七月十八日に映画『バケモノの子』を劇場で鑑賞した。少年の成長を描く娯楽活劇として愉しんだが、いくつか疑問を覚えた箇所があり、覚え書きを残しておきたい。

心の闇とはなんなのか

 前半はわかりやすかった。九太と熊徹のやりとりをゲラゲラ笑って観ていられたのだが、後半になると「これはどういう意味だろう」と首を傾げる箇所が増えてきた。
 大きく疑問を覚えたのは、心の闇に関することだった。箇条書きにすれば、以下となる。

 それぞれ簡単に「不安定な感情」「実の父と育ての父との間で心が揺れた」「楓の毅然とした態度に勇気づけられた」「尊敬する猪王山に裏切られた」「熊徹と一体化し大きな力を得た」と答えることもできる。
 ただ、物語全体の諸要素との整合性からすると、もう少し精緻な言い方ができるのではないか。不安定な感情とはどんな感情なのか? 蓮はどう心が揺れ、なぜ楓はそれを軽減させることができたのか? ひとつひとつ、追っていきたい。

孤独から生まれる闇

 心の闇とは「社会から拒絶されたことへの怨嗟」ではないかと思う。
 蓮は母を喪い、母と離婚した父とも会えなかった。渋谷の街をあてもなく放浪するうち、自分に味方は一人もいない、社会から拒絶されていると感じたことだろう。
 これには証拠がある。渋天街(バケモノの世界)に迷いこんだ翌日、猪王山と争いになった熊徹が誰にも応援されないのを目にした蓮は、思わず声援を送ってしまう。味方がいない孤独を蓮は痛切に感じていたからこそ、熊徹が負ける姿を目にしたくなかったのだろう。
 そう考えると、八年後に成長した蓮が渋谷の街で再び影のようなものと出会い、それをあの頃の自分だと認識し、そして心に闇を宿すようになったことと整合する。渋天街に迷いこみ、蓮は自分を拒絶した人間社会から去った。だから、闇だけが渋谷の街にそのまま留まった。

 ところが、心の闇を社会への怨嗟だと仮定すると、なぜ成長した蓮に闇が宿ったのかわからなくなる。
 自分を拒絶したはずの人間社会は、成長した蓮を快く迎えてくれた。楓と出会い、それまで知らなかった新しい世界を知った。実父はずっと自分のことを忘れず、心配し続けてくれていた。いまさら蓮が社会を拒絶する理由はないはずだ。
 同じことが一郎彦にも言える。父と信じる猪王山を尊敬し、バケモノの世界で誰からも愛されていた。一郎彦が憎んだのは猪王山を倒してしまった熊徹や、その弟子の蓮だけで、社会への怨嗟とは無縁だったはずだ。

 まず先に、なぜ成長した蓮に闇が宿ったのか考えてみよう。きっかけとなったのは、実父の言葉だろう。実父にとって、息子が行方不明になったのはまるで昨日のことのようだった。蓮にはそれが、熊徹たちと過ごした歳月を否定されたように感じたのかもしれない。
 一方で熊徹は、蓮が勉強すること、大学へ入ろうとすることを咎める。それは蓮にすれば、人間の世界を否定されたように感じられただろう。バケモノと人間、どちらの社会に属すべきか。蓮が直面したのはそんな不安だった。いや、正確にはそうではない。どちらの社会でも生きていくことができないかもしれないという不安だったのではないか。

 そう考える根拠は、楓が蓮の闇を抑えたことにある。
 楓は強い少女だ。図書館で騒ぐ学生たちに躊躇なく注意をする。といって、仕返しに暴力を振るわれて太刀打ちできる腕力があるわけでもない。
 楓の強さとは、孤立を恐れない強さだろう。親の一方的な期待に応えるため勉強しているが、それはあくまで大学に入学し、束縛から逃れて自由をつかみとるためだと割り切っている。
 幼い頃の蓮と異なり、楓は味方が一人もいなくとも強く生きている。だからといって、楓が孤独を感じないわけでもない。勉強の目的を蓮に打ち明けた後、初めて本音を人に打ち明けることができたと安堵した表情を見せる。
 闇が宿り、恐ろしい顔になった蓮を平手打ちした後、楓は誰もが同じ不安を抱えていると諭す。これは、自分自身のことではないか。たった一人、心のうちを家族にすら打ち明けず、自由を手に入れるため楓は不安を抱えながら孤独に生きてきた。本当は心細かったからこそ、それを蓮に打ち明けたとき笑顔になったのではないか。

愛情から生まれる闇

 心の闇とはなんなのか、もう一度考え直してみよう。社会から拒絶されることへの怨嗟と捉えるだけでは、なにかが足りない。なぜ、怨嗟が生じるのか。
 それは助けの手を差し伸べられないことへの不安、社会から見捨てられるかもしれないという不安の裏返しではないか。
 そして、ここがもっともわかりにくい箇所だが、その不安は愛情によって解消されるものではない。愛情は依存を生み、依存は不安を拡大させてしまう。孤独だけではなく、愛情も闇を強めてしまう。

 熊徹は、口喧嘩はしても蓮のことを憎からず思っていただろう。実父は、長らく行方知れずだった息子との再会を心底喜んだだろう。そして蓮は熊徹のことも実父のことも慕っているだろう。
 蓮は楓から勉強を教わり、それまで知らなかった新しい世界に魅了された。だが、熊徹はそれを認めようとしなかった。だからといって、実父に渋天街で過ごした歳月を否定されることも我慢ならなかった。
 もし仮に蓮が勉学をあきらめて渋天街で生き続けたなら、人間社会を酸っぱい葡萄とばかりに軽視することになっただろう。逆に人間の世界へ戻ってきたなら、バケモノの世界で過ごした日々は幼年時代の夢まぼろしだったと自分を納得させただろう。
 だが、蓮にはどちらも選択できなかった。熊徹との絆が深ければ深いほど、新しい世界に魅了される自分を受け容れることができない。親しい者たちからの愛情が強ければ強いほど、矛盾に引き裂かれ蓮の懊悩は深くなる。それが、蓮の心に宿った闇だったのではないか。

 このように整理すると、なぜ一郎彦が闇を宿すようになったのかもわかってくる。
 幼い頃の一郎彦は、次郎丸たちにイジメられていた蓮を助けた。猪王山を尊敬し、高潔な態度に惹かれていた一郎彦に人間への蔑視はなかった。
 成長しても、牙が伸びず鼻も長くならない。自分は人間かもしれないという不安が徐々に高まっていく。その裏返しが、成長した蓮への敵意だろう。
 考えてみると、これはおかしな話だ。かつて人間である蓮を受け容れたように、一郎彦も自分自身が人間であることを受け容れれば、それで済む話に思える。
 描写が少ないため想像するしかないが、それでは一郎彦にとって無意味だったのだろう。一郎彦が尊敬し、斯くありたいと願ったのはバケモノの猪王山だった。一郎彦はそれを実現できると疑いなく信じてきた。その歳月の長さと想いの深さが掛けあわされたとき、自分は人間であるという事実を直視することができなくなっていた。
 蓮と同じく、ここでも家族間の愛情の深さが社会への帰属の不安に、そして強い憎しみへと転じる機序が働いている。渋谷をさまよっていた幼い頃の蓮は、誰からも愛されないという想いから闇を宿した。だが、熊徹と過ごした日々によって孤独を解消された蓮は、逆にそれを失うことへの不安を抱えるようになった。
 一郎彦と猪王山との間に、熊徹に勉学を否定された蓮のような、わかりやすい反目は生じていない。だが、一郎彦はいつか猪王山に自分が人間であることを明かされ、決別を告げられることを恐れていたのではないか。現実には猪王山のほうは、人間であっても一郎彦を息子同然に思っていた。だが、懊悩が膨れあがった一郎彦は判断力を失い、熊徹に剣を突き立てる暴挙へとつながった。

バケモノとはなんだったのか

 心の闇が社会的な孤立への不安だとすれば、それはどのように解消しうるのか。どのようにして一郎彦の闇を蓮は抑えることができたのか。
 ようやく、ここで蓮の修行の日々が伏線として活きてくる。熊徹との師弟関係は、一方的に熊徹から教わるだけではなかった。蓮は望んで強くなったわけではなく、誰も味方がいない熊徹のため、弟子になるという形で味方になろうとした。ずっと一人きりだった熊徹は、蓮に教えることで動きに無駄がなくなり強さを増した。蓮と熊徹、二人は互恵関係にあった。
 これは、楓との関係にも同じことが言える。これまで家族にさえ心を許すことがなかった楓は、初めて蓮に胸の内を告白する。蓮と出会うまでの楓は、書物だけを心の友として生きてきたのかもしれない。おまじないとして腕に結んでいた栞を蓮に与え、おかげで蓮は一郎彦への復讐を思い止まる。
 自分の胸の内に他者を宿らせること。相手に依存するのではなく、共に生き、互恵関係を築くこと。社会からの孤立を恐れずに生きること。正直なところ、一郎彦に立ち向かおうとする楓の姿は危なっかしくてしょうがない。だがそれは、自分には味方がいるという裏打ちがあってのものだろう。

 そもそも、この映画のタイトルはなぜ「バケモノの子」なのか。
 想像に過ぎないが、それは蓮の、バケモノの子はバケモノというセリフから来ているのかもしれない。
 これを、血はつながっていなくとも絆が育まれていれば関係ないという意味に解釈するなら、自分は人間かもしれないと怯えていた一郎彦を安心させるだろう。
 しかし、それなら蓮はなぜ渋天街を去って帰ってこなかったのか。熊徹と蓮は事実上、父子のようなものだった。バケモノの子がバケモノなら、熊徹の息子である蓮はバケモノではないのか。なぜ人間社会に戻ることを選んだのか。
 けっきょく、この映画でバケモノとはなにを意味する存在だったのか?

 それは宗師が、心に闇を宿すのは人間だけだと言っていたことと関係するかもしれない。裏返せば、バケモノは心に闇を宿すことがない。すなわち、社会から拒絶されることへの不安を抱かないということになる。
 渋天街を闊歩するバケモノたちの姿からすると、さまざまな種族がいるようだ。人間である蓮や一郎彦は社会への帰属の問題で悩んだが、バケモノたちはどうやらそんな悩みとは無縁らしい。多様な種族が混淆する世界で自分を見失わずにいられる者、それがバケモノだ。
 そう考えると、あのラストが腑に落ちる。熊徹に育てられた蓮は、バケモノの子だった。そしてバケモノとなり、たとえ人間社会であろうとどこであろうと、強く生きていけるようになったのだろう。

 細田守監督の過去の作品『サマーウォーズ』(2009年)、『おおかみこどもの雨と雪』(2012年)にこの作品を加えると、個人と共同体との関係の描き方がグラデーションのように変化していることが感じられる。
 未視聴の方に配慮して遠回しに述べると、『サマーウォーズ』は人々のつながりによって脅威に抵抗する物語だった。それが『おおかみこどもの雨と雪』では、生きるために必要な場所を選択する物語となっている。本作では、個人と共同体との問題がさらに先鋭化している。

 個人と共同体の問題そのものは、物語にとって普遍的なテーマだろう。ただ、それを即物的な利害関係だけではなくコミュニケーションや自意識も絡めて描くようになってきたのは恐らくは2010年代前半辺りからだと感じる。
 個人的に印象深い作品を挙げると、平坂読のライトノベルをアニメ化した『僕は友達が少ないNEXT』(2013年1月~3月放映)や、アニメ『ブラック★ロックシューター』(2012年2月~3月放映)がある。

少女たちの不安と仲良しの行方――TVアニメ『ブラック★ロックシューター』感想
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 上記の感想を読んでいただけるとわかるが『ブラック★ロックシューター』では個人と共同体の問題について根本的な解決手段が提示されたとは言い難い。原作を追っていないため『僕は友達が少ない』のほうでどんな解決が提示されたのか私は知らない。
 わずか二時間という尺の短さで、重いテーマを扱い、答えをだし、小さな子供でも愉しめる娯楽大作に仕立て上げた手腕が素晴らしい。
 まあ、でも、やっぱり楓のセリフは滑ってたと思うな!