11/24(木) 村上裕一×藤田直哉×海老原豊「3・11×ゴーストの未来――10年代、サブカルチャーと思想の条件とは?」に参加してきました。場所は紀伊國屋書店新宿本店9階特設会場、19時開始21時終了。
以下、朝から微熱と寒気に苛まれつつ、意識朦朧としながら震える手で書き留めたメモからの再構成ですので正確さの面については乞うご容赦。正直、話の流れがいまいちつかめなくて「ま、こんな感じだろ」とかなり手を入れちゃってます。おい、Togetterのレポはまだか!
考える権利、悩む権利をとりもどしたい
会場は、学校の教室を半分にしたくらいの大きさ。恐らく定員三十人分の椅子がずらりとならび、座っているのはほとんど男性ばかり。『3・11の未来』(厚さ2.6cm)と『ゴーストの条件』(厚さ2.5cm)を読んで、平日の夕方に集まる人達で満たされた空間……。「では、皆さん顔見知りばかりのようですので、まずは超越論的シニフィアンについて熱く議論を交わしたいと思います」とか言われたらどうしよう。
などと心配しているうちに開始時刻に。向かって左から藤田直哉(青地に白の縦縞シャツ)、村上裕一(革ジャン)、海老原豊(パーカー)が着席。司会(お名前を聞き漏らした)からイントロダクション。政治の季節が終焉した八〇年代に育ち、国内経済の長期低迷と世界同時不況に揺れる世相をみつめ、そして今年の3月11日、東日本大震災を経験した若手評論家が現代をどのようにみつめているのか。サブカルチャーの話題を中心に、これからどうなっていくのかを語ってもらう。
藤田直哉と海老原豊が『3・11の未来』をどういう経緯で編集することになったか説明。テレビやネットで繰り返し流れた、押し寄せる津波に町が破壊されていく映像はどこか小松左京『日本沈没』を思わせた。大災害はSFと親和性が高い。過去にはSF作家が原子力を夢の技術として手放しに賞賛してきたこともあった。SFは3・11に対して意見表明をすべきではないか――ということを飲み屋でくっちゃべっていたら、笠井潔があれよあれよという間に諸方面へ声をかけ、巽孝之があっちこっちから人を集めてきて、ぶん殴れば人を殺せる厚みの本ができた。
SF第一世代作家(1930年前後生まれの小松左京や星新一ら)から第六世代(1980年前後生まれ)まで、すべての作家の原稿を載せることができた。それぞれの意見はもちろんバラバラで、SFの責任について考える作家もいれば、そんな問い自体を疑問に思う者もいる。原発に賛成の者もいれば反対の者もいる。刊行前に小松左京が亡くなり、結果的にたむけのような本となってしまった。藤田は、自身がSFと接しすぎて客観的になれないからこそ、さまざまな人に訊き、話しあったという。
海老原は「一九七三年/二〇一一年のSF的創造力」という一文を寄せた。1973年には小松左京が『日本沈没』を、その前年に楳図かずおが『漂流教室』を発表した。東西冷戦や公害問題といった暗い世相を背景に、破滅SFが流行していた。小松左京は日本全体が沈没するという共時性の形で、楳図かずおはひとつの教室が未来へタイムスリップしてしまうという通時性の形で〈いま・ここ〉にとらわれないSF的想像力を開花させた。
村上裕一は講談社BOXが主催した新人批評家育成企画「ゼロアカ道場」の優勝者。優勝すると講談社から初版一万部で評論書を刊行されることが約束されていた。2008年3月に開始したこの企画は『ゴーストの条件』の刊行でようやく終了したこととなる。経緯は講談社BOXのサイトにある動画を観てくれと口を濁したが「もう動画も残ってないよ」とツッコミ。なお藤田もゼロアカ道場参加者であり、デジタルビデオカメラ「Xacti」による活動(ザクティ革命)で注目を集めた。
ゼロアカ道場終了後に東日本大震災を体験したが、その後で出版した『ゴーストの条件』ではとりたてて触れなかった。自分は岩手県出身で、地元はリアルな被害を喰らった。見覚えのある魚市場が津波に流される映像がテレビで三十秒おきに繰りかえし流され「故郷が滅びた」と呆然とした。しかし、そういうことを本には書かなかった。
なぜか。『3・11の未来』に藤田が寄せた「無意味という事」で同じ意見が述べられているが、死者の言葉を代弁することだけが許されると考える「当事者の倫理」に抵抗したいという。地震で家族や親しい者を失った直接的な被害者だけが、特権的発言を許されるとは考えたくない。専門的な知識が無いから、関係のない一般人だから発言を許されないとは考えたくはない。
誰だって人は生きていかなければならない。専門家だけではなく、誰もが悩み、自分なりの意見を発言することが許されるべきではないか。ゼロ年代には、心理学や社会学に基づくエビデンスを重視した評論が盛んになった。けれど、本当にそれでいいのか。専門家ではない者が悩み、考えることの大切さが相対的に弱まってきてはいないか。悩む権利を回復し、みえないものをみえるようにしたい。
『ゴーストの条件』ではアニメ、ニコニコ動画、美少女ゲームといったサブカルチャーを題材としている。サブカル評論を書きたかったのはアニメ「エヴァンゲリオン」に感動し語りあいたい気持ちがずっとあったから。いま、3・11を経験し、誰もが「答え」や「保証」を求めている。けれど、それが外部から与えられることはない。必要なのは、自己決定。悩み、考えることを恐れないでほしい。
記号のリアリティが変容し、サブカルチャーは政治と分離できなくなる
自己紹介が済んだところで、さっそく内容に……と行きたいところだけど、まず『ゴーストの条件』を読んでない人にはゴーストってなんのことやらなわけで、そこをちょっと簡単に説明しておきます。以下は私なりの理解で、こう説明したほうがわかりやすいだろうという形で『ゴーストの条件』とは違う説明の仕方をするのでご注意を。
例えば谷川流の〈涼宮ハルヒ〉シリーズには、長門有希という人物が登場する。当初は眼鏡をかけていたが、物語の過程で眼鏡をかけなくなった。小説は文字で綴られる。けれど長門有希というキャラクターは永劫不変の単なる記号ではなく、ダイナミズム(成長性)とメタボリズム(新陳代謝)を兼ね備え、読者の思惑から独立した自律的存在だ。この自律性は、作品を飛びだしても保たれる。ありえたかもしれない別の物語が描かれる二次創作作品の長門有希も長門有希だ。
ところが、これが更に外部へでていくとおかしなことが起こる。やる夫スレにアスキーアートで登場する長門有希だって長門有希だ。けれど、やる夫の世界は原作となんにも関係ないはず。それでもスレを読む者はそれを長門有希(の、ようなもの?)として認識している。
長門有希は眼鏡をかけていた。そして眼鏡をかけなくなった。原作や二次創作の長門有希はそのような来歴を背負っている。けれどそんな物語が忘れ去られても、依然として長門有希は成立し続け、ありえない物語と結びついていく。アスキーアートから出発したやる夫は、そもそも原作にあたる物語さえ無い。やる夫はスレによって異なる職業、異なる学問に挑戦し、それぞれ異なる物語が展開する。
東浩紀は『動物化するポストモダン』で、萌え要素のデータベースからキャラクターは組合せで作られると説明した。それに対し、あらゆる可能世界と結びつき情報をひきだせる存在、データベースがキャラクター化したのがゴーストとなる。
ゴーストは無数の作者が支え、どの作者にも縛られることなく、それ自体がもはや自律的な存在であるかのようにあらゆる矛盾を呑みこみながら形態を変えていく。アイマスの「ののワさん」や東方Projectの「ゆっくり」はジャンルの境界を溶解させる働きをする。初音ミクは立体映像によるライブに出演し、肉体を持つアイドルのライブとほとんど変わらない存在感を発揮した――という説明を踏まえまして、続きをどうぞ。
まずは藤田から『ゴーストの条件』がどれだけ変な本か、一部を朗読しつつ説明(……いびり?)。ゴースト、水子、実存、奇跡、神。まるで宗教的。主張の仕方が論理的ではなく、これらサブカルチャーを経験したことがない世代からすれば受け容れがたい内容となっている。
中島梓は、SFとはもともとアメリカにおいて「神話の代用品」だったと述べているという(『道化師と神 SF論序説』p.17)。人はもはや生きる意味を宗教に求めようとはしない。神話が与えてくれる「コスモロジー」(宇宙の成り立ちを説明する論、この場合は創世神話)に代わって、サブカルチャーが生きる意味を与えてくれるものになるのだろうか。
海老原は3・11を経験して、サブカルチャーはしょせん幻想に過ぎないのではないかと問われた思いがしたという。住む家があり、電気が使えて、ネットに接続できて初めて萌え豚になることができる。生活インフラ、政治や経済といった社会を支える下部構造なしに、サブカルチャーという上部構造は成立しない。3・11によって社会の一部が灰燼に帰したとき、果たしてサブカルチャーがなんの役に立ったのか。
ネットの海を漂う記号の流通は、ある種の幻想に過ぎないのではないか。『ゴーストの条件』に紹介されているような、初音ミクを現実の存在とみなす記号のリアリティの変容は本当に起きているのか。
村上は答える。上の世代になるほどリアリティが感じられない内容なのは確か。けれどむしろそういう「ネットのやりすぎだ! 現実を見ろ!」と批判する人々にこそ訴えたい。みえないものをみようとしなければならない。
ゴーストは、生きる意味を与えてくれるような宗教上の神ではない。いわばお金のようなもの。金属の固まり、薄っぺらな紙切れに過ぎないものが、その流通システムを受け入れることでリアリティのあるものになる。ここで海老原から、さすがに貨幣では漠然としすぎではとツッコミ。それならば、トレーディングカードのほうが比喩としては適切かもしれない。親たちには薄っぺらな紙切れに過ぎないものが、夢中になっている子供たちには宝物となる。
確かに、ネットという下部構造なしにゴーストは成立しにくい。二次創作自体は古くからあったが、ネットが時間や距離の壁をとりはらった。このスピード感がゴーストの成長を速めている。ただ、その一方で、忘れ去られやすくなった側面もある。ゴーストに突然のクライシスはない。徐々に人々の記憶から失われていくことがゴーストを殺す。
そこで藤田から疑問。そもそもなぜ、ゴーストの生が必要なのか。ゴーストと似た概念は昔からあった。例えば柴野拓美は、個人の理性の集合から「集団理性」が生まれ、それは個人の理解と制御を超えて自走すると述べた(「『集団理性』の提唱」 巽孝之編『日本SF論争史』所収p.192)。国家や金融、象徴としての天皇制もそうだろう。けれどゴーストはこれらと違う。本質的には生活に必要のない存在にもかかわらず、ゴーストには「守ってあげたい」と思う力が働く。なぜか?
村上は、それは思い入れだという。これから飲もうというときに藤田のクリスタルガイザーを自分が横から盗ったら怒るよね(いや、お金や薄型テレビなら怒るかもしれないけどと藤田)。アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」でヒロインの鹿目まどかは歴代の魔法少女たちの悲しい運命を変えようとした。その二次創作作品は、真のエンディングを求める作品もあれば、むしろもっと無残なものを求める作家もいたりとバラバラだった。なにかがフックとなり、消費や創作へと人々を突き動かす。
海老原が少し違う視点から話を始める。イルミネーションを節電することで、東北に電気を届けようというという報道があった。けれどその一方で、海岸に打ち寄せられた死体はまったく映されない。被害に遭った人々が直面している過酷な現実は、フィルタリングを通してでしか伝わってこない。
東北の人々を思いやろうという言葉はあっても、その想像力は屈折して乱反射するだけで、東北には届いていないのではないか。一人歩きするゴーストとは対照的に、マスメディアは想像力の流れを遮る役割しか果たしていない。
藤田が社会運動とサブカルチャーの共通点を指摘する。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への反対運動にせよ、花王の不買運動にせよ、それらはサブカルチャーに宗教的ななにかを、安らぎや生きる意味を求めることと通じているのではないか。
TPPに無関心だったオタクたちも、TPPが知的財産権にまで影響することを知ると動きだした。初音ミクに夢中なオタクなら、ボーカロイドと結婚する権利を法的に認めてもらうために行動するかもしれない。そこまでいかなくとも、ネットが監視され、ニコニコ動画から作品が勝手に削除される自体になったなら、行動しだすかもしれない。
メタファーに依存し思考放棄することなく、悩み考えるべき
3・11を経験し、上部構造に過ぎないサブカルチャーは下部構造に支えられる幻想に過ぎないのではと考えた。しかしゴーストという概念からすると、そうではないのかもしれない。
サブカルチャーに人々はのめり込み、思い入れを抱き、宗教的な安らぎや救いを与えられる。それを支えにゴーストは自律性を獲得し、あずかりしらぬところで成長していき、再び人々の現実へとフィードバックしていく。それは膨大な「やる夫」スレやニコニコ動画の作品群となり、形によっては政治行動につながるかもしれない。ゴーストが、人々が本当に必要としている下部構造の反映だとすれば、サブカルチャーと政治をわけることはできないのではないか。
と、ここまでが前半。十分間の休憩を挟んで20時から後半へ。休憩時間に雑談で、五十円玉二十枚を紀伊國屋書店で両替する男の話だか、二十枚が五十枚だかの話があったけれど割愛。
まずは海老原から、近代小説とデータベース型消費との違いを説明。近代まで小説作品の受容はピラミッド型だった。神にも等しき作者が頂点におり、底辺にいる読者は唯一の正しい読み方しかできなかった。
東浩紀は『動物化するポストモダン』でデータベース型消費を唱えた。さまざまな萌え要素、ありがちな設定といった素材を蓄積したデータベースから、組合せによって無数の作品を創作できる。作者の特権性などなく、読者は原作をバラバラにし、再び組みあわせて、ありえたかもしれない別の物語を二次創作として妄想できる。けれど、これは作者-読者の一回性体験を失うことでもあった。
続く著書『ゲーム的リアリズムの誕生』では、その喪失を回復する手段のひとつとしてループものが紹介されている。主人公は時間移動により同じ出来事を何度も繰り返すが、そのたびに知識を蓄え少しずつ選択する行動が変わっていく。同じ物語の繰り返しながら少しずつ主人公が成長し異なる展開を迎えることで、作者-読者の一回性体験を描いた。
そしてゴースト。データベースがキャラクター化した存在であるゴーストは、もはや物語に縛られた架空の存在ではない。それは限界を知らない想像力であり、無限の情報をひきだすインタフェースであり、現実そのものへと変容しうる記号でもある。ゴーストは、政治とサブカルチャーをつなぐハブの役割を果たすかもしれない。
果たしてゴーストが政治とサブカルチャーをつなぐことができるのか、村上も言いよどむ。例えば「ゴースト党」を作り、巫女キャラを党首にして、国会に乗りこむことに意味があるだろうか。あるいはデモに参加するべきなのか。薬害エイズ訴訟が終わったとき、小林よしのりは学生ボランティアたちに日常へ復帰するよう呼びかけたが、けっきょく戻ることはできなかった。花王のデモにしても、もはやデモに参加すること自体が目的化してしまったような人がいた。
藤田もうなずく。いまやバイトですら倍率が高く、採用決定までの返事が遅い。今後ますます格差が広がり、貧困に苦しむ人が増えるかもしれない。呼応して、デモや政治運動に参加する人も増えるだろう。あるいは宗教のほうへ走る人もでてくるだろう。サブカルチャー/ネット的感性が記号のリアリティを変えたことで、初音ミクと結婚するためテロ行為に走る人がでてくるかもしれない。オウム真理教ならぬゴースト真理教が登場するのでは困る。
村上が依存性について例をあげる。ソーシャルゲームの一部はパチンコと同じメーカーが関わっているらしく、コレクター欲、切迫感といった心理をたくみに喚起している。ロシアではクロコダイルという合成麻薬が流行し、中毒者は百二十万人いると云われている。クロコダイルという名前の由来は、皮膚が剥がれワニに食いつかれたような肌になるから。
けれど、そういう依存はサブカルも宗教も政治も同じかもしれない。精神科医のなだいなだは、キリスト教信者もマルクス主義者も聖なるものに惹かれ依存する面では大差ないと書いていたという。対象それ自体が悪なのではなく、それを操っている者がいるとき問題になる。
前半では、政治とサブカルチャーを分離できないということを話した。そして依存性という面では、サブカルチャーも政治運動も同じ面を持っているのかもしれない。藤田は、技術が発達すると容易に人間の感情を操作する娯楽ができてしまうという。どう生きるべきかを問う文学は、娯楽としての物語に依存することを防ぎ、人間の本質を保つために必要なのかもしれない。
死者の言葉を代弁してはいけない。死者を悼むふりをして、生き残った人々、直接の被害を受けていない人々には発言権が無いと萎縮してはいけない。自分の外部にあるもの、メタファーに安易な救いを期待することが依存を生むのではないか。
海老原が、メタファーへの依存からシニシズムが生じると指摘する。外部に本当の責任を押しつけ「しょせん現実はこうだ、だからどうしようもない」という自己否定を無限に続け、厨二病が治らないままコミュニティには空気の読みあいが蔓延する。ゼロ年代はアーキテクチャを論じる評論が流行した。人々の倫理や感情はアーキテクチャに左右されているという主張は、言い換えれば個々人が悩むことになど意味はないとみなす、非人間的なシニシズムの思想でもあった。
村上は、いまの文学における神話的な表現や人間関係のメタファーは、難解で読者に理解されないという。ミステリやライトノベルといった現実的でわかりやすい作品のほうが売れている。けれど、文学に込められている還元不能性に触れ、悩んでほしい。
これにて終了。司会から、これからの活動について抱負を一言ずつ。
藤田は、これからも宗教性を求める傾向が続くことで、結果的に悲惨なことが起きるかもしれないが、それを防ぎ良い方向へ持って行くにはどうすればよいか、あるべき倫理を考えたいという。
村上は開口一番「小乗仏教を復活させたい!」。梅田望夫『ウェブ進化論』では、チープ革命が起こると予言されていた。誰もが情報端末を操り、ブログで情報発信する。あらゆる人が表現者となり、社会を変えていくと期待されていた。だが、いまだにそんなことは起きていない。ザクティ革命をしたのは藤田だけ。技術ではなく、きっかけや空気が変えていく。Ustreamではなんとなく生中継をして、なんとなく温くつながるだけの不毛な配信が繰り返されている。
海老原はシニシズムを乗り越える方向へ行きたいという。教職に就いている海老原は、ときに生徒から「将来は学校の先生になりたい」と相談を受ける。アーキテクチャが進化すれば、悩まなくとも誰もが理想の教師になれるようになるかもしれない。しかし、それは間違っている気もしている。ミクロではシニシズム、マクロではアーキテクチャ。寺院や信者同士のつながりといった環境があって初めて宗教が成立するように、初音ミクなどサブカルチャーもそうなっていくのかもしれない。
質疑応答
てな感じでトークは終了、質疑応答へ。これでゼロアカ道場は一件落着したわけだが、藤田は単著をださないのか。
明確な出版予定はない。司会が(『3.11の未来』を刊行した作品社の方らしく)善処しますとのこと。
『ゴーストの条件』は「生きろ!」というメッセージを込めて、実存の問題を扱っている。けれど、内容を問わずにただ生きろと宣告する姿勢で良いのか。自衛隊にクーデターを呼びかけ割腹自決した三島由紀夫や、オウム真理教のような危うさがあるのでは。
第一に、ゴーストには良い面と悪い面の両方があるのは確か。それでも、自殺願望がある人には根拠無しに死ぬなと伝えたい。第二に、押しつけがましい内容とはよく言われる。そうではないことを理解してほしい。第三に、死ぬなというメッセージは同時に殺すなという意味でもある。マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』では、どうしても誰かを犠牲としなければならない選択を強いられる状況について論じられている。ケースバイケースであり、必ずしも殺すなという考えがうまくいかないこともあるかもしれない。それでも、これが現時点で自分にとって最善の方法だと仮説として考えている。ゴーストは人を操るものではなく、むしろ人々に助けられるもの。論理的な回答だけがすべてではない。
ゴーストはネット特有のものなのか。紙媒体では生じないとしたら、その差異はなんなのか。
紙媒体でもありえないとは思わない。境界を問うことは難しい。ネットの速度、レスポンスの速さが認識のフレームを変えた。人工知能が本当に人間と同じレベルに達しているか判断するチューリングテストというものがある。もし壁の向こうに「おい」と呼びかけて数時間経っても返事が無ければ、そこにいるのが人間だとは思わない。他人がなにかを事実的と判断するには条件がある。
感想
エー、要するに、十年前ならオウム真理教みたいに社会へルサンチマンを抱いて内に閉じこもって「ヘイユー、ポアしちゃいなヨー♪」だったのが、それじゃまずいから、これからはちゃんと外に目を向けて、ニコニコ微笑みながら「もえぶたの塔」を掲げて駅で勧誘してろってことなのかな。
それは、他人に迷惑をかける廃人から、他人に迷惑をかけない廃人になっただけのようにも思える。悩み苦しんだ末に見出した正しい答えを、いつかみんながわかってくれると待ち続ける聖者は、悩める内面を有する理性的な人間ではあるけれど、もっと大きな罠にかかっているんじゃないか。
そもそも、そんな幸せな人に誰もがなれるなんて保証が、いったいどこにあるんだろう。自分はちゃんと自分の頭で考えている人間だ、だから後世に残る仕事をできているし他人に迷惑もかけてないぞ! そんなことが断言できる立派な人に、自分はとてもなれそうにない。
生きろ、他人を殺すな。このルールさえ守ればなんとかなる、というのは、施政者の考え方だと思う。実存の哲学とは思えない。人を殺せる武器を奪ったところで、人を殺すほどの憎しみは消えてなくなりはしない。そういう人は遅かれ早かれ、相手を殺すのに武器なんて要らない、自分の拳だけで充分だと気づく。武器を持つことが許されない世界でその拳をとめられるのは、その世界を管理する人々の武器か、隣人の拳だけじゃなかろうか。