戯画的な演出や運頼りの展開がなぜ必要だったのか

 TVアニメ『SHIROBAKO』が最終回を迎える前週、第23話を視聴していて、二つの疑問を感じました。
 監督と原作者が会話を交わすまでの過程を、なぜあそこまで戯画的に描かなければならなかった、というのがひとつ目です。
 ふたつ目は、声優の坂木しずかがルーシー役を与えられる理由を、ほぼ彼女の実力とは関係なしに、偶然与えられる展開にしたのはなぜか、ということです。

 これらを疑問とはみなさない人も多いでしょう。
 このアニメは写実的な描写を基調としていますが、現実離れした演出がないわけではありません。
 声優のオーディションで、坂木はキャサリン役としては声が若すぎる、という周到な伏線がありました(第14話)。監督と原作者との対話の末、急遽登場することとなったキャサリンの妹であるルーシー役に抜擢される、という展開はごく自然です。

 しかし、なぜ最終回直前でこうしなければならなかったのでしょう。『SHIROBAKO』は複数のエピソードが並行して展開する複雑な作品です。これだけの高い構成力を持つドラマが、よりによって物語が大詰めを迎えるこのタイミングで、なぜ戯画的な演出や運頼りの展開を必要としたのでしょうか。

 TVアニメ『SHIROBAKO』は、武蔵野アニメーションに所属する宮森あおいを中心に、アニメ制作に関わる人々を描いた群像劇です。
 第一クールではオリジナルアニメ『えくそだすっ!』の制作過程が描かれ、入社一年目の宮森は制作進行を担当します。後半の第二クールでは『第三飛行少女隊』というマンガ原作に基づき制作され、宮森は少し出世してデスクを務めます。並行して、かつて宮森が高校時代にアニメーション同好会で一緒だった友人たちの顛末が描かれます。

 宮森の姿を通して描こうとしたことのひとつは〈夢〉だったのではないか、と思います。踏みこんで言えば「夢を大切にしながら働くことの素晴らしさ」です。
 ただ、それは「ブラック企業」という言葉が新語・流行語大賞を受賞する(2013年)ような世相からすれば、素直には受け容れがたい主張かもしれません。
 このアニメがどのように現実を描き、あるいはどのように上手な嘘を吐いたのか考えてみたいと思います。

 その前に、そもそも先程の疑問点は、なにが良くないのでしょうか。リアリティを無視した描写をすること、作者が物語世界における確率の偏りを操作することは、なにがまずいのでしょうか。
 これは、真面目に考え始めると大変なことになるでしょう。そんなことはそもそも欠点でもなんでもない、という意見さえあるはずです。

 ここでは話を簡単にするために、物語とは「作者が受け手にひとつの主張を納得させること」を目的としたゲームだと仮定します。
 考えてみれば、物語で人を説得するなんてことは難しいことです。どんなに巧妙な物語でも、絵空事だと言われてしまえば説得力を減じます。作者が恣意的に創りあげた結末に過ぎないと言われることもあるでしょう。
 裏返せば、説得ゲームとしての物語は二つの規則を遵守すべきでしょう。
 ひとつ、物語は現実を鏡のように映していなければならない。この世のどこかで本当に起こり得た話だと言われても、信じられるくらい巧妙かつ精緻でなければならない。
 ふたつ、展開に無理があってはならない。ある最初の状況だけは認めても、そこからの展開に都合のよすぎる幸運を乱用したり、登場人物たちが理由もないのに不自然な翻意をさせてはいけない。

 こう考えると、第23話は説得ゲームにおける悪手を二つも打ってしまったことになります。
 実は、これら二つとも悪手ではなかったのではないか、このアニメの制作者たちは意図的にそうしたのではないかというのが本稿の結論です。

内面の真実を描くリアリティと寓意への昇華

 ひとつ目の疑問から取りかかりましょう。さきほど『SHIROBAKO』は写実的な描写を基調としていると書きましたが、そうでないところもあります。
 代表的な例は、人形とぬいぐるみとの会話でしょう。ファッションドールのミムジーと、クマのぬいぐるみのロロが、あたかも自分の意思で動いているかのような場面が何度も描かれています。しかし、ときおり宮森が一人で会話を演じる場面が挿入されることから、これらは空想の会話だとわかります。

 他にも、宮森の空想だということがうかがえる場面があります。
 監督の木下誠一が『えくそだすっ!』に登場するキャラクターの人物像についてスタッフたちと打合せ(第2話)をし、意気投合したときには、そのキャラクターたちが打合せの場に同席しているかのような光景が描かれました。
 丸川社長が制作進行を務め、後に倒産した武蔵野動画の社屋へ足を運んだ(第19話)ときには、そこで働いていた人々の姿を、まるでタイムスリップして過去へ迷いこんだかのように目にします。これは、丸川社長が語る思い出話などから宮森が想像した光景を再構成したと受けとめるべきでしょう。

 宮森の空想なのか、判断しがたい箇所もいくつかあります。
 例えば『えくそだすっ!』最終話の絵コンテを書きあげる場面(第10話)では、監督の身体が白い光を放ち、人間業とは思えない速度で鉛筆を走らせます。
 演出家の池谷ひろしが何度も仕事から逃げようとし、そのたびに宮森の先輩である矢野エリカが先回りして笑顔で迎えます。池谷の逃亡手段はエスカレートしていき、まるで刑務所からの脱走劇のように地下に掘られた穴を移動する場面(第21話)がでてきますが、これも常識的に考えれば嘘でしょう。

 第23話では、監督が『第三飛行少女隊』の原作者である野亀武蔵と直接対面しようとし、それを妨害しようとする出版社側の人々を、さながらカンフー映画のごとく倒していきます。ドライバーで打たれたゴルフボールを次々とかわし、脂肪たっぷりの腹で跳ね返したりします。
 これらの場面に宮森は立ち会っていません。しかし前述のとおり、宮森の空想が映像化されていることからして、これらの場面も「宮森が後になって当事者たちから話を聞き、胸に思い描いた光景」ではないか、という解釈が成り立ちます。

 説明が長くなるので発達心理学などの具体例までは挙げませんが、人は映画カメラのように、物理的にありのままの光景を目にしているわけではありません。さまざまな感情や期待、妄想を加味した目で世の中を捉えています。
 これらの場面の多くは、アニメ制作におけるトラブルが解決された場面です。物事がスムーズに動きだしたときに宮森と視聴者が一体となって感じる高揚感が画面に反映されている。いわば、内面の真実という意味でのリアリティを重んじた絵作りだと言えるでしょう。

 ところで、逆に宮森が困難に突き当たるシリアスな場面、例えばサーバーの故障で納品ができなくなったとき(第3話)や、制作進行の一人である平岡大輔の勤務態度についてアニメーターの瀬川美里から厳しい指摘を受ける場面(第21話)などは誇張がされません。
 すると、絵コンテをなかなか完成させようとしない監督を座敷牢じみた檻へ閉じこめる場面(第5話)は、まぎれもない現実ということになりますが……。

 内面を描く演出が特に優れていると感じたのは、前述した武蔵野動画の社屋を訪れる場面です。タイムスリップしたかのように、活気があった頃のアニメ制作の現場を幻視した後、武蔵野動画が制作した『山はりねずみアンデスチャッキー』の場面が描かれます。しかし、声だけはアニメ制作に携わったスタッフたちのものであり、将来の夢を語りあいます。

 こういった会話を写実的に表現することは不可能ではありません。しかし『アンデスチャッキー』の場面を借りて語られた、悪く言えば歯の浮くようなセリフを、もし写実的な表現でいきなり始めたなら、視聴者はとまどったでしょう。こういった会話が交わされるに至るまでの膨大な過程を、あたかも自然に起きたように描く必要があるでしょう。
 宮森の内面でありながら、これはすでに一個人の内面を超えた表現となっています。先人たちが経てきた時が描かれ、その想いの蓄積が寓意へと昇華されています。アテレコという、まさにアニメにしかできない表現によって為されていることにも注目すべきでしょう。

 この場面は、客観的な現実を描いていないという意味では嘘です。宮森が社屋に残されたセル画や社長の語る話から「そんなことを思い描いた」に過ぎません。しかし、ベクトルの異なる現実の描き方だとも言えます。
 このエクスキューズを成立させるためには、逆説的ですが写実を必要とします。全体的には写実的な描写を基調としているからこそ、視聴者はこの場面をすぐに宮森の内面描写として了解できます。それは言い換えれば、幻想的な光景をひとつの現実として受け容れることができるということです。

 説得ゲームとして戯画的な演出が悪手だという考えは、戯画的な演出は現実を反映していないことが根拠となっていました。しかし、それは『SHIROBAKO』には当てはまりません。このアニメでは誇張された光景が、たとえその場に宮森がいなくとも、ある種の現実を反映していることを視聴者は即座に理解できるからです。
 第23話の戯画的な演出は、戯画的だからこそ、このアニメが成功へと向かっているというメタレベルのメッセージを視聴者に届けます。全体的には写実表現を基調とすることで、最終回直前において内面描写を寓意へと昇華した描き方をする。そんな説得ゲームとしての戦略が、強く視聴者の心を揺り動かしたのではないでしょうか。

物語の奇跡と代替不可能な物語

 ふたつ目の疑問について考えるには、あらすじを追う必要があります。この作品は、夢を大切にすることの魅力を語りながらも、そこへ深刻な現実を何度も突きつけ、強烈な自己批判を浴びせています。

 第一クールで宮森は、自分の夢がなんなのかわからないことに悩んでいました(第10話)。目の前にある山積みの仕事を次から次へ片づけるばかりで、将来の具体的な目標を想い描くことができていませんでした。
 しかし前述の通り、武蔵野動画の社屋で、かつてアニメ制作に情熱を傾けていた先人たちを幻視します。背景画を依頼した大倉正弘はこの仕事を四十年にわたって続けてきましたが「目の前の面白そうなこと、必死にやってただけだよ」という言葉を宮森にかけます(第19話)。
 これも前述しましたが、平岡の不熱心な態度に宮森のもとへクレームが寄せられます。かつて彼はアニメ制作に夢を抱いていましたが、自己中心的なスタッフたちの仕打ちに絶望したという過去を打ち明けます(第22話)。
 これは、深刻な矛盾です。がむしゃらにやっていさえすれば自然と夢はみつかる、というのが先人たちのメッセージでした。しかし、がむしゃらに仕事をしていた平岡は夢を失ってしまったのです。

 さらに強烈な矛盾を突きつけてくるのが声優の坂木しずかです。高校のアニメーション同好会で一緒だった宮森は、彼女が名前のある役を与えられない状況を知っていました。夢がわからないまま仕事に追われる宮森と、夢を追いかけながら仕事を与えられない坂木、二人は対照的な描かれ方をしています。
 この深刻な問題をどう解決するのか興味を抱いていたからこそ、第23話の展開にしばし呆然としました。坂木がまったく努力をしなかったわけではありません。しかし、監督にしてみれば坂木を選んだ理由はあくまで声が最適だったからであり、坂木の努力や才能を買ったわけではありません。友人とはいえ宮森も、坂木のことを監督に推薦するといったことはしていませんでした。

 これは『SHIROBAKO』を制作した監督や脚本家の力不足でしょうか。
 詳述はしませんが、このアニメに頻出するさまざまなトラブルの解決方法は、仕事仲間からのアドバイスや人脈といったごく常識的なものばかりです。これだけ構成力の高いドラマを創ってきたわけですから、坂木が才能や努力によって仕事を手に入れる、説得力の高い物語を生みだすことは不可能ではなかったでしょう。
 したがって、この展開は意図的なものとなります。それでは、才能や努力だけではどうにもならないことがあるという残酷な現実を突きつけたかったのでしょうか。それは意図のひとつかもしれませんが、すべてはないように思うのです。

 もしこれが第三者の立場であれば、ルーシー役の声優に誰が選ばれるかはたいした問題ではありません。監督は坂木ではなく他の声優を選んだかもしれません。そして、その声優の友人が宮森と同じように喜び、涙することだってあったかもしれません。
 しかし、当たり前のことを言うようですが、実際はそうではありませんでした。選ばれたのは坂木であり、その友人は宮森でした。そして視聴者は宮森の目を通して、これまでの過程を一緒に体験してきました。
 ここに、物語の魔力があります。努力や才能が関係しないということ、必然性が介在しないということは、言い換えれば誰とでも交換可能ということです。しかし、どんな物語にも交換不可能な人物がいます。それは、私たちです。

 坂木はルーシー役として「いま私、少しだけ夢に近づきました」というセリフを発し、宮森は脚本で顔を隠しながら号泣します。
 視聴者は宮森と共にアニメの制作に携わり、トラブルを解決し、仕事に恵まれない親友の姿に心を痛めてきました。宮森の涙は、努力や実力だけではどうにもならなかった夢が叶った奇跡に遭遇したことへの涙でした。

 奇跡、などという言葉を使うのは大げさすぎるでしょうか。
 ひとつ目の疑問への答えが、このアニメは宮森の内面的な真実に沿った、いわば宮森の実存と切り離せない形でのリアリティを追及した結果だったことを思いだしてください。ふたつ目の疑問への答えはこれに照応しています。

 なぜ、説得ゲームとしての物語は幸運に頼ってはいけないのか。それは作者の恣意的な介入を感じさせるからでした。極端な確率の偏りが自然発生することなどありえない。だからこそ、努力や才能といった必然性がなければ物語の主張に納得できません。
 このアニメはその基本戦略どおり、ほとんどのトラブルについては現実的な解決が為されます。逆説的ですが、それがあるからこそ、この最終回の直前において僥倖が胸に響きます。予想もつかないトラブルが次々と降りかかる、現実的で不条理な世界観が明瞭に提示され、説得力を以て描かれていたからこそ恣意性が恣意性ではなくなるのです。
 ひとつ目の疑問で見てきたように、視聴者は宮森の認識というフィルターを通して『SHIROBAKO』の世界を体験してきました。客観的に確率の低いだけの事象としてではなく、他の誰でもない宮森と私たちの目の前で起きたこととして坂木の幸運を体験できたのです。

 アプローチの仕方が異なるのですが、これはTVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年1月~4月放映)のストーリー展開に通じるものがあるのではないかと思います。
 物語の大半を費やして、個々人が最善と信じる選択をしても、最悪の結果へと向かってしまうという法則が提示されます。負の感情が蓄積されるからこそ、SF設定の曖昧さを利用した逆転劇が成立します。

 こんなやり方は、やはり作者の恣意性に過ぎないのでしょうか。
 そもそも恣意性が批判されるのは、それが作者の独りよがりな自己満足や技術の未熟さの現れとみなされるからでしょう。『SHIROBAKO』も『魔法少女まどか☆マギカ』も、物語の大半が、思い通りにはならない現実を描くことに費やされています。これは高度な構成力や演出技術の裏打ちがあって初めて成立する危うい手法であり、そのことを考慮すれば恣意性と呼ぶことは不正確でしょう。
 私は今のところ、この技法を「物語の奇跡」と呼ぶしかありません。

 このような技法は、セカイ系の作品群を経て生まれてきたのかもしれません。
 セカイ系とは、ある意味では現実を直視する作品でした。世界を選ぶか、それともヒロインを救うか。どちらかを犠牲にする二者択一を迫られるということは、言い換えればご都合主義な結末を拒否するということです。傷を負うことなく得られる幸福な結末など無い、そんな当然の事実を虚構の世界へ持ちこんだのがセカイ系ではなかったかと思います。

 世界は不条理に満ちていて、人々の想いや願いは届かないまま誰もが翻弄され続ける。この悲観的で強固な現実認識は『魔法少女まどか☆マギカ』に、そして『SHIROBAKO』に通底しています。
 そのような現実認識をどうやって打ち破るかという文学的課題への回答のひとつが、物語の奇跡です。私たちは幸福な結末を迎えられるようには運命づけられていない。そんな誰とでも交換可能で偶発的な存在だからこそ、内面的真実というリアルの側から、偶然を奇跡として素朴に祝福することができます。

 第23話では、監督が『第三飛行少女隊』の原作者と意思疎通できなかったのは、担当編集者の茶沢信輔の怠慢だったと明かされます。このことについて、茶沢だけが悪の象徴じみた描かれ方をされたことに疑問を覚える、という意見をみかけました。
 これは、原作者との意思疎通を妨害した責任者という点では確かにそのとおりです。しかし『SHIROBAKO』というアニメ全体では、これほど悪役を多様に描いた作品はむしろ珍しいのではないでしょうか。

 このアニメには、ろくでもない大人たちばかり登場します。仕事から逃げようとする人、手を抜こうとする人。矢野のようにやむを得ない事情(父親の病状悪化)で仕事から離れたり、厳しい言葉を臆せずにぶつける瀬川といった、決して悪人とは言い難い人たちもいます。
 第一クールでは失言でスタッフの感情を逆なでしたタローこと高梨太郎は、第二クールでは新人をリラックスさせたり(?)平岡を励ましたりします。第二クールでは活躍した監督も、第一クールでは宮森たちに迷惑をかけてばかりでした。

 『第三飛行少女隊』の制作において、監督は3Dのクリエーターや背景など、あらゆるスタッフにあなたたちが担当するものこそが主役だと声をかけます(第16話)。
 正直なところ、このアニメに登場する人々はむしろ、一人ひとりが敵役のようでした。しかし、フィクションの中の登場人物のように、ずっと敵役ばかり務める人ばかりでもなかったのです。
 アニメ制作に関わる人たち、一人ひとりに物語があります。しかしそれは、幸運に助けられるとは限らない、才能や努力さえあれば成功するなどという確約もない、セカイ系以後の物語です。
 私たちも宮森も、さまざまな人生の目撃者であり、主役であり敵役であり、そしてかけがえのない自分自身です。

 人は成長したり、しなかったり、堕落してしまったり、また夢をみつけたりします。現実は不条理で、綺麗事は通用せず、かといって願いが永久に叶わないとも限りません。
 このアニメが描いてきたのは、そんな当たり前のことばかりです。その健全な現実認識があるからこそ、夢を大切にしながら働くことの素晴らしさというテーマが説得力のあるものになります。
 現実は厳しいものです。しかし、現実は厳しいというリアルを知った人にこそ、夢へと近づく喜びが温かなものとして胸に沁みるのではないかと思います。