ作品を二回観たのは、人生でこれが二作目だ。それなのに本作に限って小説にまで手を伸ばしてみる気になったのは、細々とした疑問があったからだ。
 整理すると、ふたつの大きな疑問があった。「入れ替わりの相手が瀧になったのはなぜか」「救われなかった世界はどうなったのか」だ。

 三葉に入れ替わりが生じた理由はわかる。糸守町には太古にも隕石が落下した。悲劇の再来に備え、宮水家の女性には不思議な力が備わったらしい。しかし、その入れ替わりの相手として瀧が選ばれた理由がわからない。
 たとえば瀧がブログを公開しており、三葉はネットを通じて瀧の都会生活を知り、憧れた。結果として三葉は無自覚なまま入れ替わりの相手として瀧を選んだという可能性を考えたが、小説にそのような記述は見当たらなかった。

 念のため記述しておくと、物語内では説明がされている。時間軸に沿って記述すると、まだなにも知らなかった中学時代の瀧が電車内で三葉に声をかけられる。そしてティアマト彗星が災厄をもたらし、三年後に入れ替わりが始まる。三葉の視点では、入れ替わりは隕石の落下より前から起きている。入れ替わりを通じて二人はおたがいに興味を抱くようになり、遂に三葉は瀧に会いに行く。そして電車内で中学時代の瀧に声をかける。
 つまり、入れ替わりが二人を結びつけ、二人が結びつくからこそ入れ替わりが起こる。原因と結果がループしている。これは時間移動を描くSF作品ではときおり見かける趣向であり、物語内論理としては破綻も説明不足もない。
 物語内論理として過不足がないのなら、なぜ瀧でなければいけなかったのかという疑問はメタな視点から「なぜ作者はそのような描き方をしたのか」という問いにすべきだろう。

救われなかった世界はどうなったのか

 便宜上「時空モデル」という言葉を作っておこう。時間の移動や並行世界を扱ったSF作品における、その時空間の在り方はどうなっているのか、どのような法則が設定されているのかを意味する。
 救われなかったほうの世界はどうなったのか。隕石が落下するなどとは知らず避難がされなかった糸守町は、三葉たちを含む多くの人命が失われたほうの世界はどうなったのか。それを結論するには、この作品で時空モデルがどのように設定されているのか判断する必要がある。

 仮に時空モデルを、私たちがいる世界と似た並行世界が無数に存在するタイプと考えよう。並行世界AとBがあり、まず世界Aで隕石が落下、三葉たちは死亡する。三年後に入れ替わり現象が起き、瀧は糸守町をみつける。宮水神社のご神体がある社へ行き、口噛み酒を飲む。そして世界Bの、隕石が落下する当日の朝へと時間と空間を移動する。
 これなら世界Bでは糸守町を救えるだろう。しかし、さらに疑問が増えてしまう。もともと世界Bに存在していたほうの三葉や瀧の精神はどうなったのだろう。そもそも、口噛み酒を飲んだときだけ都合よく隣の世界へ精神が移動するのはなぜなのか。入れ替わりが終わったとき、瀧が世界Aではなく世界Bのほうの身体に戻るのも説明がつかない。

 別のモデルで考えてみよう。過去に影響を与えたならば、その瞬間に新しい世界が生じると仮定する。世界Aで瀧が口噛み酒を飲み、三葉の身体に入る。この瞬間、世界Aとそっくりな新しい世界Bが生まれ、そこでは糸守町が救われる。世界Aで隕石落下により死亡した三葉は世界Bへ、ご神体の前で眠っている瀧の身体に入る。カタワレ時に世界Bで再会した二人はそれぞれの身体に戻る。
 こうして、もともと世界Aにいた二人は世界Bへ移動することになる。こちらもやはり、世界Bのほうの三葉や瀧の精神はどうなったのかという問題が残ってしまう。どちらか一方は世界Aに残された瀧の精神に入りこめるかもしれない。もう一方は、世界Aで三葉の身体が隕石落下で蒸発してしまったため、どこにも行き場がない。

 ここで、並行世界を持ちださなくとも説明できると考えた人もいるかもしれない。隕石落下があったのは三葉のみた夢に過ぎず、瀧が三葉たちの名前を犠牲者名簿にみつけた体験は幻覚のようなものだったという考え方だ。これについては、否定する理由を後で述べる。
 もちろん、時間移動や並行世界を扱ったSF作品で、こういった矛盾や説明不足をぼかしてしまうことはよくあることだ。ただ、この映画の制作者は、設定について入念に考えていた節がある。たとえば、この映画のSFとしてのアイデアの中核は「人格の入れ替わりに時間のずれが生じていた」ことにある。そのヒントを、かなり早い段階で提示している。

 三葉が初めて瀧の身体で目覚め、学校に遅刻したり、アルバイト先のレストランで奥寺先輩のスカートを縫った後、家に帰ってから瀧のスマートフォンを覗き見る。そのとき“お前は誰だ?”とノートに記された文章を思いだす。これは、入れ替わりが同時ならば起こりえない。
 この作品は冒頭、瀧が初めて三葉の身体で目覚めた朝で幕を開ける。これを仮に一日目としよう。翌日、つまり二日目は入れ替わりが起きておらず、三葉は昨日の自分の様子がおかしかったと知らされる。授業中、恐らく一日目に瀧がノートに残した“お前は誰だ?”という文章を三葉が目にするのは二日目だ。
 二人の入れ替わりがもし同時なら、三葉が初めて瀧の身体に入ったのは一日目のはずだ。それならば、二日目に初めて見たノートの文章を知っているはずがない。瀧が初めて三葉の身体に入ったのが一日目なら、三葉が瀧の身体に入ったのは三日目以降となる。
 初見時、私はこのカットをミスかと疑ったが、むしろ入れ替わりに時間差があったことを示す大きな伏線だった。

 この作品の時空間の在り方がどのように設定されているのか、小説のほうにはもっと明確に書かれているかもしれないと期待したが、残念ながらそうではなかった。新海誠による原作小説『小説 君の名は。』は内面描写が足されているが、視点は三葉と瀧に固定されているため、瀧と三葉が知りえなかったことは記述されていない。映画では三葉と瀧以外の視点からも描かれるが、小説ではそこが削られている。
 加納新太『君の名は。』のほうは、瀧、テッシーこと勅使河原克彦、四葉、三葉たちの父である宮水俊樹の四人それぞれの視点からサブエピソードや裏事情が語られる。特に四葉の物語では興味深いことが起きるが、やはり直接的な説明はない。
 もちろん、これらを読むことで、映画だけではわからなかったことも数多く知ることができた。たとえば、体育の授業で瀧(身体は三葉)が男子たちに注目されているのは、バスケのプレイが華麗だったからではなかった。

入れ替わり能力はどんなものだったのか

 時空モデルの延長として、入れ替わり能力の詳細について考えてみよう。これも、いくつか不自然な個所がある。この能力が災厄を予知し、事前に町ぐるみで対策を執ることを目的としたものならば、なぜ二人の記憶は曖昧になってしまうのか。

 時間が三年間ずれていること、遠隔地の相手と入れ替わることはうなずける。隕石が落下してくれば全滅もあり得るのだから、同じ町内で入れ替わってしまってはどちらも死んでしまう。
 三年間というズレは、情報の伝達に必要な時間なのかもしれない。マスメディアやネットが発達した現代だからこそ隕石落下はリアルタイムで報じられたが、太古の時代はそうではなかっただろう。
 巻き添えになって死ぬことはありえない、ほどよく遠隔地にいる相手のもとへ、隕石落下という悲劇が確実に伝わり、かつ古びて忘れられるほどでもない。それが三年という時間だったのではないか。
 三葉たちの祖母、一葉にも入れ替わりをした過去があった。かつて宮水神社が何人もの巫女で栄えていた時期は、代わるがわる誰かが入れ替わりの状態にあり、災厄を予知できるようにしていたのかもしれない。

 それならば、なぜ二人の記憶はあいまいになってしまうのか。入れ替わりの目的が災厄の予知ならば、未来の出来事を知ったという自覚がないのでは役に立たない。それなのに二人は、自分たちの時間に三年のズレがあることに気づかなかった。
 日記やメモをつけるなら、なおさら日付のことは意識しそうなものだ。なお、映画からはわからないが『小説 君の名は。』には“メールも電話も試してみたが、なぜかどちらも通じなかった”(p.80)という記述がある。

 そこでヒントになるのが、二人の涙だ。おばあちゃん(宮水一葉)や四葉と口噛み酒を社へ納めた後、瀧(身体は三葉)はおばあちゃんに「――あんた今、夢を見とるな?」(p.94)と言われ、目が覚める。自分の身体に戻った瀧は、なぜか涙をこぼしている自分に気づく。一方で三葉も、瀧と奥寺先輩はデートだなと思いつつ、鏡に向かっているとき不意に涙をこぼす。
 三葉のほうは、この後で東京へ向かうことから察するに、瀧への恋愛感情を自覚したとみなして良いだろう。運良く電車内で瀧と遭遇するが、まだ入れ替わりを経験していない瀧は三葉のことを知らない。糸守町へ戻ってきた三葉が髪を切るのは、瀧への想いを断ち切ったという意味だろう。
 瀧のほうはどうか。おばあちゃんに「夢を見とるな?」と言われる直前、四葉とティアマト彗星の接近について会話している。瀧は、三年前に隕石落下で糸守町が消滅したことを思いだしたのではないか。カタワレ時を迎えた糸守町の美しい風景を眺めていたからこそ、それが失われることに涙した。

 ここから、次のように仮定できるかもしれない。二人の入れ替わりは、自我が弱まっていなければ成立しない。今日は何月何日で、自分はどこにいるのかという見当識が弱まり、個人としての思い出や社会的な立場の認識が薄れている状態、いわば集合的無意識に近づいているときに起こる。平たく言えば、ぼんやりしているということになる。ただし、日常動作はそつなくこなせているのだから、まったくの夢うつつというわけでもないだろう。自分が自分であることの自覚が弱まっている状態とでも呼ぶべきか。
 災厄を予知するという入れ替わり能力の目的からすれば、瀧はできるだけ早く隕石落下のことを三葉に伝えるべきだった。それができなかったのは、入れ替わりが成立する前提条件として、忘我の状態が必要だった。このため、二人はおたがいの時間がずれていることを気づけなかったのではないか。
 入れ替わりを通じて二人がおたがいの境遇を理解し、想いを重ねていけば、いつか当たり前に時間のズレやティアマト彗星に関する情報の交換ができるようになったのかもしれない。実際、瀧は彗星についての会話から無自覚なまま三年前の悲劇を思いだし、そして涙した。だが、その一方で三葉は東京へとでかけ、そして失意から瀧への想いを断ち切ることを選んでしまった。

 目前に片想いの相手がいれば顔が赤くなり、失意の底にいれば身動ぎする気力さえ無くす。心と身体はつながっている。とはいえ、心身二元論を持ちだすまでもなく、心と身体はおおむね独立していると考えるのが一般的だろう。
 この物語はそんな一般的な概念を超えて、心と身体が深く影響しあう様子が、入れ替わり能力を通じて描かれる。カタワレ時、クレーターの外輪の上で、三年の月日を越えて二人は再会する。おたがいの元の身体に戻り、三葉は町民たちを学校へ避難させるべく、発電所の前で待つ。そこへやってきた勅使河原に、自転車を壊したことを詫びる。
 大きな矛盾だが、クライマックス直前だったせいか初見のときにはまったく気づかなかった。勅使河原たちと発電所の爆破を計画したのは瀧(身体は三葉)であり、三葉はその計画のことを知るはずがない。発電所の前で待っていることなどできるはずがない。
 ひょっとすると、カタワレ時に再会したときに説明したのかもしれない。わざわざ描写するのは無粋だとして、省略されただけという可能性はあるだろう。実際『小説 君の名は。』には“テシガワラとサヤちんとの計画を、俺は説明する。”(p.202)という一文がある。とは言え、町が全滅の危機に瀕しているというのに、自転車を壊したことまで伝えるだろうか。
 ここから、次のような解釈もできるのではないか。二人はただ器としての身体に心という中身を入れ替えたのではなく、心と身体の境界があいまいになり、おたがいの自我が溶けあうような状態になっていたのだと。
 だからこそ、わざわざ口で説明しなくとも重要な情報を共有できた。勅使河原の自転車を壊したことを説明しなくとも、瀧の記憶を三葉は思いだすことができたのではないか。

 このような解釈をしたくなる根拠は他にもある。瀧がかつて糸守町のあった場所にたどり着いた場面を思いだしてほしい。スマートフォン内の日記アプリに三葉が綴っていたはずの文章が、不意に文字化けを起こし、次々に消えていった場面だ。
 SFファンが、なんらかの装置で過去へと旅する作品で、このような演出を目にしたならば文句のひとつも言いたくなるだろう。たとえば映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、デロリアンで三十年前へ移動したマーティが、うっかり両親の出会いを邪魔してしまう。両親が結婚しなければマーティはこの世に生まれてこないため、存在が消滅する危機に瀕する。その表現として、写真のなかの自分が少しずつ薄れていくという演出がされた。
 これはタイムパラドックスをわかりやすく説明する見せ方ではあるが、デロリアンという乗り物で時間を移動する設定と時空モデルとが噛みあっていない。高校時代の両親が結ばれるか否かという確率と、撮影された人物の像が写真から消えていくという化学変化が、どうしたら連動するのだろう。
 しかし、この作品は事情が違う。乗り物によって身体ごと時間を移動するのではなく、精神だけが移動するのだから、物理的には説明のつかない認識の変容があってもおかしくない。二人の入れ替わりは厳密には入れ替わりではなく、心と身体の共有だった。
 日記に文章を綴ったという認識は、あくまで主観的なものに過ぎなかったのかもしれない。そのような形でしか情報を交換できるわけがないという思い込みから、文章を幻視していた。糸守町は消滅したという揺るぎない現実を突きつけられたことで、幻は消えてしまった。それが、あの文字化けや削除されていく日記という形で認識されたのではないか。

 瀧は社で、三葉の口噛み酒を飲む。このとき、いつもの入れ替わりとは異なり、過去の隕石落下から宮水家の過去まで追体験する。
 当たり前に考えれば、酒は酒であり、それ以上でも以下でもないだろう。だが、この作品では人の心と身体が、水や空気といったものと混じりあい、たえまなく循環し続ける大きな流れの中にある。だからこそ、口噛み酒に三葉の半分があり、それはさらに太古の記憶とすらつながっている。
 社へとでかけたとき、おばあちゃんは瀧(身体は三葉)と四葉に「ムスビって知っとる?」と問い、土地の氏神さまのことを産霊(むすび)と呼ぶことと併せて次のように説明する(以降、引用にあたってルビは省略した)。

「糸を繋げることもムスビ、人を繋げることもムスビ、時間が流れることもムスビ、ぜんぶ、同じ言葉を使う。それは神さまの呼び名であり、神さまの力や。ワシらの作る組紐も、神さまの技、時間の流れそのものを顕しとる」

 加納新太『君の名は。』の第三話「アースバウンド」では、おばあちゃんは四葉に神様のことを次のように説明する。

「神様というのは、関係のことなんやさ。言葉は、人と人とを結ぶ。言葉は神様そのものではないけれども、言葉によって結ばれた気持ちは、神様なんや。おにぎりは、神様そのものではないが、お米をはぐくんだ土地と水と、お米を植えて収穫した人と、お米を炊いて両手でむすんだ人と、それを受け取って食べた人とをつなぐものなんやさ。おにぎりによって結ばれたそれらの間柄は、神様や」

 カタワレ時にクレーターの外輪で二人が出会う理由も、この言葉から推測できるように思う。二人の入れ替わりは、身体という器の中の心が右へ左へ交換するようなものではなく、二人はあくまで二人のまま、なんらかの媒介物を通じて連絡しあうようなものではないだろうか。その媒介物は口噛み酒でも、カタワレ時でも、二人が信じられるものであればなんでも良かったのかもしれない。少年の心と少女の心は、たとえ大きな違いはあっても、さまざまな事物を介してつながっている。

 入れ替わり能力について細部を確かめた結果、この作品の世界観が見えてきたように思う。それは私たちが慣れ親しんでいる自然科学的なものの見方、自分自身という一点を中心に世界が広がっているという遠近法的な世界観とは異なる。
 極言すれば、この作品の世界観では閉じた個体、独立した個人などというものは存在しない。すべてがゆるやかにつながり、影響を与えあっている。自分と他者との境界は霧のようにあいまいで、なにかのきっかけで越えていないとも限らない。

再び、救われなかった世界はどうなったのか

 ムスビという世界観を踏まえた上で、時空モデルを考え直してみよう。独立した個が存在しないというなら、糸守町が救われなかった世界A、救われた世界Bという前提からして不適切ではないか。
 過去から未来へと一本の線が伸び、それと異なる出来事が起きたならば別の線で表現する。時間移動や並行世界を扱ったSF作品ではお馴染みとなった図式そのものを捨てるべきではないか。

 この作品には、世界はひとつしかないと仮定しよう。髪を切って瀧への想いを断ち切った三葉は、隕石の落下により死亡する。正確には死亡の直前に意識を失い、精神だけが同じ世界の、三年後の瀧の身体へ入る。カタワレ時、クレーターの外輪で瀧(身体は三葉)と出会い、再び入れ替わり、三年前の糸守町を救う。一方で瀧は、口噛み酒を飲むことで三年前の三葉の身体へと入る。
 ここで、当然の疑問が起きる。祭の朝、三葉の意識では入れ替わりはなかった。その一方、瀧の意識では入れ替わりがあった。まったく同じ時間帯にもかかわらず、二人の記憶は矛盾している。

 この矛盾を解消するには、さまざまな考えがある。ひとつは、歴史が書き換えられたという考え方だ。時間の流れは紙に鉛筆で書かれた文章のようなもので、消しゴムで擦ってしまえば書き直すことができる。瀧と三葉は入れ替わりをしたため時間を移動する前の世界で起きた出来事(隕石の落下による糸守町の消滅)を覚えているが、実はそのような歴史は消滅してしまっている。
 あるいは、こんな考え方はどうだろう。世界とは人と同じ数だけある意識の流れからできている。世界を一本の紐だとすると、それは人間の意識という数多くの糸が縒り集まることからできている。社で口噛み酒を飲み、瀧の精神は三年前の三葉の身体に入る。このとき、三葉という一本の糸がちぎれ、瀧という別の糸に置き換わる。三葉が本来あった歴史とは異なる行動をとるたびに、それを観察した人々の糸が変容し、新しく置き換わっていく。こうして、糸守町の人々は難を逃れたという新しい紐が完成する。
 もっと単純な考え方もある。隕石落下があった世界は夢や幻のたぐいだった考え方だ。犠牲者名簿に三葉たちの名前があったという体験は、もし瀧が行動を起こさなければどうなっていたかという仮定の延長にある幻覚に過ぎない。三葉は本当は隕石落下を目撃していない。祭の朝にすぐ、三年後の瀧の身体へと入っていた。二人は超常的な存在に操られ、ありもしない幻をみせられた。しかし、そのおかげで糸守町を救うべく必死になって行動することができた。超常的な存在は、本来あるべき正しい歴史を形成するための導き手だった。

 では、どれが正しいのか。私には「わからない」としか言いようがない。
 この作品は精神だけが時間を移動するため、並行世界によって解釈しようとすると前述のとおり「他の世界における二人の身体や精神はどうなったのか」という疑問がでてしまう。
 そこで並行世界という考えを捨て、世界はひとつしかないと仮定する。すると今度は、同じ時刻に異なる出来事が起きたという矛盾が生じてしまう。上記のとおり矛盾を解消する説明はさまざまな考え方があり、ひとつに絞る決定打がない。

 私には、この「わからない」という結論そのものが正しいように感じる。
 自然科学の考え方では、普遍的な法則をみつければ、それはどこでも通用する。地球と同じ程度の質量の惑星があれば、この地球から百万光年離れていようと、そこでは同じような物理現象が起こるだろう。
 時空モデルを決定すれば、救われなかったほうの世界がどうなったか結論できるというのは、それと同じ考え方だ。作品内の描写から、もっとも可能性の高い時空モデルを洞察し、それを前提とすれば他の並行世界の在り方すら見通せる。
 その仮説が本当に正しいかはどうでもよい。観測範囲の事象を最小限の仮定で矛盾なく説明できるなら、それで不都合はない。観測範囲外の世界など、作者が続編を著しでもしない限り、存在しないのだから。
 しかし、この作品に描かれているのは、そのような考え方が成立しない世界だ。たしかに、世界はつながっている。けれど、つながりの先にあるのは自分とは異なるなにかだ。固有の法則に支配された異物たちが相互に影響しあう世界であり、ある場所での常識が他の場所でも通用するとは限らない。

 ムスビという言葉を説明したおばあちゃんは、続けて次のように言う。

「よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり、それが組紐。それが時間。それが、ムスビ」

 この言葉はまるで、この作品では時空間すら一様ではないということを暗に示しているように読みとれる。
 四葉が、右手におにぎりを、左手にはコップに入ったお茶を持っているとしよう。おにぎり、コップ、四葉は同じものだろうか? もちろん、違うものだろう。
 同じように、時空間も一様ではない。一秒先の世界は、これまでの常識がまったく通用しない、まったく新しい世界かもしれない。そこに、普遍的な法則など無い。

 そして――混乱させて申し訳ないが――私は「わからない」という結論もまた間違っている、と感じる。
 この作品で描かれるのは、そのような遠く隔たった異なる事物が、しかし無数の結びを通じてつながるさまだ。水が、空気が、酒が、おにぎりが、人々の口に入り、形を成し、崩れ、別のなにかになり、世の中を循環していく。
 私はさきほど、歴史の上書き説、意識の集合説、幻覚体験説を述べた。それらは仮説にすぎない。しかし、私がこうして文章にしたことを、あなたは読み、頭の中をかすめただろう。瀧と三葉は入れ替わりのとき、いまがいつなのか忘れ、自分が自分であることを忘れる必要があった。物語の世界で登場人物がなにを想っていたのか、そのことについて考えを巡らせるときも同じだろう。自分が自分であるという大前提を一時忘れ、架空の人物の胸中を自分の身に置いてみなければならない。
 不安な状況で人にできることは、可能性の探求だけだ。けれど、その行為の蓄積から得た可能性の総体の中でもがくこと、必死に最善をつかみとろうとすること。この物語が示そうとしているのは、そういう現実の捉え方ではないか。

 歴史の上書き説が正しかったとしよう。その場合、救われなかった糸守町の人々は一瞬にして消滅し、救われたほうだけが残ったのだから、死者を悼む必要はないだろう。意識の集合説なら、入れ替わった糸は世界を形成することもなく、虚無を漂い続けるのかもしれない。幻覚体験説なら、三葉や瀧の行為自体がすべて超常的存在に操られた行為に過ぎない。
 そんなふうにどれかの説を採って、ああだこうだと決めつけることもできる。決めつけて「さあ、こんな馬鹿げたことを考えるのはこれで終わりにしよう」と自分を納得させることもできる。いっそ不可知論の立場を採り、知りようのないことを材料不足のまま悩んでも意味がないと結論することもできる。
 けれど、瀧はそうではなかった。就職面接の場で、建設業界を志望した理由を問われた瀧は「つまり……、東京だって、いつ消えてしまうか分からないと思うんです」(p.234)と答える。
 すべての記憶を失った彼はただ、糸守町どころか東京さえもなにかの拍子に消えてしまうかもしれないうという、あいまいな不安を抱える。そして、そんな消えてしまいかねない東京で、名前を忘れてしまった人を、本当にいるのかどうかさえ不確かな人を探し続ける。

再び、なぜ瀧でなければならなかったのか

 2016年11月、アメリカ合衆国大統領選挙の一般投票にて、共和党のドナルド・トランプが勝利した。移民政策についての過激な発言や女性蔑視の態度などから、民主党のヒラリー・クリントンの当選が確実視されていただけに、意外な結果となった。
 これを受けて、町山智浩がラジオ番組で次のような話をしていた。子供たちに大統領選挙で誰を選ぶか架空の投票をしてもらう調査は、過去七十二年間で二回しか外れたことがなかった。それがこの年、三回目のハズレになったという。

町山智浩 ドナルド・トランプ大統領誕生を語る
http://miyearnzzlabo.com/archives/40630

 子供は、親たちの政治的態度から大きな影響を受けるはず。それが外れたということは、子供の前ではトランプを支持していることを隠していた。結果として三回目のハズレが生じたということらしい。
 トランプを支持する理由は人それぞれだっただろう。白人至上主義を理由に投票した者も、少しはいたかもしれない。グローバル化の影響で仕事を失ったと感じる白人労働階級が、トランプの政策に希望を見出したというのもある。それぞれの事情を抱えた人々がつながり、ポピュリズムという大きなうねりとなった。

 私が感慨を覚えたのは、そのような形の孤独があるということだった。たとえば、これがマイノリティであれば話はわかる。迫害され、誰にも助けてもらえず、やがて連帯することを覚え、声を張りあげ、少しずつ常識を変えていく。マイノリティの孤独に世界を変えていく力があることは歴史が証明している。
 大統領選挙では、得票数ではヒラリーのほうが僅差で上回っていたという。それでも、アメリカの家庭の半数近くが、子供にさえ本音を明かせないまま日々の生活を送っている。私は漠然と、マジョリティとは「リア充」の集団だと思っていたのかもしれない。恋人や家族がいて、仕事に打ちこみ、多少の不満はあっても日々を大過なく過ごす人々。けれど現実にはそれぞれ固有の、うかつには他人に打ち明けられない悩みを抱えたまま孤独に日々を送る人々のほうが多数派なのかもしれない。

 そんなとき思いだしたのが、坂上秋成[責任編集]『ヱヴァンゲリヲンのすべて』(2013年4月発行)所収の「東浩紀インタビュー EVA CAN (NOT) REDO. あるいは『孤独』と『束縛』の真実について」だった。
 東浩紀は“現実には人間が他人と繋がることには限界がある。誰だって常に孤独を抱え込んでいる。そうやって個別化されてしまった人々に向けて、「ちゃんとあなたのことを理解してくれる人がいるんだよ」と伝えること、それこそがコンテンツの素晴らしいところ”(p.95)だという考えから『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』よりは旧エヴァを、そして細田守監督『おおかみこどもの雨と雪』のほうを評価すると述べた。インタビュアーの坂上秋成に『おおかみこども~』は“繋がりとしての要素が孤独への問いよりも強くなっている”のではと問われ、次のように答える。

 いや、それは誤解。『おおかみこども』は、主人公の花が、一種の障害者を抱えてシングルマザーとして生きていく話だよね。ここで重要なのは、「子育てクラスタ」なんて集団は、いくらソーシャルメディアが発達しても存在しえないということです。そもそも子育てに対する感覚というのはひとりひとり大きく異なっている。子どもというのは絶対に何かしらの弱さを抱えている存在で、親はそこに向き合って生きていかざるを得ない。その弱さというのは、身体的な障害だったり、精神的な問題だったりいろいろなわけだけど、それはすべて個別的な問題だから簡単に共有できない。たとえば、学習障害を持つ子どもの両親たちが、ネット上で悩みを公開してリプライを飛ばしあうかといえば、なかなかそうならないだろうということは想像できる。僕の場合、「人々がすべてバラバラの悩みを抱えながら生きている」ということを震災以降一層強く感じているんだけど、それはむろん震災以前以後にかかわらず人間の基本的な条件だと思うんですね。「みんな等しく子育てで苦労している」と言っても、内実はすべて異なるし、しかも自分の欠点ならともかく子供の障害や問題なんてネットにポンポン書きこんだりするものじゃないわけですよ。だから僕は、確かに『おおかみこども』は子どものいる女性からの指示をある程度受けているとは思うけど、彼女たちがソーシャルメディアを使って「細田守クラスタ」を作っているかといえば、それは違うと思う。
 むしろ『おおかみこども』は、子育てのために周囲から分断され、誰にも相談できない悩みを抱えて孤独になっている人々にこそ届くコンテンツを志向している。だからこそ僕は『おおかみこども』を強く支持するし、かつてのエヴァを評価していた理由もそこにあるわけ。[以下略]

 端的に言ってしまえば『君の名は。』はデート映画だ。少年と少女が不思議な力に助けられて多くの人々を悲劇から救い、最後は結ばれる。けれど、それにしては奇妙な描かれ方をしていると感じるところもある。なぜ、瀧は記憶を失ってしまうのか。悲劇を回避した英雄として称えられても良さそうなものだ。
 ここから、真逆の疑問も指摘することができる。なぜ、瀧は糸守町を救おうとしたのか。なぜ、カタワレ時にクレーターの外輪で再会したとき、三葉におまえだけでも逃げてくれと伝えなかったのか。
 その直後、手の平にマジックで愛の告白を記しているというのに。町長である父親の説得に失敗し、人々を避難させることの難しさを痛感していたはずなのに。入れ替わりを通じて、三葉が町での暮らしを嫌っていること、東京での生活に憧れていることも知っていただろうに。

 その答えはさまざまだろう。数多くの人が命を喪うかもしれないのに、なにもせずにはいられない。極端な話、相手が見知らぬ他人であっても、人はそのとき相手を救うために行動するだろう。どれだけ田舎暮らしが嫌であっても、それを丸ごと失ってしまうのは話の次元が異なる。
 さて、もう一度、観方を裏返してみよう。けっきょくのところ、この映画が描いているのはそういう夢物語だ。神によって、ムスビによって、あらゆるものはつながっている。東京にいる平凡な少年が、遠く離れた見知らぬ土地の、大災害に遭った人々を救うことだって、ありえたかもしれない。そんなことがありえたかもしれないという可能性を見せてくれる話だ。当事者になれなかった人間が、どうしようもないやるせなさや虚無感を、そんな可能性もありえたかもしれないという希望へ変えてくれる、そういうお伽噺だ。

 初めの疑問に戻ろう。なぜ、この映画の制作者は、入れ替わりの相手を瀧にしたのか。それは、とどのつまり誰でも良かった。自分には縁のない遠い町を悲劇から救うというお伽噺を成立させるには、むしろ瀧が入れ替わりの相手になった必然性を描いてはならなかった。
 偶然だが、本稿の執筆中に新海誠監督へのインタビュー記事が公開された。監督自ら“相手が瀧である必然性はない方がいい”、“「瀧でなければいけない」という話にすると、それこそ決定論になってしまいます。観客にとって、自分たちと入れ替え不可能な物語になると思った”と語っている。

『君の名は。』新海誠監督が語る 「2011年以前とは、みんなが求めるものが変わってきた」
http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/20/makoto-shinkai_n_13739354.html

 うろ覚えで申し訳ないが、東日本大震災の影響から福島第一原子力発電所がメルトダウンに至った事故について、NHKが再現したドラマを観たことがある。最悪の場合、放射能による汚染地域はもっと広域となり、東日本が壊滅する事態も有りえたという。

福島原発事故は今も謎だらけ!"東日本壊滅"が避けられたのもただの偶然だった... - エキサイトニュース(1/5)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20150309/Litera_927.html

 もしここで、私が「そういえば福島にいる女子高生の身体に乗り移って、メルトダウンの被害を最小限に抑えたことがあった気がするなあ」などと言いだしたなら、まあ厄介なことになるだろう。少なくとも「それはそれは、おつかれさまでした」と労われることはないように思う。
 社会的に大きな事件が起こるたび、一部の評論家はあたかもそれが人々の心に後戻りのできない変化をもたらしたかのようなことを言う。けれど多くの人々は、そういう物言いに納得しないだろう。直接津波の被害に遭った人、それをテレビで眺めていただけの人、親戚や知り合いを亡くした人、募金をした人、計画停電を経験した人。震災の影響は人によってさまざまだ。日本人の大多数は、当事者ではなかった。ただの無関係な第三者でしかなかった。
 人々は、そうやって分断されている。それぞれの事情を抱えながら、さまざまな可能性に怯え、現実とどうやって向きあっていくべきなのか、よくわからないまま生きている。東京さえ、突然消えてしまうかもしれない。それを大袈裟に感じる人も、アメリカで起きたような大きな政治的変化が、他の国でも起こりうることなら信じられるかもしれない。さまざまな可能性が口を開けている世界で、行き場のない感情を抱えている。

 だから、この作品はデート映画でしかないのだろう。お金を稼ぐため、過去の監督作品を否定してハッピーエンドにしたのだろう。日本は成熟していないから、こういう甘い描き方でしか過去の悲劇と向きあえないのだろう。監督が学生時代にモテなかったから、こんな妄想めいたものしか創れなかったのだろう。
 だから、そう、だから。私は絶対に口にはしない。口にできない。私になにかできれば良かったと。あの大きな悲劇の中で、たとえ今から時間を遡ってでも私になにかができれば良かったなどと。そんな不謹慎なことは、絶対に口にしない。
 そんな想いを胸に秘めているのは、きっと世界中で私一人だけなのだから。