11/5(土) 中央大学文学会主催の「笠井潔講演会 ~3.11とセカイ系~」に参加してきました。場所は中央大学多摩キャンパス8号館8305教室、13時半開場。第一部は笠井潔公演で14時開演15時終了。10分間の休憩を挟んでゲストの蔓葉信博、飯田一史、藤田直哉が加わったトークセッションが開始、質疑応答が終了したのが16時半でした。
 会場は二百人くらいすしづめにできそうな大講堂で、前半はず~っと笠井潔が一人で話していたので大学の講義風景のよう。急に指さされて「二重の光輪とはなにか説明したまえ!」とか言われたらどうしようと思ってました。客は八十人くらいいたかな? 右端になぜかリクルートスーツの集団がいたのは大学サークルの方達だったのかしらん。
 なんかね、のんびりしてたらTogetterにまとめが先に作られちゃったよ…… orz。正確なレポをお求めの方はこちらをご覧ください(自棄)。こっちのほうがトークセッションに参加された方達による補足もついているしねえ。レポはもうTogetterで書く方がナウいのかねえ。

笠井潔 講演会 「3.11とセカイ系」 まとめ - Togetter
http://togetter.com/li/211312

 まあ、せっかく書いたので公開します。メモ書きからの再構成なので、主観入りまくり編集しまくり曲解しまくりです悪しからず。

福祉社会の終焉がセカイ系作品の流行を生んだ

 1945年3月10日、東京大空襲。それまでは軍事施設が主な標的だったが、この日は一般住民8万人超が死亡した。総武線の秋葉原から千葉までは線路の位置が高く、あらゆる建物が瓦礫と化したため亀戸駅から東京湾を望むことができたという。
 2011年3月11日。東日本大震災によって東北地方と関東地方の太平洋沿岸部は壊滅的な打撃を受けた。押し寄せる津波は家屋、病院、役場、工場とあらゆる建物を押しつぶし瓦礫の山へと変えた。これまで視線を遮っていたものが失われ、海を望むことができたという。
 六十六年前と今年、わずか一日違いで同じように社会環境が一掃され、瓦礫のなかに立ち尽くす個人が遠い光景を目にした。もちろん、これらのエピソードを直接的に結びつけることへの反論もある。全国で三百万人とも云われる死者があった太平洋戦争に比べ、大震災の死者・行方不明者は約二万人と限定的だ。これらを等しく歴史の節目と解釈するのは無理があるのではないか。
 死者の数だけを比べれば確かにそうかもしれない。しかし東日本大震災をただ天災と捉えるのではなく、二十年にわたって続いた低迷に日本社会がこらきれず生じた亀裂として捉えてみたい。

 2000年頃から「セカイ系」と呼ばれるサブカルチャー作品が多く生まれた。具体的作品名としては高橋しん『最終兵器彼女』、秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』、新海誠制作の映画『ほしのこえ』が挙げられる。家庭や学校でのなにげない日常を生きる主人公が、国と国との争いや世界の危機に関わる。小状況と大状況が直結し、中間にあるはずの社会が描かれない作品群を指している。
 このような作品が流行した背景にはなにがあったのか。90年代にバブルが崩壊、1995年には阪神・淡路大震災、そしてオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした。つぶれるはずがないと信じられていた大手銀行がつぶれ、大学を卒業していても就職難にあえぎ、非正規雇用で日々の糧をつなぐフリーターが急増した。良い学校に入り良い会社に入れば一生安定した生活を送れるという「福祉社会」の神話が失われた時代だった。
 21世紀初頭はまだ、このような変化が浸透していなかった。団塊世代の親たちは就職難にあえぐ子供世代を理解できなかった。ロスジェネ問題、リーマン・ショックと世界同時不況、覆いようのない格差の広がり。戦後日本社会が最大の危機に陥っているという認識がようやく浸透しつつある。

 では、このような福祉社会の崩壊がなぜセカイ系作品の流行につながったのか。実は、セカイ系に類似した物語自体は古来からある。例えば童話「シンデレラ」は、家庭内暴力被害を受ける不幸な少女が王子に求婚される物語だ。みすぼらしい少女という小状況が、一国を統べる王族という大状況と直結している。
 しかし、これは近代社会が成立する以前の物語だ。チャールズ・ディケンズ『オリバー・ツイスト』はまだ児童福祉の概念がなかった頃の悲惨な状況にある孤児が、さまざまな人との出会いや経験を通じて成長していく。福祉社会の崩壊によって、このような「社会を体験することで主人公が成長する」という物語が失効した。こうして小状況と大状況が直結し、社会が描かれないセカイ系作品が生まれた。
(なお、セカイ系にはもうひとつ「戦う少女と無力な少年」という特徴があるが、ここでは立ち入らない)

戦争がもたらした第一の廃墟、福祉社会の崩壊がもたらした第二の廃墟に共通する原因はなにか

 六十六年前、戦争が社会を崩壊させた。そして現在、また新たな形で社会は崩壊した。第三の崩壊を防ぐには、どのような再建の道があるだろうか。
 日米戦争で悲惨な敗北を経験した日本は、その大きな原因を生産力不足と技術不足に求めた。科学技術立国を目指した日本は高度経済成長を実現し、自動車生産台数が世界一を占めるまでになった。ジャパン・アズ・ナンバーワンと讃えられた未曾有の経済成長は、しかし90年代にバブル崩壊を迎え、失われた二十年と呼ばれる長期低迷が続くこととなる。
 なぜ日本は第二の廃墟へと戻ってきてしまったのか。そもそも科学技術立国を目指したことに、なにか誤りがあったのか。実は、欧米と日本とでは科学技術に対する態度に無視できない違いがある。それはなにか。まず科学の発祥から紐解いてみよう。

 日本を含む大多数の国々では古来から、自然を崇拝するアニミズムが信仰されてきた。アニミズムは無数の小さな神々が自然界に偏在すると考え、神とは呪術や生け贄を捧げることで交渉ができる、人間と同格の存在とされていた。
 一方、ユダヤ・キリスト教では、この世界の内側ではなく外側に天地創造を為した唯一の神がいるとする、一神教の立場をとっている。人間も自然も物質の固まりに過ぎず、神の定めた法則に従っているに過ぎない。ただ人間だけが神の領域との境界線にあり、神性が顕れるため精神が宿っている。この物質世界に潜む法則をみつけ学ぶことは神の御技を証明する行為であり、神を理解し近づくための手段となる。このような考え方が一九世紀、アイザック・ニュートンの時代まで続いた。
 しかしアニミズムを長く信仰してきた日本に、このような考えは浸透していない。欧米から自然科学や技術を学んだのは、あくまでそれが実務的に役立つ新しい呪術として受け入れたに過ぎない。東日本大震災の後、津波の被害を受けた原子力発電所の所員が原子炉の熱を冷まそうとホースで水をそそいだり、新聞紙や木屑を投げ入れたりしたという。これは「ブリコラージュ」だ。文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは『野生の思考』で、間に合わせで当面の必要性に役立つ道具を作る方法論をブリコラージュと呼んだ。
 一神教では、まず目的があり、その完成形を目指して作る「エンジニアリング」の方法を採る。この世界の外部にある完成された姿イデアがまずあり、それを実現するための設計図に従ってモノを組み立てる。日本はこのようなプラトン主義とは真逆で、現場の判断が優先される。東海村に原発が建設されたとき、日本の高名な物理学者はあまり関わらなかった。ヒューズが飛ぶと秋葉原で購入した部品で代用したという。韓国では日本よりもアニミズムの影響が弱いと感じる。AKB48の緩さに比べ、韓国のほうが高い理想像をイメージし、それを目指しているためうまい。

 六十六年前の廃墟と現在の廃墟、これらは頽落したブリコラージュがもたらしたものではなかったか。太平洋戦争は陸軍の現場の暴走に始まり、理念を持たないままがむしゃらに突入したため長期化した。原子力政策にも同じ側面がある。本当に必要な反省はまだされていないのではないか。二十年にわたる低迷によって空洞化した日本社会に亀裂が入ったのが東日本大震災だった。第三の廃墟となることを防ぐための改造が必要とされている。

3.11はフィクションにどんな影響を与えるのか

 さて、ここからトークセッション。向かって左から「ミステリマガジン」でコラムを担当するなどしているミステリ評論家の蔓葉信博。「ダ・ヴィンチ」連載など多方面で活躍しているSF・文芸評論家の藤田直哉。そして笠井潔、最後に「ユリイカ」等に寄稿している文芸評論家で司会進行役の飯田一史。

 司会を努める飯田一史から、まずはイントロダクション。壇上の四人が所属している「限界研」とは、エンターテイメント・フィクションを研究、評論することを目的とした集団。2000年代前半、ライトノベルの流行や、それまでのSF、ミステリといったジャンルの概念だけではくくりきれない作品群を「限界小説」と呼称していた。一時期は「限界小説研究会」だったが最近は小説以外も扱うため「限界研」を正式名称としているとのこと。
 ゼロ年代が終わり、これからのフィクションはどうなっていくのか考えていきたい。まず3.11の影響を受けてなにか変わったことはあるか、との質問を受けて蔓葉信博が回答。意見は人さまざまで、なにも変わるわけがないという人もいれば、一方で「ミステリを読めなくなった」という人もいる。被災地では多くの人々が命を落としたというのに、殺人事件を娯楽として描く小説を愉しめないという。
 考えは人それぞれという意見に藤田直哉もうなずきつつ、けれどその人それぞれの解釈のなかから、なにか皆がうなずけるような「物語」が生き残るだろうという。石原都知事の「やっぱり天罰だと思う」という問題発言はさすがに非難を受けた。SFこそ未曾有の災害になにか提言ができるのではという意見もあれば、それに反発する人もいる。

 司会進行の飯田一史にバトンが戻る。福祉社会が崩壊してセカイ系が流行し、そして3.11が起きた。思いがけない天災にショックを受け、身の回りでは結婚、出産といった保守的な行動にでる人が多い。その一方で、逆にスティーブ・ジョブズのごとく、いつ死んでもおかしくはないのだからリスクテイキングで好きに生きようという行動にでる人もいる。近年、セカイ系作品は減少しているように感じるが、こういった状況を受けてセカイ系はどうなっていくのか。
 笠井潔が近年のアニメ作品の傾向を三つに分類する。一、『けいおん!』『日常』のように、主人公たちには明確な目標が無く小状況に閉じた日常が続く世界を描く、いわゆる日常系アニメ。二、『魔法少女まどか☆マギカ』は内ゲバのごとき組織内での抗争を描く、自己充足的かつ自己破壊的な作品。三、『コードギアス 反逆のルルーシュ』『ギルティクラウン』は社会を描いている。外部にある敵との闘いを描く作品。
 藤田直哉はセカイ系に代わって新しい傾向の作品が台頭しつつあると指摘する。ゼロ年代後半『東のエデン』あたりから、大きな「社会」こそ描かれないが小さな「組織」を描く作品が登場してきたように思う。凄惨な内ゲバが起きる『魔法少女まどか☆マギカ』も組織論を描いている。
 3.11以降では生の描き方も変わるかもしれない。映画『十三人の刺客』では、太平の世に飽き飽きした黒幕が意図的にテロリストたちに自分の命を狙わせ、死を以てして生の意味を獲得しようとする。しかし3.11で被害に遭った人々、懸命に人命救助をしたりボランティア活動に尽力した人々にすれば、こんなハイデガーの「死の哲学」など許容できないだろう。
 蔓葉信博もまた、セカイ系がムーブメントとしては失速しているとうなずく。その一方で、表面的にはセカイ系ではないように見えるが、セカイ系の枠組みを受け継ぎつつアレンジをくわえたポストセカイ系とでも呼ぶべき作品群が現れている。ミステリのほうでは東川篤哉『謎解きはディナーの後で』が大ヒットしユーモアミステリーが流行した。こういう世情だからこそ軽いタッチの作品が喜ばれるのかもしれない。

「社会」から「ソーシャル」へ

 では、より大きなスパンではどうかと司会の飯田一史が問う。これまで挙がった作品のクリエイターはみな団塊ジュニアの世代。その一方で若い世代はネットを通じた新しいつながりを作りつつある。2chではまだオタクたちだけの閉じた小世界というイメージがあったが、いまやニコニコ動画やTwitterといったさまざまなテクノロジーを通じて「社会」とは異なる新しいつながりとしての「ソーシャル」が生まれつつある(註:socialは形容詞なので、名詞にするなら「ソーシャル・コミュニケーション」とかにすべきかと思うけど、とりあえずそのままで)。
 新しいつながりの誕生に藤田直哉もうなずく。さきほど「死の哲学」について話したが、震災後に秋葉原へ行ってもなにも変わっていなかった。サブカルチャーによって快楽が補給され充足的な生活を送る人々が、生の意味を問うことなどない。その一方で3.11以降は宗教性への希求が目立ってきているようにも感じる。蔓葉信博もソーシャルの登場を感じているという。かつて誰もが等しくコモンセンスを共有していた社会に代わり、どんどん細分化が進むカオス的な社会が訪れようとしている。
 笠井潔はソーシャルを社会が解体しつつあることの表現とみなし、ふたつに分類する。ひとつは地元つながりのようなもともとある共同性を強化するもの。もうひとつは群衆が乱反射しあうかのようなつながり。後者のほうに興味がある。
 藤田直哉が指摘した「死の哲学」が変わるかもしれないという点にも思うところがある。二〇世紀までは、人はいつか死ぬのだから後悔の無いよう懸命にという考えが当たり前だった。けれど3.11では放射能の危険性が一般人にはわけのわからない数値で表され、危険性がわからない。重病に罹った人が、五年以内の生存率は三十パーセントですなどと言い渡される。生と死が確率的なものとなる時代を生きることになる。

質疑応答

 で、ここから質疑応答。
 矢吹駆シリーズ第六作『吸血鬼と精神分析』を刊行した笠井潔。矢吹駆はかつてテロリストだったが、組織を抜け社会との接点を失った人物だ。『コードギアス』も主人公がテロリストだが、比べてどうか。
 『コードギアス』は強い父と、それを乗り越えることができない弱い子の物語。弱いからこそ戦う少女に依存しなければならない。テロリストとは攻撃される側からの呼称であり、アメリカ独立革命の象徴的事件となったボストン・ティーパーティー事件も英国からすればテロだった。自分たちが正義だと信じるテロ集団はときとして抑圧的なものに荷担することになるため、矢吹駆はそれを批判する人物として造形した。

 宇野常寛『リトル・ピープルの時代』はどうか。また、反原発デモについてはどう思うか。
 評論書としては村上裕一『ゴーストの条件』のほうが優れていたと笠井潔。たとえば『リトル・ピープルの時代』はグローバリズムとはなにか説明せず、いきなり図式をだしてくる。『ゴーストの条件』は具体的事例をだして検討している。この点は藤田、蔓葉も同感の模様。
 原発に反対すること自体は構わないが、その動機が浅はかな恐怖心や脊髄反射の不快感では困る。蔓葉もまた、デモ運動の理論的な背景が不足しているのではと指摘する。藤田は六〇年世代の人々が現代の若者のメンタリティを理解しないまま昔のやり方を繰り返そうとすることに違和感を覚えるという。

 雑誌連載時は『吸血鬼の精神分析』というタイトルだったが、刊行時は『吸血鬼と精神分析』に変わった。これはなにか意味があるのか。
 このタイトルは一神教と多神教のメタファー。3.11後に記述をふくらませた箇所があり、それを受けて「一神教vs多神教」にしたほうが見合うと考えた。

 神戸・阪神大震災のあと、清涼院流水のJDCシリーズが生まれた。西尾維新、佐藤友哉、舞城王太郎ら脱格系の作品では無意味な死が描かれ、死者の救済という役割を果たしていないが、今後3.11を受けてどんな作品が現れるか。
 蔓葉信博が、笠井潔の「大量死理論」を説明する。探偵小説では被害者に、犯人の知略を尽くした犯行計画と、名探偵の精緻な推理という二重の光輪が捧げられる。戦場での意味なき死からの救済が探偵小説の役割だという。正直なところ3.11を受けてどのような作品が生まれるかは予測しがたいが、人の死という理不尽なものへの抵抗は続くだろう。虚構によって現実を読みかえるフィクションの役割を蔓葉が指摘する一方で、飯田一史は谺健二『未明の悪夢』のようにリアリティ重視のほうに進む作品もあるかもしれないという。
 笠井潔は、死が確率的なものに変わることで殺人の意味も変わるという。確率が関係する本格ミステリのコードとしてプロファイリングやプロバビリティ(蓋然性)の殺人があるが、まだこれでは弱いように思う。

 最後に各自一言。飯田一史は東北出身で、近親に死者があったわけではないが、まだ落ち着かない感があるという。タイでの洪水被害をテレビで観ていると、大変とは思うが切迫感までは感じない。言い換えれば3.11も世界の側からすれば同じ程度に過ぎない。そこにひきずられることのないようにしたい。笠井潔は、確率的な死という思想について引き続き考えていきたいとのこと。藤田、蔓葉は、3.11を受けてどうなると簡単には言えないが、これから形式や発想の面でまったく新しいものがでてくる可能性があり、巨視的な視点で見守っていきたいと結んだ。

感想

 前半の、プリキュアが日本社会の道行きを誤らせた黒幕であるという主張には……ん? なんかちがう?
 やっぱりまあ、ブリコラージュ自体は方法論に過ぎないから、それ自体が諸悪の根源だと言われてもあまりピンと来ないなあ。ブリコラージュをもたらしたアニミズム信仰から反省すべき? アニミズム信仰をもたらした日本の風土を改造すべき? どうもこういう、諸悪の根源を探してそれを反省すればもう間違いはありませんという「よい子の処世訓」自体がどうも受け容れられない。

 『魔法少女まどか☆マギカ』が内ゲバだってのは面白いなあ。設定上は一応、外部からやってきた敵というものはある。それでも本質的な問題は人間のほうにあるわけで、けっきょく誰かが泥を舐めるしかないんだよというシステムの冷酷さが描かれている。そういえば『Angel Beats!』も内ゲバだったなあ。
 『サマーウォーズ』はどうだろう。あれは発端としては内部の問題があった。敵は外部のようで、どこか外部じゃない。内部の問題から生じ、暴走したシステムがふりまいた問題とでもいうか。善とも悪とも単純には判断できないシステムと対峙する話だった。デジタルの暴走を、アナログな人々のつながりが退治してめでたしめでたしという話だった。
 『Angel Beats!』もそうだな。あれもシステム自体には誰か一人だけの意志が関わっているわけではなく、むしろ個々人が自分の内面と向きあう話、助けあいを通じて救われる話だった。『魔法少女まどか☆マギカ』となると、もうこれは『サマーウォーズ』のような人と人との温かいつながりがシステムを倒すだなんて甘っちょろさは拭われている。システムは人間が生みだしたものであり、そのツケを払わされているのも人間。ルサンチマンを抱えたほむらはシステムをぶっ壊そうとするけれど、家族や日常の大切さを知るまどかにとめられる。最終的には宗教的とさえ云える、この日常を守ろうという決意、哀切な祈りによって終わりなき闘いを耐え続ける。そんな話だったように思う。