《解説》
評論「奇想の現在」の一部を試供品として以下に公開します。
本稿の全文は探偵小説研究会機関誌「CRITICA」第6号に掲載されます。「CRITICA」の詳細、入手方法については以下のリンク先を参照してください。
章構成は以下の通りです。
- 一、「器の本格」批判と幻想観の相違
- 二、幻想文学からミステリへ
- 三、ロマン主義者の夢想
- 四、幻滅がもたらすアクチュアリティ
- 五、奇想の現在
八〇年代後半から現代まで、島田荘司の本格ミステリー論を中心に、ミステリにおける幻想概念の変化を論じます。
第一章から四章にかけて、島田荘司が本格ミステリー論を提唱するにあたり、綾辻行人らと意見を対立させた経緯を紹介します。綾辻に指摘された本格ミステリー論の欠点を島田がどのように克服し、その一方で幻想観の異なる綾辻行人はそれをどのような形で作品へと反映させたか解説します。
それを踏まえた上で、第五章では山口芳宏作品を紹介します。本格ミステリー論の手法と、綾辻行人以降の幻想観のハイブリッドを実現させた作品として『学園島の殺人』を論じます。
以下「奇想の現在」の第一章から第五章の冒頭までを公開します。一部、作品内容(真相、犯人、トリック)に触れる箇所を、文字色を背景色と同じにすることで隠蔽しています。その箇所を読むには文章をマウスで選択するかボタンを押して下さい。
一、「器の本格」批判と幻想観の相違
山口芳宏『学園島の殺人』を、島田荘司が提唱した本格ミステリーの精神を現在に受け継ぐ傑作だと断言したなら、冗談だと思われるだろうか。
二〇一一年現在、本格ミステリー論に沿った作品を物す作家と云えば、名前が挙がるのは門前典之や小島正樹だろう。仮に『学園島の殺人』を本格ミステリーとして認めるにしても、シリーズ前作『妖精島の殺人』のほうがより島田荘司の作風に近いと指摘されるかもしれない。
なにより、扇情的な表紙イラストや、なにもかもだいなしにするような悪のりとチープさの大盤振る舞いに、苦笑いした読者もいたかもしれない。ミステリ仲間に勧めるときには、本格ミステリーとしてよりバカミスとして説明するほうが親切だろう。
なぜ、この作品を推すのか。その説明には、ほんの少々枚数を要する。まずは二十年近く前、島田荘司と綾辻行人が幻想観の違いを巡って対立した経緯を追っていこう。
一九九一年十二月、島田荘司は綾辻行人と三日間にわたり対談した。この対談は翌年に『本格ミステリー館にて』(森田塾出版)と題して刊行されている*1。九一年といえば麻耶雄嵩が『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』でデビューした年にあたる。大まかな感触としては、一九八七年の綾辻行人『十角館の殺人』を嚆矢とする新本格ムーブメントが草創期を終え、成長期に入った時期と云えるだろう。
ミステリとの出会いから創作論まで、話題は多岐にわたっている。なかでも興味深いのは、これからのあるべき本格ミステリの姿について二人が深刻な意見の対立を見せたことだ。綾辻、麻耶を含む数々の大学ミステリ研出身者を新人作家として推薦してきた島田は、対談の前半で「本格ミステリー」の執筆を奨めている。本格ミステリーとは、対談の二年前に島田が「本格ミステリー論」で提唱した*2、詩美性のある幻想的な謎が論理的に解体される特徴を備えた作品のことだ。
一九二〇年代から三〇年代にかけて英米で黄金期を迎えた探偵小説は、クローズドサークルでの連続殺人や難攻不落の密室トリック、豪壮な館に神の如き名探偵といった定番の舞台、事件、役割、道具立てが頻出した。島田が推薦した大学ミステリ研出身者の多くも、さながら大戦間探偵小説のルネッサンスを目論むがごとく、これらのコードを作品に多用した。
新本格ブームが一時のお祭り騒ぎに終わる可能性を危惧し、本格ミステリー論を提唱した島田は、独創性の稀薄なコードを多用する「器の本格」では高度な幻想表現を達成することはできないと訴えた。しかし「そのもくろみは見事に空回りし、新本格の才能に期待しようとする真意が、ほんの少しも綾辻氏に伝わっていない」(島田荘司による文庫版後書き、三〇〇頁)「結果として当方の提案は、猛烈な反発と、綾辻氏周辺の仲間たちの怒りを誘発しただけ」(同、三〇三頁)に終わった。
後進世代に真意が理解されなかったという想いはよほど島田を落胆させたのか、対談から十年以上が過ぎた二〇〇三年四月にも、東京創元社のミステリ専門誌「ミステリーズ! vol.01」に寄せた「新世紀の新本格」*3で、コードを前提とした作品群を批判している。コード了解を通過したゲーム型小説では、犯人の指摘さえ特権的、記号的に行われ、遂には論理さえ要請されなくなる。論理的解決さえ手放した一部の新世代作家たちが本格ミステリを自己崩壊に向かわせるのだという。
この文章の前年、笠井潔は「本格ミステリに地殻変動は起きているか?」で*4、本格形式を前提としつつ形式から逸脱する傾向がある舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新らの作風を「脱格」系と名付けている。島田は具体的な作家や作品名を挙げていないが、恐らく当時のミステリ読者の多くは物議を醸したこれらの作家たちを想起しただろう。
本格ミステリー論と「器の本格」への批判、そして両者の意見の対立を詳しく見ていこう。「本格ミステリー論」で島田は次のように説明する。ミステリはエドガー・アラン・ポーによって幻想文学の幹から枝分かれされた。やがてそこからリアリズムの系譜に属する作家たちによって現実味を重んじた犯罪推理小説が分岐し、国内ミステリにおいても両者が平行した流れを形成し続けている。
この二つの流れを識別するため、幻想文学の一支流である前者を「本格ミステリー」、リアリズムを重視する後者を「本格推理小説」と便宜的に呼称することを島田は提案した。本格ミステリーに必要なものは詩美性のある幻想的な謎とその論理的な解決の二要素のみであり、例えば名探偵や殺人、トリック、結末の意外性といった要素はあくまでも二次的なものに過ぎないと断じた。
一九九一年の対談では、綾辻の提案でチャートが作成されている。X軸に「論理―情動」を、Y軸に「幻想―リアリズム」を配し、著名な国内ミステリ作品をマッピングすることで「幻想―論理」の領域である本格ミステリーは「リアリズム―論理」の領域を占める本格推理小説よりも実作が少なく、可能性が充分に探究されていないことを示した。
チャートを説明した上で、島田は高木彬光『刺青殺人事件』『人形はなぜ殺される』や坂口安吾「心霊殺人事件」を引き合いに、たとえ一般的には幻想的とみなされる要素を用いていても、それらは本格ミステリーではないと主張する。なぜなら国内ミステリは先達の努力によって発見された形式、いわば美しい「器」が受け継がれており、それらは「あまりにも頻度多く出現しているがために、ひとつのパターン的要素になってしまっている」「それら定番要素を、作中にいくらふんだんに盛り込んだとしても、それは幻想小説のクリエーションではない」(三六頁)からだ。
対談から二十年近くの月日が流れた現在「答え合わせ」をするならばどうか。結論を先に云えば、新本格ムーブメントは大戦間探偵小説のルネッサンスだけでは終わらなかった。少なくともコードの多用を脱した点では、島田の提言はそれほど的を外したものではなかっただろう。
一九八九年に『空飛ぶ馬』でデビューした北村薫を中心とする「日常の謎」派、九四年デビューの京極夏彦『姑獲鳥の夏』あたりから目立ち始めた学問/専門知識を材とする情報小説系統の作品群、九八年に講談社主催の文学新人賞であるメフィスト賞を同時受賞した乾くるみ『Jの神話』、浦賀和宏『記憶の果て』、積木鏡介『歪んだ創世記』に象徴されるジャンルクロスオーバー。挙げていけばきりがないが、国内ミステリが獲得した多様性は島田の思惑を凌駕していたとすら云える。
対談中、島田の主張に綾辻は何度も難色を示し、あとがきにて疑問点を大きく二つに分けて整理している。第一に、謎が幻想的であればあるほど、むしろその解明は意外性どころか幻滅をもたらすのではないか。第二に、現実と幻想は二項対立の関係にあるのではなく、無数の私的幻想の重なり合いから生じる公的幻想こそが現実ではないか。
作品冒頭に提示される幻想的な謎が不可解であればあるほど、それが解明されたとき結末の意外性は自然と大きくなると島田は主張した。しかしミステリは幻想文学と異なり、いずれ合理的な説明がされることが読者にあらかじめ了解されている。幻想的な謎はその幻想美を高めれば高めるほど、むしろ謎解きにおいて幻滅をもたらすのではないか。
島田は本格ミステリー論を図式化したチャートでY軸に「幻想―リアリズム」を配した。ここからは、現実という確固とした不動の足場があり、そこからジャンプして遙か高みにある幻想をつかみとってくるかのような幻想観がうかがえる。しかし、現実とは個々人が生きる私的幻想の重なり合いから浮かびあがる公的幻想に過ぎないのではないか。普段の日常では忘却されているその構造が暴かれること、そこにこそ結末の意外性が生まれるのではないか。
第二章から第四章にかけて、綾辻の反論をより詳細に検討していこう。第一の反論、幻想文学と異なり、超自然的な現象がやがて現実へ解体されることが読者に了解されているならば、本格ミステリーはどのようにして読者に幻想性を担保することができるのか。そして謎が解き明かされたとき、どうすれば読者の幻滅を避けることができるのか。第二の反論、綾辻行人のほうは自身の幻想観をどのように実作へ反映したのか、そしてその幻想観はどのような時代状況を背景としていたのか。
二、幻想文学からミステリへ
幻想文学における幻想とはなにか。それは人智のおよばない、合理的な解釈はおよそ不可能な超自然現象のことだろうか。構造主義的文学研究の先駆的存在であるツヴェタン・トドロフは『幻想文学論序説』において*5、異なる考えを唱えた。
トドロフは、幻想とは語られた出来事について読者が抱く曖昧な知覚、自然な説明をとるか超自然的な説明をとるか決めがたい「ためらい」だと定義した。これは、一切の表象作用を拒否し個々の文章を意味論的な組合せとみなす詩的な読み方とも、語られたことの字義的な意味の背景に本義が潜んでいるとする寓意的な読み方とも異なるという。
超自然現象がその作品内では自然の現象に過ぎない場合も、幻想とはみなさない。例えば、妖精物語で人語を解す狼が登場しても、読者が驚くことはない。言い換えれば、読者のためらいこそが幻想にとっての第一条件であり、特定の作中人物が読者と同一化して超自然の存在にためらう必要はない。
では、ミステリはどうだろうか。トドロフは、合理的解決が理性をあなどるほどにみつけにくいとき、読者に超自然の介在を容認させたくなる点で、探偵小説が幻想文学に近づくとしている。しかし「幻想的なテクストでは、どちらかといえばむしろ、超自然的な説明への傾斜が認められるのに対し、探偵小説では、ひとたび物語が完結してしまえば、超自然的事件などなかったことに、いささかも疑いの余地がなくなる」(七八頁)点で、謎解き探偵小説は幻想物語と対立していると指摘する。
綾辻行人が指摘した通り、幻想的な謎にやがて合理的な説明が為されることが約束されているミステリでは、読者がこのようなためらいを覚えるはずもない。それでは本格ミステリーで幻想を実現することは果たして可能だろうか。
その答えは当然、島田荘司の作品にあるはずだ。デビュー作『占星術殺人事件』(一九八一年)は幻想文学の影響が色濃い。梅沢平吉の手記によって、読者は超自然的な解釈にたぶらかされる。ここでは合理的に説明のつかない現象がなにも記されていないことに注意を向けてほしい。六人の娘たちから完璧な肉体アゾートを合成するという、妄想に憑かれた男の狂気じみた殺人計画が綴られているだけだ。
しかし、だからこそ正統的な幻想文学の手法だと云える。思いだしてほしい、ツヴェタン・トドロフは超自然現象そのものを幻想と定義したのではない。語られた出来事が自然現象なのか超自然現象なのか、どちらとも説明しがたく躊躇することこそ幻想と呼んだ。超自然現象を直接語らず、その可能性をほのめかすだけのほうが、従来からの幻想文学の手法として正しい。
しかし『眩暈』(一九九二年)はどうか。三崎陶太の手記には、梅沢平吉の手記と異なる大きな特徴がある。ここでは数々の奇現象が、語り手の目と鼻の先で哄笑する。日常的な光景が脈絡のない不可思議によって寸断され、文法が破壊される。読者はただ、物理的現実として目前でリアルタイムに生起する視覚的な刺激と肌触りに圧倒されるしかない。
これは、幻想だ。しかし従来の幻想文学とは質の異なる幻想ではないか。わかりやすい説明として、三島由紀夫「小説とは何か」*6の一節を引こう。柳田國男『遠野物語』の第二十二節、曾祖母の葬儀中にその霊が出現する。「裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり」という件りに三島は「ここに小説があった」(三三六頁)と感嘆する。
情景をありのままに写生する自然主義文学では、読者はその物語内現実に没頭する。自然主義文学の透明な文体は、読者に物語内現実を現実と錯覚させるほどの没入体験を実現する。そこへ超自然的な存在がただ介入するだけなら、語り手の幻覚という合理的な解釈の余地がある。しかし、超自然の関与が物理現象を引き起こすとき、現実的解釈は打ち砕かれる。
物理的現実という強い現実が、穏やかな日常的現実を粉砕する。現実よりも現実的だからこそ『眩暈』では世界の終末という幻想の光景が成立する。このような、物理的現実の強度を発見し探求した芸術運動として、シュルレアリスムがある。
巖谷國士は『シュルレアリスムとは何か』で*7、超現実を強度の現実だと説明した。第一次世界大戦後、アンドレ・ブルトンによって創始されたシュルレアリスムは無意識や夢、偶然性を探究した。この芸術運動によって産み落とされた数々の作品は一見、現実離れした夢想の世界を描いているように見える。しかし、むしろ主観中心の考えを排し客観に至ろうとしたのがシュルレアリスムだという。
例えば、新しい生活のため見知らぬ町で一人暮らしを始めたとする。初めのうちは、新居に慣れないだろう。天井の染みが気になったり、往来からの異音に眠れなくなったり、宗教の勧誘といった望まぬ来客の対応に苦慮するだろう。しかし安寧の日々を過ごすうち、それらにもやがて慣れていく。
そこへ、大地震が襲う。書棚から大量の本が雪崩れ落ち、愛用していたティーカップが粉々になる。無残な部屋のありさまは、あなたの意識に強くなにかを訴えかけてこないだろうか。日常現実という文法が破壊され、圧倒的な物理的現実にさらされたとき、そこには超自然的解釈へのためらいとはまったく質の異なる非現実感がある。
奇怪な現象にやがて合理的説明が為されることをあらかじめ了解されているミステリでも、超現実ならば読者に眩暈感を催すことが可能となる。それは超自然の関与という説明を必要としない。もはや、ありのままの現実描写そのもの、強度の現実こそが「幻想」だからだ。
念のため一点、強調しておきたい。本章で主張したかったのは、島田荘司は本格ミステリー論を実践するためにシュールレアリスムの技法を活用した、ということではない。ミステリを幻想文学の一支流とみなし、ポー、ドイル、カーなどジャンル初期の作家たちが有していた原点のスピリットを追い求めつつも、島田荘司は実作にあたって旧態依然の手法を繰り返すことに甘んじなかった。現代の読者に幻想性を担保するための新しい手法を模索し続けた。このことを意識した上で次章に進んでほしい。
三、ロマン主義者の夢想
前章では、謎の幻想性を担保するために本格ミステリーではシュールレアリスムの技法を用いたことを説明した。しかし綾辻行人の反論はもうひとつ残っている。壮大な謎がハリボテだったと知れば、読者は幻滅するのではないか。幻想が美しければ美しいほど「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という句の通り、本格ミステリーはこけおどしに過ぎないという想いを読者に抱かせるのではないか。
笠井潔は「探偵小説における幻想」で*8、探偵小説は鮮やかな論理によって幻想的な謎と解明後の現実を結びつけ、それによって読者は、それまで見慣れていた現実に新しい貌を発見すると指摘した。例えばポー「モルグ街の殺人」を読み終えた者は「絶対に安全であると信じられていた石壁に囲まれ内部から閉じられた部屋が、そのまま石造の巨大な棺桶に転化してしまう」(二三〇頁)新しい現実に出会う。「探偵小説とは、幻想を論理的に現実に解体する結果として、現実それ自体を幻想に変貌させてしまう奇妙な装置」(二三〇頁)だという。
混乱を避けるため、真相が明かされることで読者が再認識する新しい現実像のことを「夢想」と呼ぶことにしよう。夢想は、超自然ではない。また作品内では最終的な真相として提示され、それ以上の疑いがされない点で幻想でもない。読者が自身の生きる現実をみつめなおすことで見出す、批評的現実と呼べるだろう。
では、島田荘司作品に描かれる夢想とは、具体的にどのようなものか。巽昌章は『論理の蜘蛛の巣の中で』において*9、初期の作品では平凡な日常を前提に一個人が壮大かつ精密な犯行計画を誤りなく実行していたのに対し、やがて異様な悪夢的現実を描く方向へと変化したことを指摘している。
島田作品における夢想を大別するならば、個人の成長、奇跡的な偶然、未知の世界の三つがある。巽昌章が指摘した通り、初期の作品では一人の人間がその知能や財力を駆使し、およそ常人には信じがたいスケール感のある犯行を実現する。個人が旧弊や世間の常識を打ち破り、絶大な力を発揮する。
その一方で、例えば『北の夕鶴2/3の殺人』(一九八五年)における鎧武者の写真のように、信じがたいほどの奇跡的な偶然が描かれる作品群がある。確率の低い現象を目にしたとき、それが超自然ではないことを理解していても非現実的な印象を受ける。
やがて島田は悪夢的現実の探求へと乗りだす。読者はそれまで知らなかった外部の世界、未知の文法が現実として成立している世界に触れる。『ネジ式ザゼツキー』(二〇〇三年)の御手洗潔はほぼ研究室にいながらにして、虚構と脳科学と異国の事件を接続してみせる。日常現実の文法が物理的現実によって破壊された超現実的光景は、探偵役がたぐり寄せる大量の情報によって未知の世界との接触という夢想へと転じる。
島田作品の多くに通底しているのは、世間の抑圧から個人の解放を訴えるロマン主義だ。初期作品では、それは怪物のごとく成長する犯人という形で表現された。しかし九〇年代、バブル崩壊とそれに続く国内経済の長期低迷に呼応するかのように、島田は犯人を成長させるのではなく、未知の世界との出会いによって読者を成長させる新しい戦略を編みだしたのではないだろうか。
四、幻滅がもたらすアクチュアリティ
対談を通して綾辻行人が本格ミステリー論に抱いた疑問は、少なくとも一九九一年の時点では妥当なものだったろう。しかし前章までに見てきたように、島田は実作を以て綾辻に反論してきた。謎の幻想性を担保するため、幻想文学の手法だけに固執せずシュールレアリスムの技法を利用した。謎解きが幻想を枯れ尾花へと変えることのないよう、未知の世界との出会いによって読者の現実認識を拡張させ、ロマン主義的な夢想を描いてきた。
では、綾辻のほうはどうか。果たしてコードの多用から幻想は生まれうるのか。高度な幻想表現には不向きだと島田に批判された「器の本格」で、綾辻は自身の幻想観をどのようにして表現したのか。そもそも、その幻想観はどのような時代状況を背景としていたのか。
島田荘司は『本格ミステリー宣言Ⅱ』で*10、幻想と現実は二項対立ではないという綾辻の指摘に同意している。島田は「むしろ綾辻氏が、生首や美少女や霧の豪邸などという、日常と大きくかけ離れた、常人の手の届かない高み」(六四頁)を幻想と捉えている理解していたのだという。幻想とは「日常のうちにさりげなくあって、各自は知らずそのなかで生きている」(六四頁)と考えていた島田は、それを『眩暈』で実践する。しかし、綾辻は『眩暈』を認めなかった。
なぜ「豪壮な館や生首の方がむしろ日常と近距離の私的幻想」になりうるのだろうか。綾辻行人であれば豪壮な館に住んでいてもおかしくはないが、それほど普段から生首と接しているとは信じがたい。ここで綾辻のデビュー作『十角館の殺人』(一九八七年)に目を向けてみよう*11。大学の推理小説研究会のメンバーを乗せ孤島に向かう漁船で、登場人物の一人が社会派推理小説を批判し、コードを多用する「器の本格」こそ理想と宣言する。
しかし円堂都司昭は、第六回創元推理評論賞を受賞した「シングル・ルームとテーマパーク――綾辻行人『館』論」で*12、この宣言がミスディレクションとして機能していたことを指摘する。確かにこの作品は一世代前の社会派推理小説が描いてきたリアルには目を向けなかった。だが代わって、個室に自閉し他者との関係が希薄な八〇年代的若者像が描かれていた。
島田荘司が満を持して放った『眩暈』を「自分と考えが違う」とした綾辻が、ある作品については「構図に気づいた時の眩暈感は圧倒的で……。あの感覚というのは、一生に何回も味わえるものじゃないですね」(六四八頁)と述べた*13。竹本健治『匣の中の失楽』(一九七八年)だ。この作品が刊行されたのは『十角館の殺人』の十年近くも前だが、見過ごせない共通点がある。
探偵小説マニアの若者たちが、仲間の一人の死を巡って推理較べをしようとする。中井英夫『虚無への供物』にならい、推理に課す戒律を決める。万人が納得できる解決であること、偶発性のない計画的犯行であること、共犯者がいないこと。理想的な探偵小説像を熱っぽく語りあう彼らはしかし、やがてその理想像から遠くかけ離れた現実に翻弄される。人形に関係する名を与えられた若者たちは、虚実の境界さえ曖昧な霧のなかで暗合に踊らされる。
探偵小説特有のコードで過剰に装飾された探偵小説的理想像はしかし、叙述的な仕掛けを通じて密室に紡がれた夢、現実の不合理から目を逸らした仮想現実に過ぎなかったことが暴かれる。この点で、綾辻は竹本に幻想観を重ねている。だが注意してほしい、ここで竹本や綾辻が描いた幻想とはどのような意味での幻想なのか。
なるほど、島田の指摘通り「器」を継承することは独創性に欠け、幻想の効果が薄れていくかもしれない。生まれて初めて目にする生首には、日常的現実という文法を破壊するだけの物理的現実という暴力がある。しかし、たとえ紙の上であろうとそれがあっちにごろり、こっちにごろりと蹴躓くほどに転げてしまえば、もはやそれはあからさまな虚構と化し生々しさを失ってしまう。
だが同時に、コード化された生首は虚構の代名詞となる。物語内現実に生きる登場人物が生首を目にし、それをコードとして意識するとき、読者は現実に虚構が混ざりこんだかのような眩暈を覚える。虚構を虚構として対象化し、距離をとろうとする態度が、むしろその幻滅を通じてアクチュアリティを獲得する。
例えば、あなたが宿泊した旅館の別室で殺人事件があったとする。テレビドラマでしか見たことのないような大量のパトカーや鑑識官らの作業を目にしたとする。そのとき、まるで推理小説のようだ、ミステリドラマのようだと思わずにいることができるだろうか。もしもコードがコードとして形式的に用いられるだけならば、確かにそこに幻想はない。しかし、作中人物がコードをコードとして意識したとき、そこには現実が虚構と化してしまったかのような錯覚が生まれる。
端的に云えば、こうだ。綾辻にとっては「器の本格」こそが幻想だった。それは幻想文学における超自然的解釈へのためらいでも、島田荘司が利用したシュールレアリスムの技法がもたらす日常現実の破壊でもない。探偵小説的理想像が、ミステリそのものが虚構であり私的幻想に過ぎないというニヒリズムだった。虚構が虚構に過ぎず、物語内現実に没頭できない世代が見出した新しい幻想感覚だった。
島田の指摘通り、独創性に乏しいコードから幻想は生まれない。しかしそんなことは百も承知で綾辻はむしろその虚構性を逆手にとり、仮想現実を現実として生きる自閉した若者たちの姿という夢想を描いた。幻想を描かず、現実を直に夢想へと転じさせ、逆説的に読者の現実を幻想へと反転させた。
かりにも奇想の提唱者が、コードを単なるコードとみなす常識的な思考の枠組みに囚われ、後進世代の想いを理解できないまま現在に至っているのだとしたら、それはあまりにも笑えない皮肉だろう。
虚構を現実の鏡として物語内現実に没頭する自然主義文学の考え方からすれば、虚構を虚構として意識し幻滅する感覚は、奇異に感じられるかもしれない。しかしこの幻想観は、決してミステリというジャンル内の突然変異ではなく、ミステリ以外の文学領域にも広く影響している新しい想像力であることを、東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』で指摘している*14。
大塚英志『キャラクター小説の作り方』を踏まえて東は次のように云う。まんが・アニメに描かれるキャラクターは記号に過ぎない。それでいて、傷つけられれば血を流す生身の身体を描こうとする自然主義文学の夢をみている。自然主義文学はありのままの現実を写生する「透明」な言葉で主体と世界を直面させる。それに対し、自然主義文学の夢をみるまんが・アニメの表現をとりこんだキャラクター小説の言葉は「半透明」だという。
例えば、読者と等身大の日常を生きるはずの主人公が世界規模の問題へと直結するセカイ系作品は、このような言葉の「半透明」性に支えられていると東は指摘する。日常の崩壊を自然主義文学の手法で描くには膨大な手続きが必要となる。しかし、まんが・アニメ的リアリズムの「半透明」な言葉ならば、荒唐無稽な物語を大胆に描くこととキャラクターに感情移入させることを両立できる。
東はテーブルトーク・ロールプレイングゲームの方法論や、ひとつの原作から無数の二次創作が生まれる同人誌の市場を踏まえて、物語がたったひとつの終わりに束縛されることなく、キャラクターが別の物語を生きた可能性を想像されるメタ物語的な想像力の拡散が進行していると指摘する。そのような状況において、物語を無数の選択肢がありえたゲーム展開の一シナリオに過ぎないとみなすメタ物語的な読者を、いかにして物語にひきこめるかが問題となる。
その答えとして東は美少女ゲーム『ひぐらしのなく頃に』(07th Expansion)にみられる感情のメタ物語的な詐術を説明する。メタ物語を物語に持ちこむことで、メタ物語的状況を生きる読者はそのメタ物語を生きるキャラクターに感情移入することができる。
なにやら小難しく思えるが、法螺吹きたちの基本戦略はなにも変わっていないことに気づいてほしい。科学精神と合理主義の浸透が不充分だった時代には、超自然的解釈へのためらいが幻想として成立した。経済成長を遂げ、大量の物と情報にあふれ安定した日常が確立した時代には、物理的現実に日常が破壊される超現実が幻想として成立した。そしていま、物語が過剰に供給され創作の神秘というオーラを喪失した現代においては、また別のなにかが幻想として成立しつつある。
小説は現実の鏡でしかなく、幻想概念は時代に応じた現実概念の変容に応じて変わり続ける。目を見開き続けなければ私たちはなにが現実であり、なにが幻想なのか変化を追い続けることができない。ただ、それだけのことだ。
五、奇想の現在
ここまで、島田荘司による「器の本格」批判を起点とし、それへの綾辻行人の反論を踏まえて幻想観の変遷を見てきた。幻想文学で描かれてきた超自然的解釈へのためらいは、謎の合理的解決が約束されたミステリでは幻想性を担保できない。島田は代わりに、日常的現実の文法が物理的現実によって破壊されるシュールレアリスムの技法を利用した。さらに幻想をロマン主義的な夢想へと転じさせることで、謎解きが幻滅をもたらすことを防いだ。
このようにして実現された本格ミステリーは、しかし異なる幻想観を有する綾辻には受け容れられなかった。パターン化された「器の本格」をむしろ虚構の代名詞とし、探偵小説的理想像が私的幻想に過ぎないことが叙述の工夫によって暴かれる作品を完成させた。超自然対現実。物理的現実対日常的現実。虚構対物語内現実。これら時代状況に応じた幻想観の変遷を踏まえたうえで、山口芳宏の作品を紹介したい。
山口芳宏は『雲上都市の大冒険』(二〇〇七年)で第十七回鮎川哲也賞を受賞しデビューした。昭和二十七年、雲海に浮かぶ鉱山街を舞台に、白いスーツの名探偵と義手をつけた学生服の男が荒唐無稽かつ痛快至極な冒険活劇を繰り広げる。脱力するほどのくだらない冗談に血道をあげつつ、実在した鉱山街を取材することでリアリティを確保し、手に汗握る危機的状況を描き読者をシリアスにさせる。不調和の調和とでもいうべきメリハリとバランス感覚が優れたエンターテイメントを成立させている。二〇一一年六月には〈大冒険〉シリーズ第三作『蒼志馬博士の不可思議な犯罪』が刊行されている。
ここでは講談社ノベルスから刊行された作品について論じる*15。こちらは現代を舞台に『雲上都市の大冒険』に登場した学生服の男、真野原玄志郎の孫が探偵役を務めている。『学園島の殺人』(二〇一〇年)を中心に説明するが、まずはその前に比較として『妖精島の殺人』(二〇〇九年)を紹介したい。
...「CRITICA」第6号に続きます...