新人批評家の選考&育成企画「東浩紀のゼロアカ道場」で注目を集めた著者の、初の単著。筒井康隆が唱えた「超虚構理論」と小説作品から虚構内存在の思想を読み解き、生と虚構との関係を手探りしつつ文学と政治が連動する可能性を探る。

 帯裏の引用文“アニメやゲームの美少女キャラクターを「嫁」と呼ぶオタクは、その呼称に誇張やアイロニー的な側面はあるとしても、実際に存在する。『ラブプラス』というCGキャラクターとコミュニケーションをするゲームにバグが発生し、ホワイトデーのイベントがうまく動かなかったときに「身体をもがれたような痛み」を感じるという表現がなされたし、実際に苦痛を行動で表現するほどであった。そこにある、身体、現実、言語、他者の認識は既に変化している。”という文章に内心「このひと、大丈夫だろうか……」と心配になった(笑)。けれど最後まで読み終えて、むしろ現実と虚構との差異について精緻に検討する内容だとわかった。

 国語教科書に掲載された小説「無人警察」に、日本てんかん協会から1993年7月に作品の回収や謝罪等を求める要望書が角川書店へ送られた。これをきっかけとして筒井は断筆宣言に至る。その末尾では「文化国家の、文化としての小説が、タブーなき言語の聖域となることを望んでやまぬことを」と発言していた。
 この〈言語の聖域〉という、あたかも文学は芸術であるから社会的・政治的問題とは無縁でいられると主張するかのような態度を浅田彰、絓秀実は批判した。しかし本書は作品の読解を通じて、むしろ筒井は文学が社会と無縁ではいられないことを深く理解し、そしてさらにその先を思索していたことを明らかにする。

 『夢の木坂分岐点』で言語からの脱出の不可能を悟り、『歌と饒舌の戦記』で政治性からの離脱の不可能を悟り、『残像に口紅を』において虚構内における役割期待から逃れることの不可能性を悟った。
 これらは全て文学に対して管理社会からの逸脱を求める期待を失う過程であった。
 そうして様々な試行錯誤の末に、虚構内での逸脱を諦めた筒井康隆は、「虚構と現実」の区別を失った超虚構における叛乱を企てるのである。

 ドイツの哲学者、フリードリヒ・フォン・シラーは芸術と美によって市民を啓蒙していけば、一切の不調和のない理想社会が訪れるとした。すべての美は社会にとって役立つものと考えたシラーはしかし、あまりにも凄惨だったフランス革命への失望から、役に立たない美や空想に価値を見出すようになる。
 価値のないことに価値を見出すという態度は矛盾している。事実、シラー美学はドイツ・ロマン主義へ、そしてファシズムへと影響した。革命や政治性から距離を置こうとする態度自体がまた政治的な帰結を生む。しかし筒井はそのパラドックスに着目し、独創的な文学理論を発展させていく。

 一般的には虚構=絵空事であり、あらゆる束縛から逃れ自由な架空世界を捏造できる反面、現実社会への影響力には乏しい。しかし筒井は文学における虚構性を重視し、さらに虚構が虚構の自立性を主張するまでになる「超虚構」の概念を確立する。
 その上で、真逆の方向を向くかのような自然主義と超虚構性が、実は行き着くところは同じであり、文学という円環構造の接点となると説く。超虚構は文化的無意識の領域を相対化させる。その新しい美の領域は、次の瞬間には政治と資本で埋め尽くされてしまうが、その試みを駆動させ続けること自体に意義がある。

 では筒井の考えは何なのか? それは、社会批判に目覚めさせたり、そのことによって社会がよくなるという期待に賭けない、純粋なる意味地平更新そのものの快楽の提示である。そしてその《意味地平更新》に存在する「生起」を「存在」とすること。これこそが、虚構内存在の存在の仕方である。

 管理社会下での攻撃衝動を許されない現代人にとって、虚構内存在は感情移入を通じて存在論的な支えになりうる。だが同時に、虚構内存在でさえ読者の期待や作者の利益追求から生じる役割期待から逃れることはできない。それを否定するため、筒井は朝日新聞の連載小説『朝のガスバール』を通じて、虚構内存在と現実の人間存在との差異を明らかにしようとする。

 それは、虚構内存在が、人類に復讐を遂げたり、使役される奴隷的な立場から立ち上がろうというものではない。そうではなく、虚構内存在には虚構内存在としての存在の仕方があり、現存在も部分的に虚構内存在であるから《共同存在》ではあるものの、やはり現存在(人間)と虚構内(現)存在は、決定的に違う、ということを、虚構内存在自信が決定的に示すための叛乱であった。虚構内存在には虚構内存在の性質があるが故に、我々と有益な《共同存在》が可能なのだ。

 東浩紀『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』『一般意志2.0』、村上裕一『ゴーストの条件』、宇野常寛『リトル・ピープルの時代』といった、キャラクターに着目し、虚構と現実との関係を考え、集合的無意識とその表出を論じた書は多い。
 しかしここまで整理してきたように、虚構内存在と現実の人間との関係には複雑な倫理性がある。集合的無意識が素朴に情報環境へ表出すると考えてしまうと、管理社会下における文学の役割を見失う。ゼロ年代評論が見過ごしてきたこれらの問題点を、筒井は既に思索していたと著者は指摘する。
 現実と虚構との関係をありのままにみつめ、政治と文学との相互影響を認めることで、サブカルチャーや情報環境を中心に扱ってきたゼロ年代批評と、格差社会や政治の問題を中心に扱ってきたロスジェネ的言説を結合できるかもしれない。

 現代は「機械と人間」「虚構と現実」「情報と身体」の区別が融解しているかのように思いやすい状況に人間が置かれている。その認識を前提とした上で、社会や政治の問題を考えなければならないというのが、本書の中心的な主張である。そのような「融解」をただ闇雲に肯定するのではなく、そこにおいて立ち上がるべき新しい価値観や倫理を模索するところまでが、本書の射程となる。
 それが必要であるのは、日本社会におけるサブカルチャー化や情報社会化を当然のように幼年期から享受してきた世代のメンタリティを、単に批判や否定するだけでは、世代間の無理解や相互憎悪に帰結するからだ。否定するのではなく、理解した上で、前提にし、その先を提示することが、新自由主義や、ロスジェネ問題、格差問題や年金問題、それから結婚や生殖の問題など、国や世界を巻き込んだ大きな政治の問題に対応するために必要である。

 この本の内容を個人的な理解で思いっきりはしょると「虚構はゼロかイチかのデジタルではなく、アナログな存在だ」とでもなるかと思う。虚構であることが即ち無力で無駄で無意味なわけではなく、かといって現実の人間と同等というわけでもない。
 同じことがメディアやネットでの虚構内存在にも言える。メールやSNSで文章を書くとき、普段とは異なるキャラを演じてしまう。海外での地震災害のニュースに接して、顔を合わせたこともない他人のことを束の間心配する。そういった虚構内存在たちは決してフィクションのなかのキャラクターたちと等価なわけではないし、かといって現実の人間たちの存在と同等になるわけでもない。
 そういったことを踏まえた上で、虚構はただ現実を反映するだけではなく、現実に働きかけ、現実を変えていく力があると主張される。最初に述べたように、現実と虚構との関係を誇張せず、かといって過小評価もせず、その関係を精緻にみつめる内容となっている。

 以下、疑問点をふたつ述べておきたい。あらかじめ言い訳しておくと、私はあまり本書の良い読者ではない。筒井康隆の作品はほとんど読んでいないし(あ、どれみっちの穴の「萌え絵で読む虚航船団」は楽しみにしています)、シラーもフロイトもユングもフッサールもハイデガーもイーザーもビンスワンガーも読んだことがなく、従って以下の疑問も理解不足か見当外れかもしれない。

 第一に、ゼロ年代批評のキャラクター論と本書はどう接続するのだろうか。
 超虚構理論を、筒井以外の作品にも当てはめてよいのか。データベースから参照してきた萌え要素の組合せであるキャラクターだとか、あらゆる物語に接続できる自立性を獲得したキャラクターであるところのゴーストだとか、そういったゼロ年代批評が膨大なサブカルチャー作品群から見出してきたものも、意味地平更新のための動きであり、やがては政治と資本に埋め尽くされる一瞬の真空地帯だったのか。
 それとも超虚構理論は飽くまで筒井康隆という巨匠の孤独な探求に過ぎないのか。この本は大半が筒井康隆の小説作品の読解で占められているので、どうもそこがよくわからない。筒井康隆の超虚構理論をそのまますべての虚構内存在(フィクションの登場人物はもちろん、現実の私たちがメールやSNSで演じるキャラにまで)全体にあてはめてよいのだろうか。

 第二に、虚構が存在論的な支えになり得ることまでは了解できるのだけど、そのために虚構権を提案するというのがどうもまだピンと来ない。

 〈虚構権〉は虚構内存在に人権を認めるということとは違う。人間が、読んだり見たりしている間に存在している虚構内存在との関係性を剥奪されない権利である。あるキャラクターや創作物、言葉を消滅させてはならない。

 ここがどうも……卑近な例として、妻にガンダムのプラモを捨てろと文句を言われる夫なんかどうだろう。虚構権を確立し、妻にプラモを決して捨てさせないことが、夫の存在論的な支えを守るために必要なことだろうか。
 それはさすがに違うんじゃなかろうか。妻との愛情を深めるとか、子育てを頑張るとか、他の趣味を探すとか、生きがいとなる行為って人生にはいろいろあるだろうに。虚構権を確立することが、虚構への依存を生み、視野の広さを奪ってしまうこともあるんじゃないか。
 超虚構理論からすればむしろ、ガンダムのプラモを捨てる捨てないの議論を通じて夫と妻が互いの価値観を理解し、その上で夫はガンダムが自分の人生にどれだけの重さがあるものなのかみつめなおすことのほうが重要ではないか。虚構をゼロかイチかのデジタルではなくアナログとしてみつめなおすことを通じて、視野を閉ざさないようにすることが超虚構理論ではなかったか。

 こう考える背景として、ゼロ年代から近年にまで至るサブカルチャー作品の変化がある。わかりやすい例として『涼宮ハルヒの憂鬱』と『中二病でも恋がしたい!』の違いを挙げておく。
 『涼宮ハルヒの憂鬱』は虚構と現実とがデジタル的だ。キョンはいつ、誰に自分の日常を破壊されてもおかしくない陰謀論的な立ち位置にある。逆に言えば、そのような陰謀の中心にいることによって平凡でしかない自分にも価値が生じている。そして『涼宮ハルヒの消失』でキョンは意識的に陰謀論的な世界を選択する。宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で「決断主義」と呼んだその選択は、自分の選択するリアルだけが現実で、それ以外は虚構として消失してもしかたがないと考えるような極端さがある。
 それに対して『中二病でも恋がしたい!』はどうか。ここでは当初、中二病はただの虚構でしかない。だが中二病が家族を傷つけたり、逆に六花が生きていくうえでの大きな力となっていたことが明かされる。勇太の価値は(陰謀ではなく)中二病という虚構が六花にとってどれだけの意義があるのか、おたがいに理解を深めていく過程にある。ここでは虚構はもはや“単なる虚構”ではないし、かといって、信じるもの以外はすべては消え去っても構わないとするような極端な態度はない。

 本格ミステリにも似た変化がある。巽昌章『論理の蜘蛛の巣のなかで』や諸岡卓真『現代本格ミステリの研究――「後期クイーン的問題」をめぐって』が指摘しているように、90年代からゼロ年代にかけて陰謀論的な操りから頭脳戦といったゲーム的な作風へと傾向が移ってきている。超人的な操り犯という“幻想”から、ミスをすることもあればズルをすることもある拮抗した犯人と探偵が同じゲーム盤を挟む“現実的な”構図へと変わりつつある。
 これは、なにか大きな意味があるかもしれない。ミステリは謎解きというプロット上の制約から必然的に「現実とはなにか」という命題から逃れることができない。謎解きによって明かされる真相は、それこそが現実的な考えであると読者を説得するものでなければならないからだ。
 新本格ムーブメントから現在に至るまでの多様な作品はむしろ虚構を否定してきたとさえ言える。論理の無謬性を疑い、動機の自明性を疑い、名探偵という存在を疑い、ミステリという作品が孕む形式の虚構性を疑ってきた(ものすごく説明が長くなるため、いちいち作品はあげません)。
 要するに、こういうことだ。虚構の可能性を探ってきた超虚構理論とは真っ向反対を目指してきたはずの本格ミステリが、他ジャンルのサブカルチャー作品と同じ変化をたどったのはなぜだろうか?

 エー、上記の疑問や私の理解が浅かったところについては、藤田直哉先生が近日中に解説を以下に追加いただけるかもしれませんので、念のためリンクを張っておきます。

藤田直哉『虚構内存在』への、ご意見、ご感想 - Togetter
http://togetter.com/li/453820