《解説》

CRITICA第11号

 評論「本格とカジュアルとの距離」の一部を試供品として以下に公開します。
 本稿の全文は探偵小説研究会機関誌「CRITICA」第11号に掲載されます。「CRITICA」の詳細、入手方法については以下のリンク先を参照してください。

探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/

「CRITICA」:探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/critica.htm

 構成は以下の通りです。

  • 1.ライト文芸の隆盛
  • 2.ライト文芸とミステリ
  • 3.カジュアルミステリ
  • 4.リアルな謎とドラマ性
  • 5.並行世界と名探偵哲学
  • 6.森川智喜的アプローチ
  • 7.現代は第二の冬の時代か

 ライト文芸の隆盛がミステリとどのような関係にあり、本格ミステリにどのような影響を与えているのか、状況を論じています。
 一章ではライト文芸と呼ばれる、ライトノベルと一般文芸との中間的な位置にある作品群について解説します。二章では、アニメやマンガの文脈から語られることが多いライト文芸について、ミステリとの関係を説明します。三章にて、ジャンル外の読者にも広く魅力を訴求するカジュアルな作品として「カジュアルミステリ」を定義します。
 四章から六章にかけて、カジュアルミステリ作品を紹介しつつ、本格ミステリとの関係について考察していきます。四章では学園ミステリやお仕事ミステリ、五章では並行世界設定や名探偵像、六章では体感的な謎解きについて論じています。濃淡はありますが、触れた作家名を列記すると三上延、初野晴、井上真偽、東川篤哉、織守きょうや、北山猛邦、麻耶雄嵩、米澤穂信、瀬川コウ、森川智喜、皆藤黒助、久住四季となります。
 七章ではいわゆる「本格ミステリ冬の時代」論争を踏まえて、カジュアルミステリと向きあうことの意義を考察します。
 以下「本格とカジュアルとの距離」の一章から三章、七章を公開します。

1.ライト文芸の隆盛

 毎週のように書店を訪れ、平台に並ぶ新刊を手にとっては、帯のコピーやあらすじ紹介を確かめる。そんなことを何年も続けるうち、気がついた変化がある。いや、そんな大層なことではない。読書好きなら大半の人が知っていることだ。
 具体的には、次のような作品が増えてきていると感じる。

一、表紙イラストなど装幀にマンガ・アニメ調のイラストを使用している。
二、キャラが立っていて、青春や恋愛が物語の主軸となる。
三、軽いSF設定、ファンタジー要素がある。
四、比較的短めで、連作短編の構成を採っている。
五、作中の仕掛けや実験的試みが売り文句となっている。

 一から三は、いわゆるライト文芸の隆盛と関係しているのだろう。ライト文芸とは、ライトノベルと従来の一般文芸との中間に位置する文芸作品のことだ。まだ統一された呼称はなく、たとえば「キャラ立ち小説」「キャラノベ」などと呼ばれることもある*1
 ふりかえってみると、二〇〇一年に光原百合『遠い約束』が創元推理文庫から刊行されたとき、漫画家の野間美由紀による表紙イラストをレジに差しだすのが若干面映ゆかった覚えがある。もちろんゼロ年代前半でも、若い読者を想定した作品ならば、非ライトノベルレーベルでもマンガ・アニメ調の絵を用いることは珍しくなかった。たとえば西尾維新の『クビキリサイクル』(二〇〇二年/講談社ノベルス)に始まる〈戯言〉シリーズで表紙だけでなくキャラクターのイラストも描いた竹や、米澤穂信『春期限定いちごタルト事件』(二〇〇四年/創元推理文庫)の表紙イラストを手がけた片山若子が想起される。また倉知淳〈猫丸先輩〉シリーズの唐沢なをき、西澤保彦〈チョーモンイン〉シリーズの水玉螢之丞のように、作品の雰囲気に合わせたイラストレーターが起用されることも当然あった。
 個人的な感覚では、一般文芸の棚にマンガ・アニメ調のイラストが目立ってきたのは、ゼロ年代半ばのライノベルブーム以降に思える。二〇〇四年からライトノベルの年末ランキングガイドである『このライトノベルがすごい!』(宝島社)が開始した。有川浩、乙一、桜庭一樹、橋本紡、米澤穂信といった、ライトノベルからデビューした後に一般文芸への〝越境〟を果たした作家が注目を集めた。
 ミステリファンには東川篤哉『謎解きはディナーのあとで』(二〇一〇年)や三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』(二〇一一年)がベストセラーとなり、TVドラマなど映像化もされたことが記憶に新しいだろう。二〇〇九年十二月創刊のメディアワークス文庫は〈ビブリア古書堂の事件手帖〉シリーズの成功を受けて、日常の謎を扱う作品を数多く世に放っている。
 一〇年代半ばはライト文芸の文庫レーベルの創刊が相次いだ。たとえば富士見L文庫(二〇一四年六月)、新潮文庫nex(二〇一四年八月)、集英社オレンジ文庫(二〇一五年一月)、講談社タイガ(二〇一五年十月)がある(括弧内は創刊あるいは刊行開始時期)。
 ライトノベルは読者層として中高校生を想定しているが、ライト文芸は主に二十代から三十代を対象としている。前述の文庫レーベル作品は多くの書店で、ライトノベルのための棚ではなく一般的な文庫と同じ棚に置かれている。装幀に使用するイラストは年齢層の高い読者でも手にとりやすいよう工夫されている。たとえば前述の『謎解きはディナーのあとで』の表紙を飾る中村佑介のイラストは、人物は簡潔な線で描かれ戯画的だが、色彩の豊かさと清潔感を両立させ、落ち着いた雰囲気がある。『ビブリア古書堂の事件手帖』の越島はぐによるイラストは、水彩調で紫陽花や鋏といった小道具まで丁寧に描かれている。シックな色遣いがされており、公共の場で手にしていても目立たない。
 背景として、マンガ・アニメへの抵抗感がない世代が育ってきていることがあるのかもしれない。二〇〇五年には『電車男』の映画化やTVドラマ化がされた。二〇一〇年六月に経済産業省は「クール・ジャパン室」を設置、クール・ジャパン戦略を推進していく。一九八九年に東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者として宮崎勤が逮捕され、オタクへの暗いイメージが強まったことなど四半世紀以上もの遠い過去になってしまった。
 かつてマンガ・アニメ調の表紙イラストに「イメージを限定されてしまう」といった意見が多く寄せられたことなど、登場人物をマンガやアニメのキャラクターとして思い描きながらライトノベルを読んできた若い人たちにしてみれば、もはやピンと来ないのかもしれない。

2.ライト文芸とミステリ

 マンガやアニメに親しんできた世代を対象としていることを思えば、二や三についても頷けるだろう。言動や性格のイメージがつかみやすく、親しみやすいキャラクターが数多く登場し、若い世代に共感しやすい青春や恋愛が描かれる。空想的な設定を用いることも、年少者向けのマンガやアニメでは珍しくない。
 ただライト文芸の動きについては、マンガやアニメだけではなく、ミステリからの影響も鑑みるべきではないか*2。大別すればそれは、東京創元社を中心とする「日常の謎」派と、講談社ノベルスを中心とする前衛的な試みという二大潮流が、ライト文芸と合流した結果として現在の版図があると感じられる。

 犯罪が絡まない謎解きを描いた作品は古くからある。しかし一般的に「日常の謎」派の始まりといえば、北村薫のデビュー作『空飛ぶ馬』(一九八九年)だろう。身近な日常にみかけた、些細な、しかし合理的な説明をつけがたい奇妙な行動に、腑に落ちる解釈をつける。そういった謎を扱った連作短編を手掛ける作家が、東京創元社を中心に相次いで世に出た。
 その流れから、日常の謎を扱う学園ミステリも増えていく。ゼロ年代半ばのライトノベルブームでは学園を舞台とした作品が多く刊行され、その一翼を学園ミステリが担っていた。角川スニーカー文庫から『氷菓』(二〇〇一年)でデビューした米澤穂信や、富士見ミステリー文庫から『天使が開けた密室』(二〇〇一年)でデビューした谷原秋桜子のように、ライトノベルレーベルからデビューした後に東京創元社で活動するようになった作家もいる*3
 一〇年代に入ると前述のとおり〈謎解きはディナーのあとで〉シリーズや〈ビブリア古書堂の事件手帖〉シリーズ、岡崎琢磨『珈琲店タレーランの事件簿』(二〇一二年)に始まるシリーズのヒットがあり、古書店や喫茶店といった日常の延長にある職場に携わる人々が事件に関わる「お仕事ミステリ」が広く認知されるようになった。文芸誌『ジャーロ』(光文社)二〇一三年夏号では特集「お仕事ミステリ繁盛記」が組まれた。
 市井の小事件を描く「日常の謎」作品は、短編が向いている。そこから、短篇同士のつながりによってドラマを生みだす構成が編みだされた。近年は章タイトルが「第一話」などとなっており、それでいてプロローグとエピローグがある、長編なのか連作短編なのか呼び方を判断しがたい作品もみかける。
 なお連作短編という言葉には若干の注意を必要とする。この技法がかつて「東京創元社のお家芸」と呼ばれていた頃は、個々の短編に散りばめられた伏線をつなげることで思いがけず新たな真相が浮かびあがるという含みがあった。ある作品が連作短編だと明かすことはネタバレとなる恐れさえあった。このため、物語としての因果関係はなくとも、各短編の登場人物が共通するだけで連作短編と呼ぶことがある。
 四について、作品が短くなりがちなのは、それこそマンガやアニメのように気軽に愉しめるものを求められるからだろう。その一方で、ライト文芸の無視できない比率を占める学園ミステリやお仕事ミステリが連作短編の構成をとることが多いのは、それらが「日常の謎」派の系譜にあること、ミステリというジャンルに特有の事情が絡んでいることを無視できない。

 マンガやアニメは、躍動感ある物語作りや映像的インパクトのためにも、SF的で奇抜な設定のコンテンツが多い。ライト文芸でも森見登美彦『四畳半神話大系』(二〇〇五年)や有川浩『図書館戦争』(二〇〇六年)など、並行世界や歴史改変を扱う作品が多く世に出た。しかしライト文芸が活況を呈する以前から、新本格ムーブメントはこういった奇抜さとどう向きあうべきか模索を続けてきた。
 綾辻行人『十角館の殺人』(一九八七年)を嚆矢とする新本格ムーブメントは当初、英米黄金期と呼ばれる一九二〇年代から三〇年代に生まれた傑作群の水準を、国内に実現しようとするルネッサンス運動でもあった。しかし島田荘司は館、名探偵、密室といったお定まりのコードを多用する作品の行き詰まりを危惧し、幻想的な謎の提示とその論理的な解体との融合を求める「本格ミステリー論」を提唱する*4
 死者が蘇る世界を舞台とした山口雅也『生ける屍の死』(一九八九年)など、ホラーやSFといった他ジャンルとのクロスオーバーは新本格の黎明期から模索されていた。京極夏彦『姑獲鳥の夏』(一九九四年)を初めとする〈百鬼夜行〉シリーズは妖怪や民俗学、精神医学といった広範かつ専門的な知識が活用されている。
 作中の名探偵と読者とが同じスタートラインから真実へ到達するには、誰にでも等しく成立する日常論理が欠かせない。超常的なルールの介入や、高度に専門的な知識がなければ解けない謎など、ヴァン・ダインの二十則に諭されるまでもなく本格ミステリとして忌避すべきことだったはずだ。しかし九〇年代の新本格ムーブメントは、主にメフィスト賞を牽引力としてジャンルクロスオーバーや情報小説化へ挑んでいくことになる。
 文芸誌『メフィスト』(講談社)を母体とする新人賞「メフィスト賞」は第一回受賞作の森博嗣『すべてがFになる』(一九九六年)こそ本格ミステリの枠内だったものの、第二回受賞作の清涼院流水『コズミック』(一九九六年)は「一二〇〇個の密室で、一二〇〇人が殺される」という内容や、組織に属する無数の名探偵キャラクターたちが登場することで話題となった。
 メフィスト賞は応募規定として、エンターテイメント作品であればジャンル不問としており、ミステリに限定してはいない。しかし、本格ミステリの枠内に収まるか読者の判断を試すような作品が相次いだのも事実だった。第二十三回受賞作『クビキリサイクル』の西尾維新のようにライトノベルとして支持されるようになった作家や、第十九回受賞作『煙か土か食い物』(二〇〇一年)の舞城王太郎や、第二十一回受賞作『フリッカー式』(二〇〇一年)の佐藤友哉のように、やがて純文学方面へ進出した作家もいた。
 笠井潔は〝清涼院から西尾にいたる「本格読者に物議をかもすタイプの作品」」を、いずれも本格形式を前提としつつ形式から逸脱する傾向が共通している〟(一八頁)ことから「脱格系」という呼称を提唱した。〝脱格系作家には共通して、マンガ、アニメ、ゲームをはじめとするオタク系カルチャーの圧倒的な影響が指摘できる〟(二二頁)という*5
 揺り戻しのように「端正な本格」への志向が現れる。一例を挙げるなら、新本格ムーブメント十五周年となる二〇〇二年に講談社ノベルスから刊行された有栖川有栖『マレー鉄道の謎』のあとがきにおける次の文章がある。

 私は新本格派の一人として数えられることを喜び、楽しんできたし、これからも推理作家として生き永らえることができたら、後世、新本格派と呼ばれたことを誇りに思うだろう。だが、私が当初に理解していた「新本格=新進作家による本格ルネッサンス」というニュアンスは次第に失われ、今では「新本格=オールドファッションの本格に飽き足らない作者と読者のための本格」と解される場面もあるように見受ける。私は、オールド本格が好きでミステリを書き始めたのだが。
 だから、新本格十五周年を祝いながらも書いてしまう。『マレー鉄道の謎』は、ただの本格ミステリである。アガサ・クリスティーとカーター・ディクスン(ディクスン・カー)とエラリー・クイーンの三大巨匠だけを意識して書いた。それに私自身――有栖川有栖を足してxで割ったら『マレー鉄道の謎』になる。xが限りなく4に近いことを祈っている。

 当時、本格ミステリ作家クラブの初代会長を務めていた有栖川の言葉を、クラブ会員たちは真剣に受けとめ反省しただろうか。翌年の二〇〇三年に第三回本格ミステリ大賞を受賞したのは、ホラー要素を大胆にとりいれた乙一『GOTH』(二〇〇二年)だった。
 エンターテイメントに奇想や稚気が求められるのは当然なことかもしれない。しかし、一〇年代前半からはその傾向に変化が生じてきているようにも感じられる。素朴でわかりやすい、体感的な驚きを求める方向へ進んでいるのではないか。
 一〇年代前半は体験型ゲームの流行が目立った。閉ざされた状況からヒントをみつけて小課題を解くことで脱出を目指す「脱出ゲーム」は、日本各地でイベントが実施された。村に紛れこんだ人狼を模擬裁判でみつけだすという設定のゲーム「人狼」はネットゲーム化され、複数のテレビ番組にまでなった。
 書店を歩けば「あなたはきっと騙される」といった、驚きや仕掛けの存在を強調する手書きポップや帯のキャッチコピーを見かける。二〇一四年には、造本に仕掛けのある泡坂妻夫[※「泡」は「己」ではなく「巳」]『しあわせの書』と『生者と死者』が復刊された。二〇一五年には〝二度読み必至〟と謳われた乾くるみ『イニシエーション・ラブ』が映画化された*6
 第五十回メフィスト賞を受賞した早坂吝『○○○○○○○○殺人事件』(二〇一四年)には帯に〝前代未聞の「タイトル当て」!!――必ず騙される。〟と記されていた。ここではもはや、物語の内容ではなく、読者に訴求するであろう目新しさのポイントだけが強調されている。
 情報小説化であれ、ジャンルクロスオーバーであれ、形式破壊であれ、それらはいずれも物語世界への没入感覚を前提としていた。ひとつひとつの文章を読み、それらが指し示すものを心に描き、砂上の蜃気楼をひととき現実の体験と見誤る。超常的な現象との遭遇に驚き、名探偵の一言に認識が塗り替えられる。架空世界の拡張/変容/崩壊を体験することで、現実の社会に対する認識すら変えられてしまう。それが魅力だった。
 だが、小説に求められるものは変わってきているのかもしれない。それはいわば、びっくり箱のようなものだ。蓋を開けることで、なにかが飛びだし仰天する。これを開ければ驚くことができますという商品説明に目を通し、読者は安心して買っていく。人狼ゲームに興じる人々は、参加者に人外が紛れこんでいるかもしれないと本気で怯えてなどいない。脱出ゲームに挑む人々は、なぜ黒幕が絶妙な難易度のパズルを出題してくるのか疑問を感じることはない。現実と見誤るかのような巧緻さを物語に期待するのではなく、虚構は虚構と割り切って、書店ポップが喧伝するとおりの驚きを体験できるかそれだけを案じている。
 簡潔に言えば、機能主義的な受容のされ方をしている。それは、心地よい安らぎや楽しさ、深刻すぎない悲しみや苦みが約束されたライト文芸の隆盛と、根っこではつながっているのかもしれない。

3.カジュアルミステリ

 前置きが長くなってしまった。本稿は、ライト文芸とミステリとが交錯する現代の出版状況を踏まえた上で、現代国内ミステリの状況を「カジュアル」というキーワードによって概観したい。
 私は年末ランキングガイド『本格ミステリ・ベスト10』(原書房)の「国内本格」座談会に二〇一三年度から参加している。そこではときおり「カジュアルミステリ」という言葉を用いてきた。会話の都合上、ライト文芸に包括されるミステリ作品全般を指す呼称が必要だったからだ。具体的には「日常の謎」派作品、学園ミステリ、お仕事ミステリを指す。
 ただ、できればカジュアルミステリという言葉に、もう少し意味の広がりを持たせたいと感じていた。それが本稿の執筆動機でもある。たとえば深水黎一郎『ミステリー・アリーナ』(二〇一五年)をライト文芸とみなす者はいないだろう。だが、この作品をカジュアルミステリとして受けとめることならできる。
 英語のcasualは、さりげないこと、打ち解けていることなどを意味する。たとえばcasual wareならば「普段着」と訳される。辞書的にはcasualの対義語といえばformalだが、ここでは「マニアック」の対義語として解釈したい。これまでミステリを読んだことのない読者でも、手にとってみようと思わせる訴求力があるもの。読みやすく、愉しさがわかりやすく、この作品と似たものにもっと触れてみたいと思わせるだけの魅力があること。本稿では、そういった作品をカジュアルミステリとして扱いたい。
 具体的には、次の要素のいずれかを満たすこととしよう。

 四つの要素すべてを満たしている必要はないことに注意してほしい。先に挙げた『ミステリー・アリーナ』ならば「クイズ番組形式で、章が進むたびに別解が提示される」という奇抜な趣向を耳にすれば、非ミステリ読者であっても手にとってみたくなるはずだ。
 たしかに、ひたすら仮説の提示をくりかえすプロットは、ミステリ好きでなければ苦痛かもしれない。新本格ムーブメント黎明期に「嵐の山荘」ものが多く世に出たという教養もあったほうがいいだろう。十指に余る推理の整合性を検討することは、理解力の高さを必要とする。だが、ジャンル外読者をも魅了する戦略的な特徴を有するという一条件を満たすならば、私はこれをカジュアルミステリに含めたい。
 補足しておくと、前衛的な試みさえしていればカジュアルミステリというわけでもない。帯に宣伝文句として簡潔明瞭に示せるならカジュアルだが、それを明かすことが初読時の興を削ぐことにつながり、しかもマニアしか驚くことのない着想ならば、カジュアルとはみなせない。
 右記の定義を踏まえて、カジュアルミステリは古くからあったのではないかと疑問を覚えた読者もいるだろう。たとえば前述の綾辻行人『十角館の殺人』はアガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』を意識している。だが、大学サークルに参加する若者たちを登場させたことで、古典ミステリの読書経験がない若い読者にも親しみやすい物語となった。また、主にフランスのサスペンス小説で使われ、国内では犯人当て小説においてフェアプレイを遵守しつつも難易度を高めるために発達したマニアックな騙りの技巧を、スマートな演出で大多数の読者に驚愕を与えるものとした。こういった細やかな工夫は、カジュアルミステリ以外の何物でもない。
 学園ミステリやお仕事ミステリは、今世紀に入ってから突如始まったわけではない。説明次第ではミステリというジャンルの源流とされるエドガー・アラン・ポーの短編「モルグ街の殺人」さえカジュアルミステリとなってしまうだろう。本稿を通じて私が著したいのは、カジュアルミステリそのものではない。カジュアルと本格との距離をみつめなおす作業を通じて、本格ミステリとはなんなのか考え直してみたい。
 カジュアルであることは本格ミステリとして駄作、とまでは言わないにしても、後世に名を遺す傑作とはならないものなのか。せいぜい若い読者や、これまでミステリに興味のなかったジャンル外の読者を引き寄せ、やがて本格の素晴らしさに気づかせてくれる、気晴らしの読み物に過ぎないのか。カジュアルであることに、従来の本格にはなかった固有の価値はないのか。そういったことについて、これから考えていきたい。
 次章から、カジュアルミステリの紹介をしていく。基本的に真相や犯人など未読の読者の興を削ぐほどには内容に触れないよう留意する。しかし論の性質上、一般的なレビューより踏みこんだ記述となることを了承いただきたい。本稿は通史を目的としてはいない。一人のファンとして現在のミステリシーンをどう認識しているか、ときに憶断を恐れず気軽に書き綴りたい。挙げるべき作者や作品名に多くの取りこぼしがあることはご寛恕いただきたい。

...ここから作品論に入ります...

7.現代は第二の冬の時代か

 ここまで、カジュアルミステリの特長を説明してきた。リアルな謎を志向してきたことが、究極の操り犯に支配される一元的な世界とは真逆の、固有の知と論理が横溢する多元的な世界観を生みだしたこと。なにが起こるのかわからない細部不明の特殊設定が、ミステリとして求められる役割の鋳型を壊し、斬新なプロットを実現したこと。まず小事件を描く構成や推理経過の途中開示によって、読者を謎解きに参加させ、推理行為の楽しさという本格ミステリの原点へ回帰したこと。
 個々の作品について「そういった特長のある作品は過去にもあった」という指摘は可能だろう。私が本稿で伝えたかったのは、これまで説明してきた数々の作品から総合的に感じる大きな流れだ。
 それは薄暗がりになにがあるのか手探りで捉えようとするような試み、肌感覚で世界の実在を確かめようとする志向性だ。物理学者のように自然を統べる究極の方程式を追い求めるのではなく、手が届く範囲について応答をくりかえしながら確実に仔細を確かめる。真実を求める手段としての推理ではなく、読者が登場人物と一緒になってゲームを愉しむように遊び成長する、推理すること自体が目的の推理が求められている。
 すると、次のような反論が思い浮かぶかもしれない。たしかにそんな傾向はあるかもしれないが、ライト文芸の隆盛やカジュアル化とは独立した動きだと。時代の移り変わりに応じて本格ミステリは変化し続けてきた。文学領域を拡大しようとする試みと、ジャンル外部の読者に迎合しようとする動きとは峻別すべきではないか。
 たしかに、そのような見方は可能だろう。作家側の意識として、カジュアル化と理想の本格を問うことは別のことかもしれない。ミステリ作家たちが編集者にカジュアルな作品を書くよう強要され、好きな本格を書くことができないなどと漏らすのを私は耳にしたことがない。九〇年代後半から続く出版不況を背景に、若い書き手志望たちの意識も変わってきているだろう。ミステリとしての良さ以前に、小説として読むに堪えるものを書くこと、商品としてプロデュース戦略を立てることは当然だと考えているかもしれない。
 とはいえ、謎解きの可能性を探求する作家たちが象牙の塔にこもり、ひたすら数式とにらめっこをしていると考えるのも極端だろう。かつてネットを中心に「本格ミステリ冬の時代」の有無を巡る論争があった。論者によって開きはあるが、おおむね社会派推理小説のブームから新本格ムーブメントが幕開けする前まで本格ミステリは受け容れられなかったとする主張だ。
 森下祐行は昭和二〇年代を起点として国内本格ミステリの歴史をふりかえり〝本格ミステリは戦後を通じて、つねに書き続けられ〟〝「本格」と呼ばれる作品が常に出版され続けたことは事実〟だと結論する*7。その上で冬の時代とは、大戦間黄金期の作品群を意識した、リアリティーから離れた作風のものが減っていたことを意味するのではないかと指摘する。

 「しかし、それはぼくたちの読みたい本格ではなかった」という意見なら、とりあえずわたしも納得しましょう。新本格系の作家たちが好むような、館ものや孤島ものは、新本格以前にはほとんどありませんでした。ですから〝館もの冬の時代〟はあったかもしれません。しかし、そもそも〝館もの春の時代〟なんてあったのですか? 〝名探偵冬の時代〟はあったと思います。昭和三〇年代が、おおむねそれにあたります。しかし昭和四〇年代から名探偵は徐々にあらわれてきましたから、「新本格」が名探偵復活をはじめて実現したわけではないでしょう。そして、〝名探偵冬の時代〟をそのまま〝本格ミステリ冬の時代〟と言ってはいけません。それでは「本格ミステリ」の本質を見誤ることになり、「本格ミステリ」の発展にとって望ましくないからです。

 日下三蔵は、国内ミステリ史における泡坂妻夫の立ち位置を解説した文章で「本格ミステリ冬の時代」論争に触れ、次のように記している*8

 七〇年代から活躍している作家では、皆川博子や辻真先も「本格ものは書かせてもらえない雰囲気があった」という趣旨の発言をしている。森村誠一や西村京太郎の初期作品などは、トリック重視の本格に他ならないし、鮎川哲也、土屋隆夫、高木彬光、中町信、都筑道夫らの作品を「本格ではない」と言う人はいないだろう。
 つまり現代社会を舞台にしたリアルな本格ものはあったのだから、「本格ミステリ冬の時代」というのは、正確には、「リアリティに囚われない本格ミステリ冬の時代」だったと考えられる。神のごとき名探偵が出てきたり、閉ざされた山荘に殺人鬼が出没したり、古い言い伝えのとおりに連続殺人が起こったりというストーリーは現実には起こり得ないだろうが、論理遊戯としての本格ミステリであれば有効な道具立てとなりうる。ここまで極端でなくとも、例えば『乱れからくり』のようなトリック尽くしの作品は一般の小説誌であればリアリティがない、という理由で受け入れられなかっただろうと思われる。

 社会派推理小説ブームの火付け役となった松本清張は、それまでの探偵小説を「お化屋敷」の掛小屋に喩えた。新本格ムーブメントの嚆矢となった綾辻行人『十角館の殺人』では、登場人物が社会派推理小説のリアリズムをもうまっぴらだと否定する。時代の移り変わりと共に、大衆が支持する虚構は変容していく。
 ふたつの価値観があるとき、それは必ず二項対立するとは限らない。ひとつの価値観が他方の価値観を阻害することもあれば、化学反応の末に双方の価値観の信奉者を驚かせる奇妙な合成物が生じることもあるだろう。独立した価値観が交錯するとき、試されるのはその観察者だ。
 リアリズムは本格ミステリに、巧緻な犯行計画を練る犯人像や、身近な日常に不思議が紛れこむ街角のイリュージョンをもたらした。それと同時に、壮年期のサラリーマンたちを慰撫することしかできない、想像力の貧しさをもたらしたのかもしれない。だが、それを本当の意味でリアリズムの呪縛と呼べるのか。
 同じことが、カジュアルという概念にも言えるだろう。原書房の〈ミステリー・リーグ〉や南雲堂の〈本格ミステリー・ワールド・スペシャル〉のように、歯応えのある作品を刊行し続けているレーベルもないわけではない。しかし、九〇年代後半から続く出版不況は未だ底を打ちそうにない。現代の国内ミステリは、手に取りやすいカジュアルな作品が求められるあまり、難解すぎる本格ミステリは受け容れられない冬の時代なのかもしれない。だからといって、読者に受け容れられるものを創ろうとすることを、想像力を放棄することの言い訳にはできない。
 この文章は二〇一六年に綴っている。来年、新本格ムーブメントは三十周年を迎える。このムーブメントが三十年間も途切れることなく続いてきたかはさておくにしても、節目の年を迎える前に、本格とカジュアルとの距離について整理しておきたかった。
 カジュアルであることと、本格ミステリとしての巧拙とは必ずしも重ならない。だが、異なる価値観に刺激されることで新たに見えてくるものもあるだろう。これから十年あるいは二十年後に誰かがミステリ史を記したとき、現代は第二の冬の時代だったとされるのか、それとも論理遊戯の探求が倦まず弛まず続けられていたとみなされるのか。それは私たち一人ひとりの読みの蓄積によって決まるように思われてならない。