MYSDOKUに第八回があった事実を告げると、鬼と呼ばれる本格ミステリマニアたちでさえも驚くことが多いが、やむをえない話である。第八回のMYSDOKUでどのような論が戦われたか、またそのとき誰が失笑を買ったのかは、ミステリの歴史から抹消されている。
 課題本は宮内悠介『盤上の夜』(創元日本SF叢書)、3/30(土) 13時半から16時半まで3時間。以下はMYSDOKU8に参加した某氏のメモからの再構成だが、走り書きのため正確さについては容赦してほしいとのこと。

 明後日に卯月を迎えるにしては肌寒い日であった。JR蒲田駅東口のBecker'sで簡単な昼食をとると、わたしはそこから徒歩数分の距離にある大田区消費者生活センターへ赴いた。二階の薄暗い廊下を奥へ進み、第5集会室の扉をノックする。
 四十人くらいは入れそうな奥行きの深い会議室に、三人掛けの長机が二列になって並んでいる。窓際だけ机がロの字に並べ変えられていた。午前中はボードゲーム大会をしていたそうだが、その余波なのかリッパーさんとさたもとさんが「どうぶつしょうぎ」に興じている。
 参加者が揃ってきた頃、Twitterを眺めていた司会のみっつさんから悲しい知らせが。大森望さんのツイートによれば、殊能将之先生が亡くなられたとのこと。ご冥福をお祈りします。次回の課題本は『ハサミ男』にしましょうかといった雑談をひとしきり。
 スタッフを含めて総勢十二名。ただし秋田紀亜さんとsasashinさんが遅刻した状態でスタート。まずは自己紹介とあわせて、いちばんお気に入りの作品を挙げていくことに。ミステリファンが多いせいか「清められた卓」が6票で断然トップ。やはり難し気な印象のあるせいか「千年の虚空」「原爆の局」は誰も挙げず。kaeruさんは「全部面白くなかったので選べません」と我々に挑戦状を叩きつけた!

盤上の夜

 kaeruさんの爆弾発言に、まず「盤上の夜」の魅力はどこにあるのかが焦点に。****さんから「由宇が可愛い」との回答が(ハンドルネームではございますが、社会生活への万一の影響を考慮し、発言者のお名前を伏せさせていただきます)。
 設定があまりに現実離れしていて作品世界に馴染めなかったとkaeruさん。語り手の「わたし」がなぜ取材対象とこれだけ接近できたのか経緯もよくわからない。
 ノンフィクション形式を採っているせいか、語り手と登場人物たちとの間に距離間があるように感じられる。“すなわち由宇が碁を覚えたのは[中略]ただ一点、自由のためだったということだ”(p.16)と語り手は断言している。ところが日本大使館へ早く連れていってほしいと焦っていたはずの由宇は、相田に一局打ってみましょうかと誘われると「――十六の四、星」(p.20)と応じ、このセリフがラスト(p.40)で繰り返される。
 四肢を切断され、ろくに言葉も通じない異国の地で切実に他者とのコミュニケーションに飢えていたがために、相田の求めに応じて碁を打ったのではないか。とすれば、由宇にとって碁とは自由を得るための手段だけではなかったことになる。けれどそれは語り手の直接的な文章としては記されない。対象を突き放して距離を置く書き方がされている。
 ここから「天才の孤独」についての話に。さたもとさんは松本大洋『ZERO』に本作と通じるものを感じたという。無敗を誇りZEROと渾名されるプロボクサーが、自分と闘える相手を求め続ける物語。
 本作が創元SF短編賞の山田正紀賞を受賞したのは、言語をテーマとしたSFだからではとみっつさん。しばらく神林長平『言壺』、森岡浩之『夢の樹が接げたなら』、かじいたかし『僕の妹は漢字が読める』といった言語SFの話に。
 岡村美基男さんは、本来なら言語はコミュニケーションのためにあるはずなのに、由宇が到達したのは孤独な“植物相の語彙”(p.34)だったと指摘。秋山真琴さんは「つらい」「悲しい」といった感情表現の言葉を知らなければ、自分の感情をうまく自覚できないといった、言語と認識との関係についての例をいろいろと紹介してくれた。さたもとさんによると福本伸行の麻雀マンガにも、勝つために外国語を覚える話があったという。牌の背中についた些細な傷の形を外国語の文字として読むことで記憶するのだという(そういう直接的な話じゃないやんと多数ツッコミ)。
 sasashinさんからは、いっそラストで由宇と相田が再会しないビターな結末も良かったかなとのこと。いつの間にかリッパーさんとハスミンさんとの間で『ヒカルの碁』はSFなのか論争が繰り広げられていた。

人間の王

 みっつさんは読後にネットで調べてマリオン・ティンズリーが実在すると知り驚いたとのこと。チェッカーと同じくオセロも完全解が判明している。さたもとさんによれば1997年にはチェスの世界王者がコンピュータに敗北したが、実はバグのおかげだったと後にIBMの開発者が語ったとのこと。折良くネットでは、現役棋士がコンピュータに初敗北したとのニュースが流れていた。

チェッカー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC
IBM元開発者「チェス王者にスパコンが勝てたのは、バグのおかげ」 « WIRED.jp
http://wired.jp/2012/10/03/deep-blue-computer-bug/
はてなブックマーク - 現役棋士がコンピューターに初敗北 NHKニュース
http://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/news/html/20130330/k10013562411000.html

 岡村さんによると(誰の言葉かは聞き取れなかったのだけど)コンピュータとの戦いはまるで相手の人格が急に変わってしまったようになり戦略が読めなくなるため難しいのだとか。半導体の性能は指数関数的に向上していくというムーアの法則が今後も実現されるなら、本当にすべてのゲームで人間が敗北する日が来るかもしれないと秋田さん。
 作中でもモンテカルロ法(p.65)が紹介されているとおり、コンピュータ側は大量の手をシミュレートし、そこから最善の手を選ぶ。いわば質より量、何千人もの相手と一斉に闘っているようなもの。だから人間を相手にするときのように人格を読む戦法は通用しない。
 けれど、ティンズリーが求めていたのは量より質だったのではないか。人間は老いとともに弱くなっていく宿命にある。だがティンズリーはそれに逆らうように強者であり続け、シヌークとの戦いでは「まるで、自分が若返ったような気分だ」(p.73)と言う。人間賛歌ですねとさたもとさん。
 作中の年代はいつなのか。ライフログから意識を再現する死後復活技術が実際はまだ実現していないこと、“二十世紀のインタビュアー”(p.67)という記述、この短編集の語り手がすべて同じ人物とすれば二十一世紀後半くらいか。実在した人物のノンフィクション風の文章から始まって、SFとしての結末へ落とす構成が良いと秋田さん。案外、人類は既に滅んでしまった後で、語り手もデジタル化された存在かもとハスミンさん。

清められた卓

 みっつさんによれば、本作が東京創元社による人気投票でトップだったとのこと。

宮内悠介『盤上の夜』収録作品の人気投票結果および著者からの「粗品」当選者発表[2012年6月]|Science Fiction|Webミステリーズ!
http://www.webmysteries.jp/sf/miyauchi1206.html

 麻雀のルールを知らないあまぞらさんでも、空気の凄さを感じたとのこと。秋田さんによれば福本伸行『アカギ』は麻雀のことを知らない女性にもファンがいるらしい。
 カバー折り返しのプロフィールによれば、作者は麻雀プロの試験を受けている。他の作品と異なり、この作品だけ専門用語が満載。抑えきれなかったのかもとおてもとさん。
 さたもとさんによれば、最近の麻雀マンガらしさがあるとのこと。あるマンガでは、勝負の途中で死んだ雀士から身ぐるみを剥いで麻雀を続ける場面がある。負けた奴は容赦なく切り捨てる姿勢が似ているとか。ハスミンさんによれば麻雀マンガでの勝負強さはプロ、天才、超能力、金を持っていることの余裕のどれかで表現されることが多いという。まさに新沢、当山、優澄、赤田に当てはまる。
 盤外戦が描かれていることも作品の魅力。四人でやるゲームでは、誰かが一位になると残りの面子が組む外交ゲームの側面がある。インチキを仕掛けたり、金を賭けようと提案したりの泥沼感が良いと岡村さん。この短編集は、話ごとに扱うゲームの本質へ迫ろうとしている感があるとハスミンさん。
 ミステリとしてはハウダニットの楽しみがあるとおてもとさん。リッパーさんの言うとおり、ミステリファンなら伏線が張られていることにぴんと来る。いや、それでも固有振動数を感じとるなんてのは魔法だよねとsasashinさんからツッコミ。
 ハウダニットではあるけれど、それよりもホワイダニットの側面に感心したと秋山さん。しかも優澄の動機はちゃんと最初から明言されている。優澄が勝ったなら「医師であることをやめる」(p.96)と赤田が答えていたこと、インタビュー時に赤田が〈シティ・シャム〉のボランティアスタッフとなっている場面を描くことで、優勝したのは赤田だと読者に悟らせないようにしているとハスミンさん。
 優澄の能力について。目的は治療行為にあったというが、ではなぜ当山のサヴァン能力まで消してしまったのか。鴉との物々交換のエピソードからすると、優澄にとって治療とは社会とのコミュニケーション能力を復活させることだったのではないか。当山は天才ではなくなることで、片思いをする普通の少年となった。前向性健忘症のため“本当にいまこの瞬間、現在しかない”(p.122)死者のごとく刹那的な生き方をしていた新沢は病を克服した。
 麻雀やるようなクズどもを教祖様が癒してくれる話だったのですねえと、ひとしきり和やかなムードに。

象を飛ばした王子

 秋山さんによれば、チャトランガには二種類あるとのこと。現在の将棋やチェスのように二人でプレイするものと、四人で対戦するものがあり、どちらが先祖なのかは不明。もちろんブッダの息子がラーフラという名前で、後に釈迦の十大弟子の一人に数えられるほどになったのも史実。
 「清められた卓」での治療行為を踏まえれば、病とは盤上のみに執着し現実を省みない姿勢を指すと考えられる。夢で東西南北の門を目にしたラーフラは、父が生へとつながる北の門を選んだのに対し“わたしは病者の王となりましょう!”(p.166)と宣言し南へと歩む。千年の時に耐える文化的遺伝子(ミーム)としてラーフラは遊戯を考え、釈尊は人を救いうる教えを考えていた、という象徴的なところが面白いと秋田さん。
 ラーフラの人間性がうまくつかめないとハスミンさん。なぜデーヴァダッダを見捨てたのか、そしてなぜ釈尊に帰依したのか。ラーフラは常に国民のことをまず第一に考え、自分自身さえ盤上の駒のごとく客観視できる人物だった。だから「ぼくは、立場上こんなことは言えない」(p.171)と、万一の場合に自分の政治生命だけは残せる方策を採り、結果的にデーヴァダッダを見捨てたと秋山さん。
 けれど、これがラーフラの心を歪めることになったとリッパーさん。かつて国を捨てた父に、人々を救うのは教えではなく政治だとラーフラは訴えるが、その政治によって敵味方から多くの命を無為に奪うことになり、ラーフラは“幹の折れた人間”(p.188)になったことを釈尊の言葉によって自覚させられる。煩悶するラーフラは「わたしの教えは、まさに、その心をいかに棄てるかということなのだよ――」(p.189)と言う釈尊に一時は剣を突きつけるが、頭髪を剃り落として帰依する。
 こうしてラーフラは教えこそが人を救うと納得させられる。考案した遊戯を説明するラーフラに釈尊は顔に“哀れみか愁いに近いもの”(p.184)を浮かべていた。釈尊は遊戯に意味を感じず、その知力の矛先は“人々へ向けられている”(p.186)ことにラーフラは気付く。帰依した後、ラーフラは遊戯を、少しでも戦を減らすためのもの、現実を変えるための手段として献上することを提案し、釈尊もこれを受け容れる。心の支えだったチャトランガを残した心意気が、アナログゲームファンとして好ましいとリッパーさん。
 秋田さんによれば光瀬龍『百億の昼と千億の夜』にもブッダが息子を足で踏んで出家していく場面があるとか。父と子の物語だったけど、父親が特殊すぎるよねとリッパーさん。

千年の虚空

 将棋、量子歴史学、男女の愛憎劇。これまでの短編と異なり、将棋だけがテーマではなくなっているとハスミンさん。リッパーさんは、量子歴史学だけでひとつの短編を独立して書いてもよかったと思ったとのこと。
 さすがにこんな女性は現実にはいないでしょうというkaeruさんに****さんから「現実にいないからいいんだ」(ハンドルネームではございますが以下同文)。どことなく女性の登場人物の印象が似通っていて、作者はキャラクターを描くのが苦手なのではとkaeruさん。秋山さんによれば「スペース金融道」(『NOVA 5』所収)はキャラクター小説とのこと。
 「清められた卓」「象を飛ばした王子」で、病は盤上をみつめ現実を省みない姿勢を象徴していた。けれどこの作品では兄弟の人生が綾によって賭の対象となる。政治とゲームが相互に影響し、上位と下位の区別が無い。遊戯も現実も一緒くたとなり、作品世界のすべてが綾の病に覆われ出口が無い。
 では、ラストで兄弟が盤上にみた光景はなんだったのか。初めのうち恭二の幻覚は“古代の軍勢”(p.203)という戦いのイメージだったが、それは最終的に「盤上の夜」での植物相の語彙を連想させる植物群へと変わる。「兄さんこそ、まだ、将棋なんか王を取ったら終わりだと思ってるの?」(p.240)という恭二のセリフからすると、それは「人間の王」でティンズリーが目指していた境地と同じなのかもしれない。完全解が到達点ではなく、人間の知性にはまだその先がある。
 福嶋亮大は『神話が考える ネットワーク社会の文化論』で“ゲームは何らかの均衡状態を複合的なやり方で設定しようとするメディアであり、それゆえに意味の結晶化のプロセスをよく見せてくれる。と同時に、その意味生成そのものがたかだか設定の産物にすぎず、本質的に「無意味」であることを示すのにも、ゲームはうってつけ”(p.229)と述べている。ゲームはなんらかの均衡状態へ至るための無意味なプロセスだが、同時にそこから意味も生まれる。
 自身が綾の掌上にあったと知った一郎は「――しかし、すべてが病のせいならば、いったいわたしたちは何と闘ってきたんだ!」(p.237)と虚無感に声を震わせる。量子歴史学は唯一の正史など無いこと、いわば自分が正しいと信じる歴史解釈同士を戦わせるゲームに過ぎないことを示した。ゲームと現実との境界が失われたとき、すべては無意味な“まったくの虚空”(p.232)となるのだろうか。しかし同時に、量子歴史学は個々人が望みの歴史を選択できる神話の時代をもたらした。王を取ることだけではなく、棋士たちが植物相の語彙を以て対話する、すべての一手に意義があると恭二は考えていたのかもしれない。

原爆の局

 この時点で既に残り時間が十分ほどとなっており、みな「サービストラック?」「なんか抹香臭い話が多かったし、こういうので締めないといかんと思ったのかね」などとバッサリ(笑)。「清められた卓」の新沢が再登場したことを喜ぶ声が多かった。原子爆弾が落ちても碁を打ち続けたというのは良いエピソードだけど、3.11で同じことしていたらちょっとなあとsasashinさん。
 相田は“碁とは、抽象が五割の具象が五割です”(p.271)と述べる。もしかすると読書会も同じかもしれない。狭量な価値観から作品を好き勝手に解釈していては自己満足で終わる。ひとつひとつの文章を丁寧に読むことが必要だ。けれど、そのようなテキスト論的な読み方だけがすべてだろうか。抽象的な言葉の世界だけに耽溺してしまうと、かえって意義を見失うかもしれない。マンガ作品、言語SF、ネットを通じて得た情報、異なる見識を持った人の感想。さまざまな具象を通じて発散させることで、たったひとつの正解ではない豊かな読みがもたらされるのかもしれない。

 各自、一言ずつ述べて終了。ミステリなら思わせぶりなところはすべて名探偵が謎解き場面で説明してくれるのに、SFは自分で考えないといけないのが面倒だねえ。
 ところで、わたしは「原爆の局」を再読していて気付いた点があった。それまで記述者としての立場を堅持していた語り手が、この作品では揺らいでいる。占領されようとする村に友人を残し、白樺を削った杖を手にして峠を下りる夢をみた(p.267)語り手は、相田からシェーファーの万年筆(白樺の杖)を受けとり“現世にとどまることは、なんら恥ではないのだと”(p.280)言ってもらえた気になる。具象の側から碁を世界に広め後世へ伝える役目を任される。
 (説明する必要はないと思うけれど念のために書いておくと)語り手は井上隆太と恋愛関係にある。“そんな彼をわたしは日頃から憎からず思っていた”(p.244)し、賭碁で窮地に陥った語り手を井上はプロの座を危うくしてまで助け、偶然出会った新沢と井上が会話する光景に語り手は“二人が遠かった”(p.261)と寂しさを感じる。初読時はまったく気付かなかったが、よくよく読んでみれば恥ずかしいくらいにラブラブである。考えてみれば、さまざま愛の形を描いてきたこの作品集で同性愛が描かれないということが果たしてあるだろうか。いや、ない(反語的表現)。
 ミステリ作品におけるワトソン役のごとく、観察者に徹し読者と同一化した存在だったはずの語り手が、この作品では物語の登場人物と気持ちを通わせ、そして相田の示唆によって具象に満ちた世界へと帰還する。言うまでもなく、語り手が帰ろうするのは私たち読者が生きる現実世界のことである。「千年の虚空」でゲームと現実が交錯したように、この最後の作品では物語と現実との垣根が取り払われる。愛によってすべてがつながるのだ!LOVE IS ALL!LOVE IS ALL!

 ……というようなことを締めの言葉として簡単に述べたら、司会のみっつさんから「うまくオチをつけましたね」と言われた。ハテ、なんのことでせう。