映画『インターステラー』について気になった箇所があり、後日つらつら考えさせられた。鑑賞したのが十一月二十九日と一ヶ月近く前のため、なにか記憶違いあるかもしれないが、覚書を残しておきたい。

 気になったのは、娘とようやく再会できたにもかかわらず、クーパーはなぜ涙を流さなかったのか、という点だった。

 もちろん、事前に心構えができていたというのはあるだろう。たとえ相手が高齢の姿に変貌していても、娘は娘であり、気丈に振る舞えたのかもしれない。
 ただ、それでも病室で対面したときのクーパーはやけに余裕ありげな表情をしていた。父と娘の愛情を描いた作品にしては、娘に諭され、意気揚々とまた深宇宙の旅にでかける結末も、やや流れが不自然に感じた。
 二十年以上にわたる息子からのビデオレターを目にしたときはあれほどぼろ泣きしていたのに、どういう心境の変化があったのだろうか。

 クーパーの心理を追ってみよう。マン博士に襲われるが、なんとか母船に帰還。だが燃料等の不足により、地球へ帰る術は断たれたと知る。クーパーはアメリアだけでも次の惑星へ向かうことができるよう、犠牲となってブラックホールへ向かう。
 それまでは地球へ帰ることに固執していたクーパーが、自己犠牲を払った心理は自然だろう。決してマン博士の主張に賛同したわけではないにせよ、娘との再会はもはや絶望的だと納得できたなら、人類のため犠牲になろうとするのも当然だ。
 しかし、クーパーは死ななかった。恐らくは未来人の手によって構築された五次元の空間へ迷いこみ、娘をサポートする。書棚から本を落とすなどしていた幽霊は、他ならぬ自分自身だったと知ることになる。
 恐らく、ここで一致したのではないか。それまでは、人類を救おうとする行為と、家族への愛情は両立が難しいものだった。人類を救うことは重要だが、そのために家族を犠牲にするのでは意味がない。それこそ、クーパーが地球へ帰りたがった理由だった。
 だが、ここでその乖離は消え失せる。あの秘密施設へ自分をたどり着かせた存在が、二度と再会はできないかもしれないアメリアとコンタクトをしたのが、そして娘に特異点のデータを伝えて人類を導こうとする存在こそが自分だった。それはクーパーだけが英雄というわけではない、その先にある遥か未来の人々の力があってのことであり、そしてクーパーもある意味では未来人の一人だと云えるだろう。

 セカイ系と呼ばれる作品群ではときに主人公が、世界を救うか、あるいはヒロインを救うか選択を迫られるという展開がある。世界の危機といった大状況と、ごく身近な日常という小状況とがダイレクトに関わること、その乖離に卑小な個人が引き裂かれることが、セカイ系作品における文学的課題だった。
 クーパーもまた、同じ悩みを抱えていたといえるだろう。だが、社会の一員として為すべきことを為すこと、そして家族を愛することが、この映画では矛盾しない。人は、支え合いながら生きている。それは幽霊のように普段は目に見えないかもしれないが、遥かな時間と空間を越えて見守ってくれている。
 それを理解したからこそ、クーパーはもう涙を流さなかったのだろう。家族との愛情には時空の隔たりなど関係しないことを彼は気づいた。五次元空間のなかで、彼はとっくに娘との再会を果たし、長く共に生きたとも云えるかもしれない。いまさら物理的な距離が縮まったという意味での再会に涙する理由など無くなっていた。

 このように理解したところで、ひとつ気づいたことがある。冒頭、クーパーは無人飛行機と遭遇し、パンクしたタイヤの交換を放りだして追跡を始める。トウモロコシ畑を突っ切って、まるで少年のように興奮しながら無人飛行機を追いかける。
 タイヤの交換は、回転する母船に着陸船をドッキングさせようとする行為と、どこか絵的に似ていないだろうか。クーパーはもちろん家族を愛していただろう。だが同時に、夢中になったものがあると周囲が目に入らない危うさもあるのではないか。
 三時間近くかけて、この映画は一人の男の成長を描いたのかもしれない。それは、親子の愛情を描くだけではない。無敵のスーパーヒーロー生誕などという、マッチョイズムの物語でもない。孤独に打ちのめされたマン博士が非道な振る舞いをしたように、家族を守るためという理由に固執し続けたなら、やはりクーパーもどこかで折れてしまっただろう。それは、農場に残り続けた息子が結果的に家族を傷つけてしまったことに現れているように思う。
 宇宙船に乗ることを了承したのは、どこかへ真っ直ぐに飛んでいきたいという半ば無意識の衝動があり、家族のためというのは口実に過ぎない側面もあったのかもしれないと思う。物理的には、彼は宇宙船に乗りワームホールで外宇宙を旅した。しかし、人口重力を生むため回転する宇宙船は、相対的には同じところをぐるぐると回っている。重力の影響で、クーパーは年をとることさえない。映画鑑賞者の視点からすれば、クーパーはなにも変わらず、終りのない停滞状態にあった。
 マン博士との確執やアメリアへの想いから、ようやくクーパーは自分を客観視し、家族への愛情を言い訳に無自覚なエゴイズムを発揮していた幼さに気づく。人類への愛と家族への愛に矛盾は無いと理解し、娘に後押しされることによって、ようやくクーパーは外宇宙へと真っ直ぐに飛んでいく。

 ある種の幻想に固執せず、自分自身を突き放してみつめてみること。それによってアイデンティティーを確立し、同じ場所を回転し続けるような停滞状態から脱出すること。これは同じノーラン監督の『メメント』(日本では二〇〇一年公開)に通じるものがあるように思う。
 だが、もう十年以上も前に観たきりのため、記憶が定かではない。上記の文章も、たった一度だけの鑑賞(とWikipediaでのストーリー紹介)だけから書いているため、ちょっと自信がない。といって、両作品を鑑賞し直すとなると五時間近くとなり、なかなかしんどいため、ここに覚書だけ残しておく。