《解説》

CRITICA第6号

 評論「ゲーム系ミステリの思想」の一部を試供品として以下に公開します。
 本稿の全文は探偵小説研究会機関誌「CRITICA」第6号に掲載されます。「CRITICA」の詳細、入手方法については以下のリンク先を参照してください。

探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/

「CRITICA」:探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/critica.htm

 章構成は以下の通りです。

  • 一、不可知を前提としたミステリ
  • 二、メタが潰れてゲームが始まる
  • 三、不可知の絶望に抗して
  • 四、到達不能という名のリアル

 07th Expansion制作『うみねこのなく頃に』がミステリ作品としてどのような歴史的経緯を受け継ぎ、どのような同時代性を帯びているか、垂直方向と水平方向の座標を示します。
 第一章では、大戦間探偵小説から新本格ムーブメントにかけて、後期クイーン問題がどのように追求されてきたか経緯を説明します。それを受けて、第二章では07th Expansion制作『うみねこのなく頃に』の不可知論的世界観を説明します。
 第三章では土橋真二郎『殺戮ゲームの館』、七河迦南『アルバトロスは羽ばたかない』を分析し、『うみねこのなく頃に』との共通点を指摘します。第四章では、情報環境の発達がもたらした社会状況の変化とこれら作品群との関連を論じます。
 以下「ゲーム系ミステリの思想」の第一章と第四章を公開します。一部、作品内容(真相、犯人、トリック)に触れる箇所を、文字色を背景色と同じにすることで隠蔽しています。その箇所を読むには文章をマウスで選択するかボタンを押して下さい。

一、不可知を前提としたミステリ

 ゲーム系ミステリという言葉を耳にして、どんな小説が思い浮かぶだろうか。そもそもゲームのような小説といえば、どんな作品を指すだろうか。
 世紀の変わり目に、奇妙な物語が流行した。一九九七年に制作されたカナダ映画、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督『キューブ』(日本公開は一九九八年)や、第五回日本ホラー小説大賞の最終候補となり映画化にまで至った高見広春『バトル・ロワイアル』(一九九九年)に代表されるような、閉鎖環境に囚われた人々が命を賭けた争いを強制される作品が数多く生まれた。
 米光一成は「デスゲームはゲームたりうるか?」で*1、これらの作品をARG小説(Alternate Reality Game:代替現実ゲーム)と呼んでいる。九〇年代に携帯電話やGPSが普及し、現実世界にゲームが浸透拡散することを可能にした。本来、遊戯たるゲームへの参加はプレイヤーの自発性に任されるべきだが、ARG小説では登場人物たちがデスゲームを強制される。そこにはプレイヤーどころかゲームの駒とされてしまう現代の社会システムへの不安が反映されているという。
 ミステリファンならば矢野龍王『極限推理コロシアム』(二〇〇四年)や米澤穂信『インシテミル』(二〇〇七年)を思いだすだろう。登場人物同士の殺し合いという趣向を省き、クローズドサークルで人々が正体不明の犯人に一人ずつ殺されていく要素のみを残すならば、アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』(一九三九年)から綾辻行人『十角館の殺人』(一九八七年)を経由して現代まで、その作品リストは長大なものになるだろう。
 広い意味でのゲーム性を有す作品は古くからある。例えば脱出テーマの作品はどうだろう。エドガー・アラン・ポー『落とし穴と振り子』(一八四二年)、ジャック・フットレル「十三号独房の問題」(一九〇五年)、レジナルド・ヒル「脱出経路」(一九七九年)、伊藤人誉「穴の底」(一九五七年)、森博嗣『すべてがFになる』(一九九六年)、法月綸太郎「しらみつぶしの時計」(二〇〇八年)と、古今東西の作品を挙げていけばきりがない。
 筒井康隆『残像に口紅を』(一九八九年)のように、前衛的な手法を探求する実験小説にはある種のゲーム性が感じられる。歌野晶午『密室殺人ゲーム2.0』は、倫理道徳を軽視し人命をもてあそぶ残酷なゲーム感覚を描き「2010本格ミステリ・ベスト10」で1位を獲得した。山田風太郎の〈忍法帖〉シリーズや荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』など特殊能力者たちのバトルを描いた作品、ロアルド・ダール「南から来た男」(一九五三年)など賭博をテーマにした作品、作者と読者が知恵比べをする犯人当て小説、詐欺や騙しあいが繰り広げられるコンゲーム作品、分岐選択式ゲームブックおよびノベルゲーム……。
 そう、広い意味でのゲーム性がある作品は数多い。ありえたかもしれない架空のジャンルの偽史を捏造できるほどの深みと広がりが既に醸成されている。ゲーム系作品はさまざまなジャンル/メディアを横断して存在し、決して近年になって突如流行したわけではない。
 本稿で、なぜ「ゲームミステリ」ではなく、あえて「系」を挟んでいるのか補言しておく。私はゲーム系ミステリを、ミステリのサブジャンルとは考えていない。外部のジャンル/メディアのゲーム系作品へリンクするタグだと考えている。
 例えば、ライトノベルはあらゆるジャンルを呑みこむジャンル横断的な性質を有している。従って「ライトノベル系ミステリ」という言葉を捏造するならば、それはミステリの一支流を意味しない。ライトノベルの性質や手法、例えばまんが・アニメ的リアリズムやキャラクターといった概念をキーワードに、ジャンル外部へと接続しうる作品群を意味する。
 さて、ゲーム性をマジックワードとしていては、実りある論考には発展しそうにない。本稿は同人サークル07th Expansion制作のサウンドノベル『うみねこのなく頃に』『うみねこのなく頃に散』(以降、まとめて『うみねこのなく頃に』と呼ぶ)を中心に、ゲーム系ミステリの思想について考察する。ここではゲームという概念に込められたさまざまな性質のなかでも、特にある一側面に着目して論を展開する。それはなにかを説明するために、ある問題についての経緯を紹介したい。本格ミステリへの根源的な問い、後期クイーン問題を巡る議論を。

 アメリカの探偵小説作家エラリー・クイーンは、謎解きの前に〈読者への挑戦状〉を挿入し読者が探偵役と同じ結論に達しうることを保証した作品で人気を博した。しかし後期には、その解決が失調し探偵役が犯人に翻弄される作品群が生まれた。
 これを基点とし、国内のミステリ評論では探偵小説の基礎が検証されてきた。基礎とはすなわち、探偵役や読者が与えられた手がかりから論理的な推理を重ねることで、唯一の真相にたどりつくことが本当に可能なのか、という疑問だ。謎の提示とその解明をプロットとする探偵小説にとって、これほど根本的な問いはないだろう。
 例えばこうだ。探偵役は殺害現場を調べ、関係者から事情を聴取し、得られた情報から推理を組み立て、揺るぎない真実に到達する。しかし現実的には、誰しも観察能力に限界がある以上、観察の範囲内にパズルのピースが都合良くすべてそろっている保証は無い。探偵役の謳う真実とは、常にドンデン返しが待ち受けている「最後から二番目の真実」に過ぎないのではないか。
 一九九五年、法月綸太郎は「初期クイーン論」で*2、クイーンが〈読者への挑戦状〉でこの問題を解消したと指摘した。新しい情報を後出しすることを禁止し、探偵役も読者も問題編に提示された手がかりだけから唯一の真相を推理できると作者が保証した。言い換えれば、それさえ保証されているなら推理のもたらす結論と物語内世界の客観的真実が不一致でも構わなかった。
 しかし、このような論理的整合性さえ守られていれば意味は問わないとする形式主義的態度でさえ、解決できない問題があった。一九九三年から二〇〇一年にかけて、エラリー・クイーン『ギリシア棺の謎』(一九三二年)の評価を巡り論争が繰り広げられた*3。法月綸太郎、笠井潔らが『ギリシア棺の謎』は偽の手がかりを扱うため後期クイーン問題を免れないと主張したのに対し、飯城勇三は否を唱えた。
 偽の手がかり問題とは、こうだ。探偵役エラリーは『ギリシア棺の謎』で、紅茶茶碗とパーコレーターを観察し得られた推理から犯人を指摘する。しかし、それは狡猾な犯人の罠だった。エラリーに誤った推理をさせることで無辜の人物を偽の犯人を仕立てようと工作した偽の手がかりだった。以降、エラリーは新しく得られた手がかりが本物なのかそれとも罠なのか、真偽を決定できない状態に陥る。
 「最後から二番目の真実」問題は、新しい手がかりの追加を禁じることで解決できた。しかし「偽の手がかり」問題は、手がかりを解釈することさえ許されない。それは犯人Aがミスで残したのかもしれず、あるいは偽犯人Aを仕立てるため真犯人Bが工作したものかもしれず、あるいは偽犯人Aを偽犯人Bが仕立てたとみせかけるため本当の真犯人Cが画策したのかもしれず……というメタレベルの無限階梯化が生じる。
 笠井潔は「ミステリマガジン」の連載「ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?」にて*4、後期クイーン問題に理想的な解決策は存在せず、個々の作品毎にとりあえずの解決を見出す他ないと結論した。 しかし『ギリシア棺の謎』はフェアプレイが成立していると主張し続けた論者、飯城勇三は『エラリー・クイーン論』で*5、その否定的な態度に異を唱えた。
 パズルのような非対人ゲームには解が存在する。しかし囲碁や将棋といった対人ゲームでは、そのルールの複雑性や手順の組合せの膨大さから必勝法がわからない。ゲームを重ねるごとにまったく新しい局面があり、多様な戦略や駆け引きがある。『ギリシア棺の謎』は偽の手がかりを導入したことで対人ゲームとなり、パズル的な唯一の解法を失ったことと引き替えに新しい魅力を獲得したと主張する。

 対人ゲーム、すなわち「プレイヤー同士が互いのプレイに影響を与え合うゲーム」においては、必勝法などは存在しない。常に、「とりあえず」の方法しか存在しないのだ。
 よって、〈後期クイーン問題〉には、「唯一無二の解決」などは本来あり得ず、常に、「とりあえずの解決」しか存在できないということになる。
 笠井潔や法月綸太郎は、〈後期クイーン問題〉に唯一無二の解決が存在しない点について、「探偵小説形式の自己崩壊」や「探偵小説形式の無底性」といった危機感を感じさせる表現を用いている。しかし、ここまで語ってきたように、それはスポーツや囲碁・将棋といった対人ゲームすべてに存在するものなのだ。例えば、「投手の配球パターンを読んで打者が打つ→配球パターンを読まれた投手がその裏をかいて打者を打ち取る」といった駆け引きは、対人ゲームの世界では、珍しくもなんともないだろう。
 だからといって、スポーツや囲碁・将棋が滅びてしまうわけではない。むしろ、「絶対的な必勝法」が存在しないことが多種多様な変化を生み出し、「とりあえずの解決」しか存在しないことが刹那的な魅力を生み出しているのだ。

 大戦間の英米黄金期に様式美を極めた、作者と読者がフェアプレイ精神を遵守し、紋切り型の登場人物が駒のように描かれる作品群はしばしばチェスなどのゲームにたとえられてきた。しかし飯城は、唯一の正答を保証するため複雑性を排したこれらの作品を正確に喩えるならゲームではなくパズルだとした。
 では、現代ではどうだろう。一九八七年、綾辻行人『十角館の殺人』刊行を嚆矢とする新本格ムーブメントは当初、大戦間探偵小説のルネッサンスとしての意味合いを帯びていた。しかし、陸続する新しい才能たちは逸脱と形式破壊を極めていく。
 九〇年代半ば以降、推理を経ずとも超常的な能力によって真相を直接知ることができるSF設定によって、偽の手がかり問題を回避しようとする動きが現れる。しかし諸岡卓真『現代本格ミステリの研究――「後期クイーン的問題」をめぐって』(北海道大学出版会、二〇一〇年)が明らかにしたように、それは本格ミステリ形式を維持するための延命策としかならなかった。超能力が犯人に逆利用される、犯人側にも超能力者が現れるといった実作の登場により、探偵役だけがメタな情報を入手できるという特権性の神話は崩壊した。
 一方で九〇年代の作品には、探偵役を含めた作品世界全体が超人的な犯人の手の内にあったという〈操り〉を描く傾向があった。しかしメフィスト連載の評論をまとめた巽昌章『論理の蜘蛛の巣の中で』によれば、そのような傾向がゼロ年代から後退してきたという。諸岡は西澤保彦『神のロジック、人間のマジック』(二〇〇三年)が、犯人による〈操り〉の相対性を暴露したと指摘する。
 後期クイーン問題に直面した探偵役は真相に到達することができず、結果として超人的な犯人に操られ一方的に翻弄されるしかないように思える。しかしゼロ年代にはそのような犯人の絶対化さえ崩れた。安全清潔なメタの立ち位置からオブジェクトレベルの世界を見下ろす特権性を、探偵役と犯人のどちらも剥奪されてしまった。
 かつて犯罪者は芸術家であり、探偵はその批評家だった。しかし、私たちはもはや犯人と作者が創造する美しいパズルの鑑賞者を気取っていられる余裕を失おうとしている。それではチェス盤を広げ、駒を並べよう。すぺてのプレイヤーが等しく真実への到達が阻まれた、誰にも最適解のわからないゲームを始めよう。不可知の絶望に悲鳴をあげるのは果たして誰だろうか。

...ここから各作品論に入ります...

四、到達不能という名のリアル

 数年前まで、品川に通勤していた。JR品川駅の東口には体育館を連結したかのような広大なコンコースがあり、私は朝そこを歩きながら膨大な人数の通勤者がたてる靴音に耳を傾けることを小さな愉しみとしていた。広大な空間に響く無数の音ひとつひとつが心ある存在をともなうものだという事実は、当然でありながらどこかセンス・オブ・ワンダーを呼び覚まされる想いがした。
 ツイッターは、人を不可知論者にする。二〇一一年六月現在、私は百三十七個のアカウントをフォローしている。タイムラインにはさまざまなつぶやきが二十四時間流れ続けている。小説の感想、仕事へのぼやき、挨拶、ブログの更新告知、旅行先での一コマ、チャットへの誘い、愛娘の思いがけない一言、修羅場を迎えた小説家の嘆き、門外漢にはいっさい文脈のわからない会話……。
 こうしてノートパソコンに向かい文章を綴っている間にも、タイムラインをつぶやきが流れていく。すべてを読むことはできないし、そもそも私がフォローしている百三十七個のアカウントがツイッターのすべてではない。それは広大な砂漠に埋もれる一粒の砂に過ぎない。
 もちろん、ツイッターが普及する以前から情報は存在していただろう。私の勤め先が横浜に変わった現在でも、品川駅東口のコンコースには無数の靴音が響いているだろう。しかし無数の靴音が心ある者達によって奏でられていると気づくこと、その現実を目の当たりにすることは意識を変える。世界へのインタフェースの在り方は個人の思想を決定的に変えてしまう。
 二〇〇一年九月十一日、航空機の激突によって崩壊するワールドトレードセンターの映像がリアルタイムで国際中継された。以降、ハリウッド映画には手持ちカメラによる手ブレ映像などドキュメンタリーの手法を利用した作品が数多く生まれるようになる。その理由として、藤田直哉は「9・11系ハリウッド映画群の謀略」で、9・11テロの粒子の粗い映像がそれまでの映画的映像のリアルさを超え、映像のリアリティへの意識を変容させたことを指摘している*6
 身体性を強く意識させる手持ちカメラや携帯カメラ、あるいは見られているという意識を喚起する監視カメラや監視衛星の映像にリアリティを感じることは、それと引き替えにそれまでの映画を構成してきた神の視点からの客観的映像にリアルを感じないという現象を引き起こす。そのとき神の保証するたったひとつの共同現実という保証は失われ、人は相対主義的かつ多元主義的な世界観のもとで極度の不安に陥るという。

 9・11の粒子の粗いビデオの映像を「現実」であると感じる人間が多かったために、ハリウッド映画の映像感覚は変化してきた。しかし、9・11の映像について、その「現実」は本当は「現実」ではなく「映像」に過ぎないのではないかという不安は、メディアを介して事件を知るしかない大多数の人間の間に広がっていくだろう。神の保証していた確固たる一つの「現実」が崩壊すれば、世界は相対主義的で多元主義的になっていき、嘘と本当の混乱は、脳に(計算可能性として)無限の負荷を与えてしまう。人間の精神や脳はそれに耐え切れず、それをストップさせる何かを求めてしまう。例えばそれは、陰謀論である。実際、9・11は存在しない虚構であるという説も唱えられているほどである。しかし、その陰謀などは「現実」というよりは物語に近いものである。しかしそれを物語であると認めると、複数の物語の存在が想定され、再び無限の懐疑が駆動してしまうので、どこかでその物語を「現実」と思うか、あるいは別の懐疑を停止させる方法が求められる。

 藤田直哉の指摘は他のサブカルチャーにも現れている。杉田uは「『けいおん』の偽法」で京都アニメーション制作のテレビアニメ『けいおん!!』について、卒業する四人の先輩たちを見送る後輩という関係が、視聴者―後輩―去っていく先輩たちという垂直方向の視線を構成していると指摘する*7。このような奥行き感のある演出から、視聴者には触れることができない彼方の楽園という神秘性が生じるという。
 到達不能性にこそ、リアルが宿る。直感的には情報が増えれば増えるほど客観的な世界の全体像に人は近づくことができるはずだ。しかし情報環境の急激な発達がもたらす膨大な情報は、むしろ世界の全体像への到達不可能性を残酷なまでに証明する。個人には生涯をかけても処理しきれない情報が存在することは有史以前からの事実だったろう。しかし、それが事実だということを意識させられる機会が急激に増加している。
 では、このように客観性への不信が募った状態で、到達不能性に代わるどのようなリアルが可能だろうか。濱野智史は『アーキテクチャの生態系』で、二〇〇〇年代に登場したさまざまなアーキテクチャが人々の相互行為や慣習のあり方にどのような影響を与えたか解説している*8
 登場人物の苦悩や葛藤を描くことで、近代文学は本来なら共有不可能な内面の動きを共有可能であるかのように見せかける制度を実現した。それに対し、ケータイ小説では携帯電話のさまざまな操作を通して、携帯電話を操作したことがある読者であれば理解できる心理を描写する。普遍的なリアルを描こうとする自然主義的リアリズムと比較して、このような限定的な客観性のもとでのリアルを描くことを「操作ログ的リアリズム」と呼称している。
 ここまで確認してきたことをゲーム系ミステリに適用しよう。情報環境の発達にともない、人々はリアルタイムで海の向こうの凄惨な事件を目撃し、無数の人々のつぶやきが漆黒の海へと降り注ぐ雪のように消えてゆく現実に直面している。大量の情報はむしろ人々を真実への到達不能を当然とする不可知論者にし、結果としてかつての映画文法や近代文学が構築した唯一の客観的真実を共有する制度が受け容れられなくなりつつある。それはミステリにおいては、後期クイーン問題へのあらゆる一時しのぎも迂回策も説得力を失うという形で表面化した。
 神の視点に裏打ちされた唯一の客観的真実というリアリティの有効保証期間が過ぎた現在、それに代わって新しいリアリズムが台頭しつつある。それは特殊なルールに基づき構築されたアーキテクチャ上でのみ成立しうる、限定的な客観性に出現するリアルだ。全体的客観性に到達するための推理ではなく、受け容れがたき他者とのコミュニケーションを成立させ、限定的客観性の構築を通じて不可知の絶望から救済されるための推理。
 そのためには最低限のプロトコルを信頼し、相手が自分との意思疎通を願っていることを受け容れなければならない。陰謀論や懐疑主義から脱出し、ネガティブイメージにとらわれることなく現実を肯定的にとらえ、魔法を信じ希望を抱き続けること。それが人々を回復不可能な〝現実〟と向きあいつつ生きることを可能にしてくれる。

 さて、ここで偏屈なミステリ愛好家なら、次のように素朴な疑問をつぶやくだろう――そのような文学的解答の、どこが面白いのかと。
 すべては欺瞞に過ぎない。『うみねこのなく頃に』で縁寿が真実を知ることができたのは伯母が残した手記を読んだからだ。『殺戮ゲームの館』で福永や藍が生き残ったのは良心的なゲーム企画者が生存ルートを保証してくれたからた。『アルバトロスは羽ばたかない』で野中佳音は初めから真相を知っており、ただ叙述上のごまかしでそれが覆われていただけだ。
 なるほど、後期クイーン問題は懐疑主義という名の幻影に過ぎないのかもしれない。しかし過酷な状況に直面したとき、現実を生きる人々は作者のご都合主義に救われたりはしない。『うみねこのなく頃に』はゲーム盤を繰り返すことでパターン性に基づく推理を可能にした。『殺戮ゲームの館』の確率論に基づく推理は新しい方向性につながる可能性を秘めている。『アルバトロスは羽ばたかない』のあからさまな矛盾の提示は読者が叙述トリックを見抜くことを可能にした。本格ミステリは作者の恣意性を排し、文学的センチメンタリズムを超えたなにかを模索し続けなければならない。
 第一章では後期クイーン問題の歴史的経緯を概観した。その延長として『うみねこのなく頃に』では不可知論的世界観が現れたことを第二章で説明した。このような世界観が「才能の孤島」ではないことを示すため、第三章では二つの作品について分析した。第四章では情報環境の発達がもたらした社会状況の変化を踏まえ、ゲーム系ミステリの思想が生まれた背景を探った。
 突拍子もない設定に奇妙奇天烈なキャラクター、考えうる限りの掟破りにミステリファンを挑発するかのような作者の態度。表面的には『うみねこのなく頃に』という作品は狂い咲きの突然変異種としか思えない。本稿の目的は、この作品がどのような歴史的経緯を受け継ぎ、どのような同時代性を帯びているか、垂直方向と水平方向の座標を示すことにあった。
 言うなれば『うみねこのなく頃に』は交差点に位置している。右を向けばそこには膨大なミステリ作品があり、左を向けばそこには負けず劣らず膨大なゲーム系作品がある。背後にはこれまで歩んできた後期クイーン問題を巡る苦悩の道があり、どこにも断続的な空隙は存在しない。あなたをここに連れてきたかった。しかし交差点での会話が許されるのは信号待ちの間だけだ。前へ、進もう。新しいゲーム盤と意地の悪そうな対戦者が、手ぐすね引いてあなたの到着を待ち受けている。